2022年1月21日
『私の親鸞』&『考える親鸞』刊行記念対談
私たちはなぜ親鸞に魅了されるのか
昨年10月、新潮選書から親鸞聖人を論じた2冊の本が刊行されました。ひとつは、五木寛之氏の『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』。その出会いから50年以上親鸞を追い続けてきた作家による半自伝的親鸞論です。もうひとつは、近代仏教研究者・碧海寿広氏の『考える親鸞 「私は間違っている」から始まる思想』。近代以降の論客たちが、いかにして親鸞の魅力や影響を語り続けてきたのか――それぞれの親鸞論を読み解いた一書です。その両者が、あらためて親鸞の魅力を語ります。
もうひとつの『坂の上の雲』
五木 碧海さんがお書きになった『考える親鸞 「私は間違っている」から始まる思想』を興味ぶかく読ませていただきました。たまたまですが、私が書いた『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』と同じタイミングで新潮選書から発売になりましたね。
碧海 ありがとうございます。これまで五木さんが親鸞について書かれた本をほとんど読んでいたので、大変光栄に思っています。とりわけ小説『親鸞』(講談社文庫)は、親鸞小説の傑作と言えるのではないでしょうか。
五木 私は小説を書く人間ですから、「考えないで」親鸞を書いているところもある(笑)。はたして研究者である碧海さんのお話の相手を務められるか、心配なところもありますが。
碧海 いえいえ(笑)。五木さんの『私の親鸞』を読んで印象に残ったのが、「学ぶほどに親鸞が遠ざかる」とお書きになっている箇所です。つまり学者や知識人によって書かれた親鸞像を「まぼろしの親鸞」と感じることもあり、少し違和感を覚える。そこからこぼれ落ちる肉体的な存在感をともなった親鸞の姿こそ知りたいと。
五木 違和感というほど大げさなものではないんです。親鸞には「知の親鸞」と「情の親鸞」と言えるようなふたつの貌があるのではないか、その両者の相克のなかに「ほんとうの親鸞」の姿が浮かび上がってくるのではないかと昔から考えていたものですから。
碧海 私の『考える親鸞』は、まさに「知の親鸞」に焦点をあてたというか、明治の清沢満之をはじめ、暁烏敏、近角常観といった浄土真宗の学僧から、三木清や田辺元といった哲学者、倉田百三や吉川英治といった文学者まで、それぞれの親鸞論を取り上げました。
五木 私も今名前を挙げられた人たちの著作をいくつか読んでいますが、明治から今日に至るまでの「親鸞論」を総論としてまとめているものは意外になかったように思うので、その意味でも碧海さんのご本は新鮮でした。
碧海 ありがとうございます。
五木 日本の知識人たちが親鸞という存在をひたむきに追求してきた、その流れがよくわかる一冊ですね。もう50年ほど前になりますが、私は金沢にいたことがあって、そこは暁烏敏と縁の深い土地ですから、あちこちでその存在を意識させられることになります。タクシーの運転手さんや芸者さんが、「うちは若い頃、暁烏さんの話を聞いたがや。面白いおっさんやった」と親しみをもって語るわけです。何か冗談を言っては自分で大笑いする人だったとか、街の人の声がまだ生きている。それを活字で追体験できたような気がして、とても面白かったです。
碧海 それは嬉しい感想です。
五木 碧海さんは1981年生まれということですから、今年(2021年)40歳。まだまだお若いわけですが、親鸞を研究する上で、どなたか先導者というかお師匠さんはいらっしゃったのですか?
碧海 近代仏教をメインに研究しているのですが、親鸞について直接教わった先生は特にいません。私は実家が浅草にある真宗大谷派の寺院なのですが、自分自身は大学の経済学部に進んで特に仏教と関係のない勉強をしていました。仏教や親鸞については、実家の影響というよりはとにかく本を読むことから始めました。
五木 『考える親鸞』で取り上げた人たちのなかで、とりわけ興味を惹かれた人物は、たとえばどんな?
碧海 私自身が本格的に近代の浄土真宗を研究するきっかけにもなった、近角常観でしょうか。近角が創建した東京の本郷にある求道会館の資料整理に携わったことで、近代以降に親鸞がどう語られてきたのかを深堀りするようになり、それが今に至る研究の入口にもなりました。
五木 近角の求道会館もしかり、清沢満之の私塾である浩々洞もしかり、明治の青年たちが生きる指針を仏教に求めて集まる、その熱気は相当なものだったのではないでしょうか。仏教を中心とした「もうひとつの『坂の上の雲』」と呼べるような精神的なムーブメントが、この国にはあったことが資料を読むと伝わってきますね。
碧海 まさにそのあたりのムーブメントを調べることが、近代仏教研究の中心課題でもあります。
五木 明治の仏教というと、どうしても廃仏毀釈を思い浮かべてしまいます。神道が「国教化」されていくなかで、仏教が衰退し、破壊されていったというイメージが拭い難くある。けれども歴史を詳しく追ってみれば、そう単純ではないですね。一方では、清新な仏教運動の波が全国に広がっていったことも事実としてある。
これも金沢にいたころですが、近郊の人に話を聞いたことがあるんです。夕方になると村中に太鼓の音が鳴り響き、村の老若男女が今で言う公民館のような場所に集まってくる。そこでは求道問答というか、熱気あふれる討論会が繰り広げられ、あたかもお祭りのような雰囲気だったと。それだけ仏教や親鸞が身近にあったということでしょう。このような中央の官僚や知識人が先導するのではない、精神的なムーブメントが全国に熱病のように広がっていった。その中心としてあったのが、ある時期までは仏教だった。
碧海 確かに日本仏教史を辿ると、明治で終わってしまうパターンがありますね。中世の鎌倉新仏教がピークで、江戸時代には檀家制度や寺請制度があり、それが廃仏毀釈で終わるという。それ以降のことはあまり語られないことが多いのですが、おっしゃる通りで明治の仏教というのは、なかなかどうして熱い世界なんですよ。思想的にも「良い線を行っていた」と思います。
五木 熱い世界だったし、良い線を行っていた。北陸から東北、九州まで全国をあちこち旅をして回って話を聞いたことがあるのですが、本当にそんな空気があったことがわかります。
碧海 求道会館には、全国から近角常観に送られた手紙が残っています。それを読むと、門徒さんたちの思いは熱く、近角に道や救いを求めている様子がありありと見えてきます。そこには、近角や清沢満之が書いた文章とは少し違う、市井を生きる人々の生活実感を伴う信仰心があり、「ああ、当時はこういう世界もあったんだ」ということを肌で感じられたのは大きかったですね。
五木 司馬遼太郎さんが書かれたような、文明開化の時代に国家と国民が新しい国を作ろうという動きが、日本近代の表通りの青春だとしたら、仏教を中心とした精神的なムーブメントは、もうひとつの「坂の上の雲」でしょう。それについて誰か書かないかなあと思っていたところだったので、その意味でも『考える親鸞』を興味深く読みました。
宮沢賢治と親鸞
五木 宮沢賢治はどうでしょう。私はずっと彼のことを一つの課題だと思って考えてきました。賢治は日蓮宗の僧侶だった田中智学(後に還俗)に感化され、智学がつくった在家仏教集団の国柱会に入信し、法華信仰を強めていきますよね。でも生家は浄土真宗の檀家で、父の政次郎は熱心な門徒でした。彼も幼い頃は、『正信偈』や『白骨の御文』を暗唱していたと言います。それがなぜ途中で法華信仰に改宗したのか。
碧海 それについてはいろいろな説がありますよね。
五木 それこそ暁烏敏が家に呼ばれて法話をしたり、かなり熱心な門徒だったのになぜ宗旨を変えたのか。ひとつの宗教に入ることよりも、それを捨てて改宗することのほうが何倍もエネルギーが要るはずです。あれはどういうことなんでしょうね。いろいろな説を聞いたり、読んだりしてもよくわからないところがある。
碧海 私が納得したのは、父子関係のもつれではないかという説です。賢治は父が信仰した浄土真宗的な世界から離脱したかった。宗派を改めることで、父と距離を取りたかった。妹のトシも近角常観のもとに通いながら浄土真宗に帰依することができず、兄と共に国柱会に入信します。私も真宗の寺に生まれたので、その辺の気持ちが少しわかるところもあるんです。今は仏教の研究を生業にしていますが、若い頃はお寺そのものの世界観を引き継ぐ気持ちになれず、距離を取りたいと思っていたので。
五木 なるほど。父との相克が主な理由ではないかということですね。
碧海 ただ、賢治が国柱会的な日蓮主義にどっぷりはまって活動していたのは間違いのないことですが、彼の作品を読む限り、そこにどれだけ法華信仰、日蓮主義的なものがあるのかというのは微妙なところですよね。彼の内面でどう仏教が昇華されたのか。幼い頃から染みついた浄土真宗的な影響から完全には脱し切れず、いろいろ混じり合っているのではないかとも思います。
五木 これは独断ですが、私は隠し念仏の影響が大きいのではないかと思っているんです。賢治は詩人である一方で、大学では農学を学び、農学校の教員も一時期務めた。肥料について科学的に研究するなど、合理主義者でもあった。考え方がきわめて理論的なんですよ。
しかし、故郷の岩手県、特に水沢(現・奥州市)あたりに広まっていた隠し念仏というのは、非常に呪術的かつ神秘主義的な雰囲気がある。私も深夜に行なわれる「オトリアゲ」「オモトヅケ」という儀式に参加したことがあるのですが、一種独特で異様なムードでした。そのどろどろとした土俗的な因習、おどろおどろしい雰囲気が賢治は嫌でたまらなかったのではないか、そんなふうに思えて仕方がないんです。作品世界はともかく、彼自身は早くから蓄音機で西洋音楽を聴き、タイプライターやエスペラント語まで学ぶ、ある意味で近代人だったわけです。その賢治からしたら、隠し念仏のような雰囲気を生理的に受け付けなかったんじゃないかという気がしています。
碧海 隠し念仏の儀式というのは、そんなに呪術的・神秘的なものなのですか?
五木 私が参加したときのものは、そうではなかった。子供が小学生に上がる頃に行なわれる「オモトヅケ」という儀式があるのですが、子供に向かって「学校に行ったら先生の言うことをよく聞いて、嘘をつかずに正直にやりなさい」とか、非常に世俗的で常識的なことばかりを懇々と言い聞かせるわけです。私はもっと秘教的なものがあるかと思っていたのですが、そうではありませんでした。もっとも賢治の時代とは変わってしまったのかもしれませんが。
碧海 割と淡々としているというか、素朴な感じなのでしょうか。
五木 そうですね。ただ、真宗の本山とは切れていることは確かで、隠し念仏が歴史的に秘教的な存在だったのは間違いないんです。
碧海 彼らは親鸞聖人のことは信奉しているんですか?
五木 大切にしていますね。ある意味で純正親鸞主義みたいなところがあるかもしれない。
碧海 とても面白いですね。『私の親鸞』では、南九州の鹿児島や宮崎あたりに残る「隠れ念仏」についてお書きになっていましたが、そうした真宗の裏街道というか、実生活にきちっと根付いた部分にも触れているところが、五木さんの親鸞論が魅力的な理由でもありますね。
知性という「業」
五木 13世紀初頭に起きた「承元(建永)の法難」によって、法然を中心とした念仏を信奉する一派が中央の仏教界から放逐されますよね。弟子の親鸞も僧籍をはく奪され、越後に流罪となります。赦免後に親鸞は現在の茨城県に向かい、そこで布教をします。関東時代の親鸞にくわしい筑波大学名誉教授の今井雅晴さんの著書を読むと、非常に面白いことが書いてあります。
当時の関東といえば「未開の地」というイメージがありますが、そうではなかったと。鹿島の港があるため海運が盛んで、京都に負けないぐらいの経済力と文化的な繁栄があったというのです。明からの船が頻繁にやって来ては、当時最新の文化や技術を伝える一大情報センターだったと。その頃から執筆にかかっていたという親鸞の主著『教行信証』の独特の文章スタイルも、当時の明で流行していたものではないかという説もありますね。つまり親鸞は流罪後、関東の田舎に乗り込んだのではなく、最新の情報が集まる地で敏感にアンテナを立てて、貪欲に知識を吸収していたと。
碧海 それは面白い観点ですね。『私の親鸞』でも『教行信証』についてお書きになった部分が印象に残っています。親鸞がそれまで培ってきた仏教の学問的知識をデトックスというか、全部吐き出すようにして書いたのが『教行信証』ではないかと。
五木 師匠思いの親鸞ですから、法然の「赤子のように痴愚になれ」という言葉がずっと頭にあったのではないかと思います。しかし赤子のように「痴愚」になろうといくら努力しても、幼少の頃より叩きこまれてきた経典の一言一句が脳内に浮かび上がってきてしまう。そのいかんともしがたい業のようなものがある。そのインテリジェンスをいかに捨てて痴愚になるか。親鸞にとっては大きな課題ですよね。しかし、それまで背負ってきたものを簡単に捨てられるものではありません。親鸞は『教行信証』を執筆することで、それを清算しようと思ったのではないか。自らの内面を掬い上げて、それまでの自分と決別しようとしたのではないか。小説家の妄想ではありますが、そう感じたのです。『教行信証』は、浄土仏教を仏教史の文脈のなかで正統化しようと試みたものではないかというのが、一般的な考えのようですが。
碧海 私も五木さんの考えに近い感覚を抱いています。どうも親鸞には、いくつかの貌、人格のようなものがありますね。それを「業」と言ってもいいかもしれません。そのひとつの側面が「知の親鸞」で、知的なものを探求してしまう性格から逃れられない。一方で、ひたすら無垢に念仏だけ唱えていれば救われるというのが「愚の親鸞」でしょう。ずっとその双方に引き裂かれていたような気がしますね。
五木 たしかにそれは「業」と言えますね。飛び抜けて深い「知性の業」を抱えていた人。
碧海 親鸞は「理と情」「知と愚」の両方を常に往還していたというか、五木さんも親鸞は非常に知的かつ論理的な人だけど、そこから滲み出る情念に強く惹かれるとお書きになっていましたね。
五木 必ず「なぜならば~」と続きますからね。ある概念や物事をそのまま受け入れるだけではなくて、かならず「なぜ」「どうして」を頭で考え、論証せざるを得なかった。
碧海 非常に論理的に物事を考える人ですよね。
五木 親鸞が飛び抜けて知的な人だったことは間違いない。同時に、飛び抜けて痴愚にもなろうとした。その両極に引き裂かれた内面の葛藤やドラマは、大変なものであっただろうと思います。
碧海 近代の知識人たちが、こぞって親鸞に惹かれたのもその部分だと思います。どうしてもそこに自分を重ねてしまうというか。
五木 親鸞の人生というのは、自分の知性との格闘だったかもしれませんね。「法然にすかされても後悔せず」とまで言った、師匠の「赤子のように痴愚になれ」という言葉に愚直に従った。しかし、なかなか知性を捨て去ることができない。その格闘の連続だったのかもしれません。
碧海 大方の知識人や学者というのは、知識を蓄え、いかにその世界を把握して記述するかを目指すと思うのですが、なかには一定数そのこと自体に懐疑的になる人もいる。そうした人たちが親鸞を発見すると、中世にも自分と同じことを考えていた人がいたのかとグッとはまっていく。親鸞は知性を捨てて隠遁したわけではなく、振り切ろうとしても振り切れないものを最後の最後まで抱えていた。そこに多くの人が魅力を感じたのだと思います。
「陰キャラ」親鸞の魅力をいかに伝えるか
五木 碧海さんのご実家は真宗のお寺だということですが、若い頃から親鸞の存在を意識されていたのですか?
碧海 大学生の頃から『歎異抄』は読んでいましたが、本格的に研究するようになったのはもっと後のことです。常にどこかでその存在は意識していましたが。ただ、20年ぐらい前の大学生で親鸞を読んでいる人なんて周りにいませんでした(笑)
五木 お書きになっているように、明治、大正の頃の学生は、親鸞を熱狂的に読み、語っていたわけでしょう。帝国大学(現・東京大学)でも新仏教運動が盛んで、座右の書として『歎異抄』が人気だった。
碧海 はい。仏教や『歎異抄』を語ることがファッショナブルな時代が確かにあったと思います。大正時代に倉田百三の『出家とその弟子』がベストセラーになったのが象徴的ですが。ただ、その波は戦後になってスーッと引いてしまいました。私も大学で今の学生にどう仏教を伝えればいいのか思案し続けていますが、難しいですね。仏教と聞くと、漠然と「昔のもの」というイメージしかなくて、アクチュアルなものとしては考えられていません。仏教を現在にも有効なものとして捉え返すような場所というか機会を何とかつくれないかと思っているのですが、なかなか難しいというのが正直なところです。
五木 一方で、禅は今でも人気がありますね。
碧海 はい。マインドフルネスが欧米で流行っていることもあって、現代日本の若者の関心も高い。真宗や親鸞については、衰えていく一方なのかなと。その意味でも、五木さんの存在は非常に大きいと思います。
五木 かつての節談説教のような俗流大衆路線というか、芸能的なものに落とし込んでも難しいし、それと思想的な啓蒙だけでは届かないような気がするんですよね。
碧海 私も節談説教を聞きに行ったことがあるのですが、ちょっと感覚的に合いませんでした。これがかつてのエンターテインメントだったというのはわかるのですが、はたして現代でも有効かというと、ちょっとわからないというのが率直なところです。個人的には、やはり知的かつ教養的なアプローチしかないのかなと。
五木 アメリカのキリスト教教会は、何万人も入るような会場で、洗練されたパフォーマンスを繰り広げていますよね。そこで牧師さんがスピーチをすると、ワーッと人々が足を踏み鳴らして熱狂する。
碧海 テレビやインターネットも布教のために上手く活用していますよね。「テレバンジェリスト(televangelist)」という言葉もあるぐらいで。
五木 あれを日本で仏教でもできないかと思うのですが、親鸞は孤独に思索するというイメージの人ですから、ちょっと合わないかな(笑)
碧海 確かにそうですね(笑)。親鸞の深みというか暗い感じというのは、なかなか伝えるのが難しいかもしれません。
五木 陰と陽で言えば、間違いなく陰ですから。
碧海 その陰の魅力をどう伝えるか。
五木 肖像を見ても、かなり険しい表情をしていますね。
碧海 確かにとっつきづらい部分はあるかもしれません。でも、私のように一度親鸞の魅力にはまった人間には、棘のように刺さるというか、抜き難くなる。そんなにたくさんの人には伝わらないかもしれませんが、親鸞の思想に魅力を感じる人間はいつの時代も一定数あり続けるような気もしています。
五木 私自身には、親鸞の思想や存在を多くの人々に普及させようとか、伝えようとかという義務感はないんです。ただ、その中でも伝わってくるのが思想的な部分ばかりで、そこに抵抗を感じるところもある。「隠し念仏」 、または節談説教のように徹底的に情に訴えるものも、少なからず現在にも残っているわけですから、そこを無視してもいけないと思う。特に戦後、本山の教学関係の人が厳格に親鸞とその思想を知的に掘り下げてきたのもわかるのですが。例えば、経済の分野にも親鸞思想が今後影響してくる可能性もあると思います。最近いわれる「利他」という言葉もそうだし、仏教的資本主義という可能性もあるかもしれない。
碧海 かつて経済学者のシューマッハが「仏教経済学」というものを提唱しましたよね。確かにあちこちで資本主義の行き詰まりが叫ばれる昨今で、仏教にヒントはあるかもしれません。ただ、親鸞はどうでしょうか……。
五木 マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の親鸞版は難しいでしょうか。インドでは「マイクロ・ファイナンス」と呼ばれる小口融資がありますよね。そうした運動も、利他の資本主義のひとつの例だと思うのですが、その根底には仏教の思想もあるのではないでしょうか。
碧海 これまでのように仏教を宗教や思想の枠のなかだけで捉えていると、ジリ貧な感じがしますが、確かに経済などの分野と接続することで新たな側面が生れてくるかもしれませんね。
非僧非俗について
五木 碧海さんの『考える親鸞』でも言及されていましたが、親鸞の「非僧非俗」についてはどう思われますか?
碧海 直接的には、先ほども触れた「承元(建永)の法難」で僧籍をはく奪されたため、止むを得ずという側面がありますよね。ただ、それだけではなく親鸞の自覚として、戒律を守るなどきちんとした僧侶として生きる難しさや不可能性を突き詰めた結果至った境地でもあるかと。もともと仏教は「サンガ(出家者の集団)」で暮らし、修行に集中することが求められたわけですが、中世の日本ではそう簡単にはいかない。親鸞は、俗に生きるということをあらためて考えたかったというか、そこで救われるとはどういうことかを突き詰めて考えてみたかったのではないかと思います。その結果として「非僧非俗」というスタンスに行き着いた。近代以降の知識人たちが鋭く反応したのもその部分でしょう。純粋に僧侶の立場を貫いて俗世と離れて生きるのも、かといって完全に俗に没し切るのも難しい。「非僧非俗」というと中途半端に聞こえますが、中途半端なりに俗世で救われるとは何かを徹底的に追求した親鸞の姿勢が、後世の人間にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
五木 いわゆる「僧に非ず、俗に非ず」という考え方ですね。
碧海 はい。仏教史のなかでも、そのこと自体を追求することが非常に珍しかったのではないでしょうか。
五木 なるほど。私は親鸞の「非僧非俗」には、もうちょっと違う側面があるだろうと勝手に想像しているんです。どうしても発想が小説家だから笑われてしまうかもしれないのですが。
碧海 ぜひお聞かせください。
五木 当時の世の中には、僧と俗、そして非人という大きく分けて三つの階級がありました。当時の僧は今で言う国家公務員で、俗というのは一般の庶民。ところが、その下に非人という階級もあった。社会の下層、聖と俗と離れたところで生きている人たちがいた。親鸞の「非僧非俗」というのは、僧と俗の中間ということではなく、そのどちらでもない、つまり自ら非人であると宣言したのではないかという。
碧海 アウト・カーストということでしょうか。
五木 はい。親鸞は自ら「愚禿」と名乗りました。「禿」というと現代ではその漢字のイメージから「頭髪の薄い人」というイメージがありますが、そうではなく、「禿頭」というのは、髷を結わない長髪のこと。いわゆるざんばら髪ですね。それは当時の非人たちの髪型でもあった。
碧海 五木さんのイマジネーションだとしても、そのスタンスを近現代にあてはめるとどうなるかを考えると興味深いです。
五木 インドのカースト制度には、聖職者のバラモン、王族や貴族のクシャトリア、商人階級のヴァイシャ、農民たちのシュードラがあり、さらに「不可触民」と呼ばれるカーストの外に属する人たちがいますよね。親鸞の「非僧非俗」というのは、僧でもなく俗でもない。では何だというと、「われは第三階級の非人、禿の世界なり」と。
碧海 そのお考えを現代にあてはめて考えると、普通に想定されている生き方の外側をいかにして追求するか、というように翻訳可能だとも思います。私は研究者ですが、学術的に親鸞をどう正確に理解するか以前に、親鸞の思想や可能性を現代にどう活かすかを考えた場合、そのような豊かな想像も大いに展開していくべきだと思います。その意味でも、五木さんの小説『親鸞』はとても興味深いところがあります。
五木 想像力で物を言うと、「面白い考えですね」と言われて終わっちゃうことが多いのですが(笑)
碧海 「面白い考え」こそ大事だと思います。作家の想像とおっしゃいますが、親鸞がアウト・カースト的な立場に立ったのではないかという視点は、現代にも大いに響くところがあると思います。現代でも「正しくて豊か」とされる価値観や生活から外れてしまう生き方をせざるを得ない人はいるわけで、そういった人たちにも親鸞は寄り添ってくれる――それは極めて現代的な親鸞像だと思います。今日いろいろと話をうかがって、五木さんの親鸞像というのをもっと深く考えていきたいと思うに至りました。
五木 私も碧海さんの『考える親鸞』を読んで、自分がこれまで親鸞について勝手に考えて書いたり話したりしてきたと思っていたけど、清沢満之や暁烏敏をはじめ、近現代以降の人たちが親鸞について考えてきたことを相続してきた部分もあったのだということをしみじみと再認識することができました。彼ら先人たちの作品を、もう一度きちんと読み直そうと思います。
碧海 まさにそのような意図で書いたものなので、そうおっしゃっていただいて光栄です。
五木 やはり脈々と受け継がれてきたものがあるんですよね。それを見なかったことにしてはいけないと。社会主義的な親鸞像や戦後民主主義的な親鸞像とか、いろいろあってしかるべきです。明治、大正、昭和と親鸞を語ってきた人々には、それぞれ精神的な彷徨があり、だからこそ親鸞に救われてきた。それを経た上で、今私たちの目の前に親鸞がいる。そのように親鸞に対する考えが、どんどん深まっていけばいいと思います。
(了)
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五木寛之『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』
2021/10/27
公式HPはこちら。
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五木寛之
1932(昭和7)年、福岡県生まれ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『はじめての親鸞』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。
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碧海寿広
1981年東京生まれ。近代仏教研究。武蔵野大学准教授。慶應義塾大学経済学部卒、同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員などを経て、2019年4月より現職。2013年、第29回暁烏敏賞・第一部門(哲学・思想に関する論文)入選。著書に『近代仏教のなかの真宗』(法藏館)、『入門 近代仏教思想』(ちくま新書)、『仏像と日本人』(中公新書)、『科学化する仏教』(角川選書)等がある。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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著者プロフィール
- 五木寛之
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1932(昭和7)年、福岡県生まれ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『はじめての親鸞』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。
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- 碧海寿広
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1981年東京生まれ。近代仏教研究。武蔵野大学准教授。慶應義塾大学経済学部卒、同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員などを経て、2019年4月より現職。2013年、第29回暁烏敏賞・第一部門(哲学・思想に関する論文)入選。著書に『近代仏教のなかの真宗』(法藏館)、『入門 近代仏教思想』(ちくま新書)、『仏像と日本人』(中公新書)、『科学化する仏教』(角川選書)等がある。
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