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村井さんちの生活

 小学生男児の母である私にとって、4月、5月は大変慌ただしい。4月は進級の月であり、新しい担任の先生との初めての懇談会の月であり、家庭訪問の月なのだ。そしてそのすべてを乗り切り一息ついたところで、恐怖のゴールデンウィークは目前に迫っているのである。退屈している子供達を、あの手この手で遊ばせるのが私にとっての5月であり、ゴールデンウィークだ。その原動力となるのは、「これが終わればビールを飲める」という悲壮な思いだけである。

 普段は閑散としている琵琶湖西岸も、ゴールデンウィークを皮切りに観光客で賑わうようになる。今年は好天に恵まれたため、例年以上の人出だった。琵琶湖にはヨットが何艘も浮かび、ジェットスキーが水しぶきを上げていた。空を見上げれば透き通るように青く、山から吹く風は、まさかここは天国か!?と不安になるほど心地よかった。遠くへ行く必要なんてないでしょ? だってここはこんなに美しいんですもの! と両手を広げ、息子達にアピールするにはもってこいの天気だったのだ。

 双子が生まれる前からわが家の一員である老犬が患っていることもあって、しばらく旅行には行けないと二人を納得させてはいたものの、風呂場から「Aくんちはハワイらしいわ。フライドチキン食べ放題や」とか「Bくんちは台湾でグルメやで。ヤムチャとかいうやつらしいわ」なんて声が聞こえてくると、心がチクチクと痛んだ。少しぐらいは非日常的なことをしなくてはと、ベランダでソーセージを焼いてホットドッグを作った。珍しくピザも焼いた。こんな些細なことでも子供達はとても喜び、「ゴールデンウィーク最高!」と、ケチャップで汚れた顔をほころばせていた。フッ、10歳なんてチョロいもんだぜ……。

 ゴールデンウィーク後半になり、夫が急遽和歌山まで泊まりがけで墓参りに行くことになった。「明日は母の日なのに悪いね」と申し訳なさそうに言い出かけて行った夫だったが、わが家の男子人口が一人減るのはむしろありがたい。なんとなく自由な気分になった私は、リビングまで布団を引っ張り出して、息子達と映画鑑賞&徹夜でおしゃべり会をすることに決めた。この決定に二人は大いに喜び、「明日は母の日や! いつもありがとうな、ママ!」と言うと、肩が外れそうになるほどマッサージしてくれた。ゲタゲタと笑い転げていた双子がやっと眠ったのは、もうすぐ日付が変わり、母の日となる午前0時手前だった。

 2年前に他界した母が、私宛に小さな箱を遺していたのに気づいたのは、葬式が終わって実家の片付けをしていた時だった。和菓子の空箱のフタにマジックで私の名前が書かれていて、それは明らかに私宛であるとわかるようになっていた。開けてみると、いくつかの貴金属とともに、ペットボトルのキャップ、ヘアピン、キーホルダー、マグネットなどの細かいガラクタが沢山詰まっていた。生前、「アクセサリーは全部あなたにあげるから」と言われていたのを思い出した。癌と同時に認知症を発症した母にとって、そのガラクタはすべて宝石に見えていたのだと思う。

 30年以上前の母の日、私は小さな貝殻で出来たブレスレットを母に贈った。当時小学生だった私にとって、それはとても美しく、母にぴったりだと思ったのだ。貯めていたお年玉を握りしめて、当時どの町にも一軒はあったファンシーショップと呼ばれる雑貨店へ行き、時間をかけて選び、買い求めた。それにカーネーションを一輪添えて、母に手渡したのだ。紙袋を開けて貝殻のブレスレットを見た母は、「ああ、ありがとう」とひとこと言っただけだった。私はそれにショックを受けた。涙を流さんばかりに喜んでくれると思い込んでいたのだ。

 あっさりと礼を言った母は、ダイニングテーブルの上に無造作にブレスレットを置いた。数日経っても、そのブレスレットはダイニングテーブルの上に置き去りにされたままだったし、カーネーションはキッチンシンクの洗い桶の中に茶碗と一緒に挿さっていた。私はそれに酷く落胆したし、ブレスレットは大失敗だったと反省したけれど、すぐに忘れてしまったはずだ。なにせ、母が遺した小箱を開けるまで、このことはすっかり忘れていたのだから。

 あのとき贈った貝殻のブレスレットは、晩年母が宝石だと思い込んだガラクタとともに、同じく母が宝石箱だと信じた和菓子の空箱の中にちゃんと入っていた。きっと失くしてしまったのだろうと思っていたあのブレスレットを、母は大事に保管していたのだ。あの残念な贈りものは、30数年の時を経て、めでたく母の宝石コレクションの仲間入りを果たしていた。素直に喜んでくれりゃいいのにさと思いつつ、素直じゃなかった若かりし日の母が愉快だった。同時に、ガラクタを宝石と思い込んだ母が哀れだった。

 双子がようやく眠り、一人の時間を持てた私は、パソコンの前に座って夏までのスケジュールを確認し、ため息をついた。日付は変わって、すでに母の日になっていた。小学校のPTA関連委員になったうえに、めずらしく仕事が詰まっている。果たして乗り切ることができるだろうか。漠然とした不安を感じながら、デスクの上に置きっぱなしの母のガラクタ宝石箱を眺めた。母からのエールが聞こえてくるようだった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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