穴を抜けて別の世界へ
〈まさに驚異、と申しますのは、収穫場面の展開する地下世界から戻ってきたかれは、われらが半球では冬の寒冷が持続しているのを発見したのです。〉
これは1209年から1214年にかけて書かれたティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』第三部の一節である。
イングランドのある豚飼いが、行方不明になった豚を探して洞窟に迷い込み、その奥に光溢れる広漠たる野原を発見する。なんと、そこでは小麦を収穫中だった。豚飼いは地球の反対側に出ていたのだ(『西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇』ティルベリのゲルウァシウス著、池上俊一訳 講談社学術文庫収録「アンチポデス(対蹠人)とかれらの土地」より抜粋)。
『皇帝の閑暇』はゲルウァシウスが各地を歩いて集めた伝承を記録したもので、『千と千尋の神隠し』のような映画の中だけではなく、穴を通って別世界を訪れる話が古くから伝わっていたことがうかがえる。
漁師が川を遡り、やっと人ひとりが通れるほどの洞窟を抜けると、そこに美しい別天地があった、と語るのは中国古代、東晋の詩人陶淵明が書いた『桃花源記』だ。日本でも、『神道集』に「諏訪縁起の事」として、甲賀三郎が穴に落とされ、地底にあるふしぎな国々を遍歴する逸話が出てくる。
つまり、何が言いたいかというと、イングランドでも中国でも日本でも、古来より、人間は穴を見ると、そのむこうに素敵な世界がありそうな気がしてしまう生きものだということだ。
千葉県の房総半島に穴があるという。それも、そこらじゅうに。
あまりに数が多く、その全てを把握している人間はたぶん誰もいない。いや、ひょっとしたら県庁の土木課みたいなところにいるのかもしれないけれど、とにかく豚飼いが迷い込み、漁師が通り抜け、甲賀三郎が冒険したような、通り抜けたら向こう側に何かいいことありそうな穴が、いくつも存在していることが知られている。
今回はそんな穴のいくつかを探索して、できれば向こうの世界に行ってしまって、そのままそこで幸せに暮らそうと思う。めでたしめでたし。
トンネルを掘った人たちはどこへ行ったのか
2月のある晴れた日、編集のシラカワ氏、カメラのスガノ氏とともに、君津駅から軽自動車をレンタルして出発した。以前、神社仏閣の装飾彫刻を見て回ったときも房総を車で旅したが、今回あえて軽自動車を借りたのは、穴が狭くて通り抜けられない可能性があるからである。
そうしてまずは、周辺に面白そうな穴が集中する小湊鉄道の月崎駅へ向かった。
房総半島内陸部は、自然が豊かで起伏も多いが、高い山がないおかげで陰にこもらず、風景が明るい。自然が威圧的でなく、人に優しい印象だ。
事前に調べておいた地図に従い、小湊鉄道と並行して走る狭い林道に入った。目指すのはこの林道にあるトンネルだ。
トンネルなんてべつに珍しくもなさそうだが、房総半島には素掘りのトンネルが無数にあり、ふしぎな雰囲気だという。そしてこの素掘りトンネルこそが、房総に無数にあるふしぎな穴の正体であり、そんなトンネルが、この林道には3か所もあるのである。3つもあれば、ひとつぐらいは異世界に通じているかもしれない。
路面には轍が残っており、使われている道ではあるようだったが、結構荒れていた。スガノ氏が慎重に運転する。
最初のトンネルは唐突に現れた。
短いトンネルで、出口が見えている。出口の向こうには林があり、とくに別世界には繋がってなさそうだった。
入口横の表示を見ると、柿木台第一トンネルとあった。長さは78メートル。明治32年(1899年・推定)に日本古来の「観音掘り」と呼ばれる方法で掘られた素掘りトンネルだそうである。「観音掘り」とは、観音さまを拝むときの両手を合わせた形からきた名称だろうか、穴が将棋の駒のような五角形をしていた。
素掘りのトンネルは日本中にあって珍しいものではないが、やはり78メートルも手で掘った手間と労力を思うと、大変な話だと思う。道なき道を独力で切り開いた○○権兵衛の物語、なんていって美談になってもおかしくなさそうなのに、この地では普通すぎて美談にならないようだ。
こんな素掘りトンネルが房総中に無数にあるというのだから、なぜそんなに掘りまくったのか理解に苦しむ。もちろん便利だからにちがいないとはいえ、たいして高い山もないのである。迂回してもさほど遠回りではなかったはずだ。
にもかかわらず、みんな掘りまくった。それはもう、掘りたかったから、と考えるしかないように思われる。そこには、ショートカット以上の魅力があったのだ。
トンネルを掘る魅力とは何か。
あるいは私は、ここで、こう問うてみたい。
トンネルを掘ったその大勢の人たちは、これほどの偉業を成し遂げたのに、なぜ記録に残っていないのか。彼らはどこへ行ってしまったのか、と。
つまり彼らは、自ら掘ったトンネルを通って、あっちの世界に行ってしまったのではあるまいか。そしてそれこそがトンネルを掘りまくった理由ではないのか。
柿木台第一トンネルの中には蛍光灯が等間隔に取り付けられ、その光が不連続に内部を照らしている。リングが幾重にも連なったようなその光景は、どことなくSFっぽかった。このなかを高速で通過すればハイパードライブが起動して、そのまま遠い世界へ転送されるということはないか。
まあ実際には、この程度のトンネルで行けるほど別世界は甘くないだろう。軽自動車で突っ込むと、そのまま通り過ぎてしまって、とくに転送されることはなかった。
狭い道を枯れ枝に擦られながら進むと、すぐに第2のトンネルが現れた。今度は「観音掘り」でない丸いトンネルで、その曲線が美しい。これも手掘りだろうか。
「宇宙戦艦ヤマトの波動砲みたいですね」
シラカワ氏がいった。
壁面に地層の縞模様が浮かんでおり、それが砲口の溝に見えるといえば見える。あるいはアニメでよくあるスピード感を表わすための線みたいにも見える。開口部はラッパのように開いて、まるで高速で何かが放出された痕跡であるかのようだ。いったい何が放出されたのだろう。
このあと第3のトンネルに向かったが、第3番は永昌寺トンネルという表示があって、これは「観音掘り」であった。一部はコンクリートで補強されており、いわゆる普通のトンネルっぽい。
2番目だけが、表示がなく名前がわからない。かつ、怪しい縞模様がある。となると、気になるのは2番目である。今は何ごともなく普通のトンネルに見せているが、何かをきっかけに作動するのではないか。やはりあの波動砲みたいな出口は、かつて何かが飛び出してきた痕跡ではないのか。
穴と妄想
妄想先走る旅になってきたが、実はこの程度の穴はまだかわいいほうであった。次にわれわれが見たのは、さらにファンタジー感あふれる穴である。
月崎トンネルといって、ほとんど車の通わない林道の奥にある。
軽自動車で林道に入ると、道は一応舗装されていたが、夏になれば道路脇から這い出した雑草に覆われてしまいそうな路面。そしてその先に、苔むしたトンネルが現れた。
トンネルはどういうわけか2つ連続しており、というよりも、ひとつのトンネルの天井が途中で抜けて空が見えているという風情。面白い形だった。
全体がシリンダーのようであり、通り抜ける立場からすると、ひとつめのトンネルを抜けたあと空から何か注入され、気圧や空間の成分などを調整したのち、2つめのトンネルであっちの世界へ転移するという、そういう仕組みにも見える。
さらには苔の緑色が、そのへんに妖精でも潜んでいそうな雰囲気を醸し出し、私の現実逃避嗜好はおおいに刺激された。
何よりふしぎなのは、トンネルを掘ってある山が、とても低いということだ。さきほどの柿木台第一トンネルよりも低い。それは丘ですらなく、ちょっと地面が高くなっている程度である。わざわざ苦労して穴を掘らなくても、坂道を作れば乗り越えられたのではないか。
それとも、トンネルを掘るほうが坂の造成より簡単だったのか、あるいはほかにどうしてもトンネルを掘りたい理由があったのか。
たしかに房総半島は大部分が砂岩でできており、掘りやすいようだ。そこらじゅう穴だらけなのも、簡単に掘れるからであり、トンネルを掘っても美談にならないのは、たいした苦労じゃないからだろう。
なので、地面が盛り上がって通行の邪魔だと思えば、すぐに穴を開ける習慣があったと考えることは可能だ。
だが、一方で、坂よりも穴を開けたいという欲望もなかったとはいえないのではないか。穴を開けた場合と上を乗り越えた場合では、たどり着く場所が違うかもしれない。そんなことを期待した可能性はないだろうか。そこまで考える人はいないとしても、穴を掘りながら、どこか別の世界を夢想して楽しんでいた、坂より穴のほうが面白いと感じていたなんてことはないだろうか。
中国では庭によく穴の開いた石が置かれる。穴はたくさん開いていればいるほどよく、ただ窪んでいるだけの穴より、向こう側に突き抜けた穴が上質とされる。
なぜ穴が開いた石が好まれるかといえば、それがまさしく別天地の象徴だからである。道教では聖地のことを洞天福地と呼び、洞窟は幸福をもたらす場所とされる。同時にこの「洞」は山を表わす場合もあり、つまりそれは神仙が隠れる場所ということである。
このような発想は日本には根付いていない。けれど、洞窟はただ暗い穴というだけではなく、ある種のユートピア、もしくはユートピアへの通路として考える文化があるのは事実であり、もともと人間の本能に近いところに、そのような嗜好が隠れているとも考えられる。だからこそ、昔から穴の向こう側の別世界というモチーフが世界中で繰り返し語られてきたのだ。
だとすれば、穴だらけの房総半島に別世界への通路を見る私の妄想も、あながち飛躍しすぎというわけではないはずである。
現実と異世界が交叉する
次に訪れたトンネルはさらに衝撃的だった。
月崎から小湊鉄道に沿って、養老渓谷へと南下し、温泉街の終わるあたりで渓谷沿いの主要道路から右に折れると、坂をあがるようにして進入する向山トンネルがある。
このトンネルに入った瞬間、上下に2つ出口が見えたのだった。
左右に2つなら驚きもしないが、上下に2つである。
なんとスペクタクルな景観であろうか。
まるでトンネル内で現実と異世界が交叉しているかのようだ。
道路は下の穴のほうへ通じていた。では、あの上の穴はいったいどこに通じているのか。
われわれはいったんトンネルを抜け、反対側から上の穴へのアプローチを試みた。トンネルを出て右の崖を戻るように登っていくと、たやすく上の穴の口に出ることができた。
スガノ氏は、もともとこのトンネルは上の穴に繋がっていたのではないかと言う。上の穴を出て、今われわれが登った崖を下るルートがかつてあったという推理である。
それがあるとき、トンネルの先の川に橋が架かることになって、その橋に滑らかに繋ぐためには、トンネルをもう少し深い位置に掘ればいいと気づき、床を傾斜させて下の穴を掘った。その結果、新しいトンネルは縦長になり、もともとあった出口の下に別の出口ができたというわけだ。説得力のある説に思われた。
おそらく役所に行けば真相はすぐに判明するだろう。だが、私としてはそんな普通の話は知りたくなかった。このまま異世界への通路っぽさを味わいつづけたほうが楽しいからだ。世界を楽しむには、何でもかんでも情報を入れ過ぎないことが大切である。
反対側からトンネルを見ると、共栄トンネルと表示されていた。幹線道路側は向山トンネルだった。このトンネルを通過することで、われわれは向山世界から共栄世界へ転移したのだ。
面白いトンネルがあるものであった。
まだまだ穴はつづく
われわれはこの後、濃溝の滝を見にいった。
最近急速に知名度があがって、人気の観光スポットになっている。どういう滝かといえば、これまた洞穴である。さほど深くないので、むしろ洞門といったほうが近いが、その中を川が流れ、洞内全体が小さな滝になっている。
正式には亀岩の洞窟といい、濃溝の滝というのはすぐそばにある小さな滝のことだそうだ。けれどなぜか、この洞窟が濃溝の滝として世に広まってしまっているらしい。たしかに亀岩の洞窟ではインパクトがない。濃溝という脳みそみたいな得体の知れない名前のほうが観光スポットの名前として、立っているように思う。
こういう形の洞門は日本各地にあって、多くは自然な浸蝕によるが、ここが珍しいのは、これもまた人工の穴という点だ。なぜわざわざ穴を掘って川を流したのか、その説明が看板に書いてあった。
簡単にいうと、蛇行する川を穴を掘ることでショートカットさせたのである。そしてショートカットにより、これまでぐるっと迂回していた川筋を水田に転用した。耕作地の少ない上総丘陵ならではの工夫で、こうした工事、または地形のことを「川廻し」と呼ぶらしい。ショートカットしたのだから、「川廻し」ではなく、「川廻さず」が正しいはずであるが、細かいことはいい。
江戸時代の初期には最初の「川廻し」が行われており、今では房総半島じゅうで穴の中を川が通り抜けている。看板には、こうした人工地形は上総丘陵のほか新潟にも見られると書いてあった。
ちなみに、ある時刻にこの滝を見ると、日光が穴に斜めに差し込み、その全体が川面に反射して、横倒しになったハート形に見えるらしい。展望所にはそれにあやかって、「幸運の鐘」なるものが設置され、世の恋人たちを呼び込もうという観光戦略が展開されていた。
「発想が昭和ですね」
シラカワ氏が見るなり辛辣に指摘した。
たしかにこれはいらない気がする。そうやって何か作らないと観光客は呼べないと思っているのだろうか。あの「幸運の鐘」を見に行こう、「幸運の鐘」があって楽しかった、「幸運の鐘」がなかったら来なかった、という客がひとりでもいたというのか。いないと思うぞ。
一方で、少なくとも、「幸運の鐘」がないほうがよかった、と思う観光客がここに3人いるのはたしかであり、わたしは穴と滝だけで十分面白く見た。
この穴も考えてみると妙である。
川をショートカットしたのはいいとして、なぜこれほど大きな穴にしたのか。
大雨を見越してある程度の大きさは必要だったと思うが、それにしたってでかい穴だ。最初は小さかったのが流れで削られ、天井が落ちたのか。そんなふうには見えない。案外、掘るのが楽しくていっぱい掘ってしまったとか、そういう話ではあるまいか。人は穴を掘りたい生きものなのではないか。
濃溝の滝あらため亀岩の洞窟を見たあと、道路沿いの中華屋で遅めの昼食。スガノ氏が運転しながら、ここだ、と閃いて入った店で、地元の人がわわわっといて、一見なんでもない店だが味は旨かった。店長が演歌で歌手デビューしたとかで、メニューのなかにラーメンと並んでシングル1枚いくらと書かれてあった。
ここからわれわれは亀山湖方面へ向かい、三島湖というダム湖のほとりにある次なるトンネルを探索した。
湖に沿って道をつけるため、トンネルを2つ掘ってあるのだが、このトンネルの途中に人の通れる横穴があり、湖畔に出ることができる。湖畔には無人の御堂があって、何かが祀られていた。格子の穴からのぞいてみたが、何が祀られているのかはわからなかった。
御堂の先は行き止まりだ。
つまり横穴は、この御堂のためだけに掘られたことになる。トンネルを抜けた先にこうした信仰に関するものがあるのは、そこが異界であることを示しているようで面白い。『千と千尋の神隠し』でも、トンネルの先は神さまの世界だった。
この御堂はどんな人がお参りに来ているのだろう。秘密の隠れ家っぽい場所である。湖のほうからは来られないので、横穴を通ってくるしかない、あるいは、村の恋人たちが逢瀬を重ねたりしたのではないかと、勝手に妄想してみたりした。
いろんなトンネルがあるものだ。
そろそろ日も傾きはじめてきた。
今は2月で日も短く、いつまでも回ってはいられないので、いよいよ最後の穴を目指すことにする。
目指すのは、内房の城山にある燈籠坂大師の切り通しトンネルである。
国道127号線から白い門のある脇道に入り、小さなトンネルを抜けると道が分岐し、右手に目指すトンネルが見えた。
「かっこいい!」
思わず声が出たほど、見事なフォルムの穴であった。
丸いトンネル、将棋の駒形のトンネルなど、今までいくつか見てきたが、ここは、徳利形というのだろうか、ゆるやかな弧を描いて内側に傾斜した壁面が、ある高さから急に垂直箱型になっている。なぜこの形になったのか。何かものすごく背の高いものを通す必要でもあったのだろうか。
入口の手前には「頭上注意」の表示があるが、天井の高さは15メートルぐらいある。頭上に注意しなければならないとしたら、クレーン車かはしご車ぐらいしか思い浮かばない。
謎は謎を呼ぶが、何であれこのトンネルは美しかった。抜けた先がゆるやかに右にカーブしていて、鳥居が見えているのもかっこいい。すべてにおいて、完成度が高い光景。
よく見るとずいぶんきれいな筋状の掘り痕がついているので、これは機械で掘ったのかもしれなかった。
惚れ惚れして何枚も写真を撮った。同じように撮影に来ている男性もいて、有名なトンネルなのだろう。
「なぜ、このトンネルを見に来たんですか」
そう聞こうかとも思ったが、聞かなかった。
他人の意見なんてどうでもいいからだ。
大切なのは、自分自身が妄想できるかどうかである。このトンネルも別世界への入口にまちがいない。私がそう思うなら、そうなのだ。
トンネルを抜けて別世界へ行こうという今回のスペクタクルさんぽ、いいトンネルをたくさん見ることが出来て満足である。
たくさん潜り抜けたので、私はもう今、別の世界にいるのだと思う。
※今回ご紹介したトンネルはすべて公道にあります。ご見学の際は事故等に十分ご注意の上、周囲の方の迷惑にならないようお気を付け下さい。
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宮田 珠己/著
2018/4/26
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宮田珠己
みやたたまき 1964年兵庫県生まれ。『旅の理不尽 アジア悶絶篇』『わたしの旅に何をする。』『ジェットコースターにもほどがある』『なみのひとなみのいとなみ』『だいたい四国八十八ヶ所』『日本全国津々うりゃうりゃ 仕事逃亡編』『日本ザンテイ世界遺産に行ってみた。』など著書多数。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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