(前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1945年9月、ようやく終戦を悟って投降し、屋嘉(やか)の捕虜収容所へ送られた。

 その後、勝田さんは屋嘉から牧港(まきみなと)へ移送された。当時、楚辺(そべ)、嘉手納、那覇など5カ所に収容所があった。中でも牧港は大規模で、20数名が一つのテントに住まわされ、全部で1000名以上もいたそうだ。
 収容所では簡単な作業をさせられた。だいたい朝10時頃から4時か5時頃まで。朝、5列縦隊に並ばされ、「5,10,15,20」と数えられて作業へ向かう。大した仕事ではなかったので、何をしたのか特に思い出せない。日曜日は休みで、平日でも特段の作業がなければ休みだったと思うが、あまり詳しく覚えていない、と勝田さんは言った。
 忘れがたい鮮明な記憶は、米兵がガソリンを掃除に使っていたことだという。「自分は機甲化部隊なんてところにいたが、車に乗ったのは1度だけ。ガソリンの一滴は血の一滴と教わったのに、ショックでした」。そのガソリンで、米兵はじゃぶじゃぶと物を洗う。水を使うよりよく落ちるから、とオイルで汚れた手もまずガソリンで洗ってから水で洗い直していたというのだ。
 ガソリンで物や手を洗う? そんなこと、あり得るのだろうか。「本当にガソリンでしたか?」と信じられない気がして尋ねた。
 それは「合成レモネード」だったのではないか、と私は密かに疑った。
 アメリカ第1海兵師団での従軍経験を描いた名著『ペリリュー・沖縄戦記』(ユージン・B・スレッジ、講談社学術文庫)にそんな話が出てくる。軍の食事には合成レモネードがよく出て、不人気でいつも大量に残った。それを食後、洗剤代わりに調理室の床に流す。酸のおかげで汚れがよく落ちたそうだ。
 なお、この人は米軍の食事に不満たらたらで、ポークランチョンミート缶を「あの我慢のならない豚肉の缶詰」と書く。ポーク缶は戦後の沖縄の人にとって魂の飛ぶようなご馳走だった。今では炒め物はもちろん味噌汁やおにぎりにまで入れる県民食だ。それをクズ肉よばわりとは、何とも贅沢でやりきれない。
 勝田さんの「ガソリン」とは、その合成レモネードだったのではないか?
 「いや、確かにガソリンでしたよ。匂いで分かる。私も手を洗ったことがある」と勝田さんはきっぱり断言した。
 いずれにせよ、この「ガソリン」の贅沢な使い方に象徴される物資の豊かさは、元日本兵にとって衝撃だった。圧倒的で、桁外れだ。「これはかなわない」と痛感し、その豊かさに強く憧れたそうだ。
 米軍が撮った写真資料のうち、1946年頃に沖縄各地の米軍施設を撮影したシリーズがある。中国に売却される中古のタイヤや車両の集積所、牧港らしき基地内のアイスクリーム工場、製氷工場、パン用オーブンの列、燃料の研究所、放送局。現在の目から見ても、つくづく「かなわない」と圧倒される。

 

 

いずれも那覇の物資補給所。1946年1月撮影。当時の沖縄では、米軍施設から盗んだ物資は「戦果」と称され、大規模な横領と販売で財を成す人々もいたという。沖縄県公文書館所蔵

 


 話を少し先取りすると、勝田さんは故郷の喜界島に復員した3年後、再び沖縄へ戻ってきた。何か商売をしようと考え、そのまま定住して現在に至る。それが私には不思議でならない。あんな経験して生き延びると、もう沖縄を見たくないのではないか。勝田さんは「うーん」と考え込み、とつとつと語った。

 その当時にね、アメリカの物資のありがたさ、物のありがたさ、そういうものが初めて分かったわけです。それで、「これはもういっぺん沖縄に、チャンスがあれば来よう」と。それで(昭和)25年に沖縄に来たわけです。

 当時の社会情勢も影響したし、戦争中に出会った人々の消息も気になった。それ以上に、収容所で見たアメリカの豊かさこそが、勝田さんが沖縄に戻ってきた最大の動機だったそうだ。アメリカに占領された沖縄がどうなったか知りたい、どうなっていくのか見ていきたい。

 

 引き揚げが決まったのは、翌1946年の夏。沖縄戦で生き残った内地出身兵を送り返す最終便となる第3次の引き揚げ船が10月に出ることになった。
 シベリアからの帰還者はアイウエオ順だったと聞いたことがある。夫の父は10代で志願して大陸で終戦を迎え、シベリアと北朝鮮に抑留されたが、「カ」で始まる姓のおかげか、わりと早くに帰ってきた。「沖縄はどうか知らんな。それは向こうの、収容所の偉い方が決めたんだ」と勝田さんは笑った。

 今の牧港じゃなくて中城(なかぐすく)の海岸、そこにLSTが来て。LSTってアメリカの、普通の船と違うわけですよ、戦車でも何でも運ぶ船、軍艦ですよね。そこでLSTに乗って……。

 「え、アメリカの船なんですか?」と驚いたら、「アメリカの船しかないです。日本は船ないですから」と言われた。沖縄戦に戦車や飛行機を運んだ船の乗り心地はどうだったろうか。
 故郷の喜界島までは直線距離で300キロ程度だ。しかし、日本への復員ということで、船は鹿児島の志布志湾で一泊した後、名古屋の復員局へ向かった。そこで検査や手続きをした。名古屋には初冬の気配があり、寒さに震える帰還兵たちへオーバーコートが支給された。復員局のラジオから流れる「リンゴの唄」が郷愁を誘った。いい歌だ、と思った。
 船を乗り換えて、広島の宇品へ向かう。宇品港からは平らな廃墟になった広島の市街地が見渡せた。勝田さんが驚いていると、行商らしい年配の女性に話しかけられた。沖縄戦から帰る途中だと話したら、「生き残ってよかったね。ここでも一度にたくさんの人が死んだよ」と地元の言葉でねぎらわれた。
 広島でまた船を乗り換えて奄美大島へ。大島の学校に収容されてDDTなどで消毒された後、さらに舟に乗って喜界島へ帰った。丸2年ぶりだった。沖縄から喜界島に生きて帰れた同期は、わずか3人だった。
 「お母様との再会は、どんなでしたか?」と尋ねると、勝田さんは遠い目つきになった。息子の身を案じ続けていた母は、すでに各地から帰還していた人たちを訪ね歩いては消息を聞きまわっていたらしい。「それはお喜びだったでしょうね」と話を継ぐと、勝田さんは「そうですね、会えた時には……」と何かを話し始めて言葉に詰まり、目を潤ませて黙ってしまった。

 こうして勝田さんは沖縄戦を生き延びた。
 第32軍参謀長・長勇(ちょういさむ)は、摩文仁へ司令部壕を移してから自決するまでの時期、将兵に何かと任務を与えては壕から出させたという。壕に残るよりは生き延びる可能性があるという判断だった。高級参謀・八原博通の手記『沖縄決戦』によれば、八原に向かってよくこう呟いていたそうだ。
 「未だ万余の青年が生き残っているはずだ。彼らを本土に帰してやったらどんなに役に立つだろう。八原、帰してやりたいな!」
 生きて帰った勝田さんは、沖縄の今の食文化をひとつ豊かにした。帰れなかった青年たちの「未来」には何があっただろうか。私たちの「現在」から失われたその無数の可能性に思いをはせ、ただただ心が痛む。

沖縄本島南部、摩文仁の「ひめゆりの塔」に献花する青年。入り口に鳥居、後方に十字架が見える。1950年3月撮影。沖縄県公文書館所蔵
大勢の死傷者を出したアメリカ第1海兵師団の戦没者墓地。1946年1月撮影。沖縄県公文書館所蔵
沖縄戦最大の激戦地のひとつだったシュガーローフ(現・新都心おもろまち)の1950年3月の様子。米軍の上陸用舟艇が残されたままのサツマイモ畑で、男性が肥料をまいている。沖縄県公文書館所蔵