始まる前はあれだけ恐れていた息子達の夏休みも、いざ始まってみればあっという間に日々は流れ、いつの間にか折り返し地点を過ぎていた。ジリジリとした厳しい暑さも少し和らいで、ここ数日は朝晩が過ごしやすくなってきている。夕暮れ時の空はとても高く、寝室の窓から見える湖の色も、透き通るような青から、淡い白に変わりつつある。都会に比べて少し早い、この地の季節の移り変わりを確かに感じられる日々だ。

 息子達の夏休みに合わせる形で仕事の調整を済ませていたこともあって、私自身も心に若干の余裕を持って夏を楽しむことができた。例年に比べて抱えている仕事量が多く、これから先を考えると焦る気持ちがないわけではないけれど、意識的にしっかりと体を休めるように心がけた。夏が終われば、苦しい日々が始まるのはわかっているのだ。その覚悟はすでにできているつもりだ。ただ、訳さなければならない文章が、あと何百ページ残っているかは、怖くて数えていない。そんな怖いこと、絶対に無理!

 年々、子供達と過ごす夏休みが、自分にとって苦しい時間ではなく、一緒に楽しむ時間に変化したことは、うれしいことだと感じている。10歳ともなれば、立派な話し相手になってくれる。一緒に本を読んで意見交換することもできれば、悩み事を相談することだって可能だ。もちろん、的確なアドバイスが返ってくることは一切ないけれど、それでも笑いはもたらされる。以前は息子達を連れての移動が私にとって大きなストレスだったけれど、今では各自にケータイとICカードを持たせておけば、スムーズに、かつ安全に移動ができるようになった。電車に乗って、息子達と美術館や図書館へ行ける日が来るなんて、夢にも思わなかった。あとは宿題をきちんと済ませ、毎日忘れずハミガキをしてくれれば、母としては満足である。

 休むことなく全力で遊びすぎて、先日高熱を出したのは次男だ。本人曰く、「疲れたので、遊ぶのを休みたい。休めばまた遊べるから心配せんといて」。うらやましいぐらいのプラス思考だ。遊ぶことにかけるその情熱を、漢字の書き取りにかけて欲しいと切に願う。高熱を出して一日中寝ているくせに、好物のアイスとポテチは食べまくる。ポテチで出っ張った腹をさすって「俺、ちょっと太ったあ?」とつぶやく次男を見ていると、気ままな人間が一番強いと確信してしまう。

 一方、とても生真面目な長男は、決められた日課をきちんと守り、夏休みの宿題も順調に済ませている状態だ。朝も早く、いつまでも布団の中でダラダラと過ごすことはない。ぴしっと起きてさっとシャワーを浴び、着替えてソファに座るまでの一連の動作は、鮮やかと言ってもいいほどだ。とても大人しく座っている姿に、双子でここまで違うのかと毎朝感心させられる。穏やかで、争いごとを一切好まない。一体、誰に似たのだろう。やっぱり私かな。

 

 今年の夏は、まだ気温が上がりきらないうちに琵琶湖に向かい、誰もいない浜辺で過ごす楽しみも覚えた。息子達をひとしきり泳がせている間、私は木陰に置いた椅子に座って本を読んだ。湖から吹く風が冷気を運ぶため、とても涼しいのだ。普段は時間がなくて開くこともままならない、骨太のノンフィクションが相棒となってくれた。持参したポットに入れたアイスコーヒーを飲みながら、ゆっくりとページをめくった。なんの変哲もない浜辺で過ごす、なんの変哲もない時間だけれど、嵐のような日常から離れ、心身共に休むことができたと思う。

 楽しかった夏休みがそろそろ終わりに近づいて、ここのところ数日は寂しい気持ちを抱えている。その寂しさがどこから来るのか、なにが原因なのか、はっきりと理解できないでいる。いつも当たり前のように足元に座っていた飼い犬がいない現実が、私を少し感傷的にしているのかもしれない。老犬が生きていた痕跡をふと見つけて、悲しい気持ちになる瞬間がまだ頻繁にある。遠方から琵琶湖まで遊びに来てくれていた友人達が、帰ってしまった寂しさがあるのかもしれない。自分でもよくわからない。

 あと何回、このような夏を息子達と過ごせるのだろうと、ふと考えてしまう。彼らの成長が、頼もしくもあり、寂しくもある。早く成長してくれとあれだけ願っていたというのに、いざ彼らが自分の望み通りに成長しはじめると寂しさを覚えるなんて、親なんて勝手な生き物だなとつくづく思う。

 先週あたりから、ぽつりぽつりと仕事関係のメールが届き始めた。不思議と、そんなメールにほっとしてしまう自分がいる。忙しい日常に戻ることで安心するなんて、今年の夏の私はどうかしている。自分でもよくわからない小さな寂しさを心の中に抱えつつ、それでも夏以降の作業に向けて、デスクを片付け、資料をまとめはじめた。