「この時、ここに私がおったんです。たぶんここです」
新聞の切り抜きを大切そうに見せながら、その人は話し始めた。沖縄南部に特有な断崖の洞窟に向けてアメリカの火炎放射戦車が炎を噴きつける写真。キャプションには「1945年6月25日、摩文仁」とあった。一般に沖縄戦が終結したとされる日の2日後である。
「たぶん、私はこの辺りの洞窟に入っておったんです」
自分の体験をまとめたくて、こうして新聞や雑誌の切り抜きを集めている。でも兵隊だった頃の自分の写真も、見てきた戦場の写真も1枚もなくて残念だ。ずっと忙しかったけど「いつかは本にしよう」と思ってきた、と。そして、沖縄戦を生き延びて、戦後のコザで米兵相手に飲食店を営んできた話をしてくれた。
2時間後、私はその人にすっかり惚れこんでしまった。「じゃあ、私が代わりに書きましょう」と安請け合いしたら、くしゃっと笑って「お願いします」と言ってくれた。それが発端である。
2011年8月、タコス専門店「チャーリー多幸寿(タコス)」の創業社長、「チャーリー」こと勝田直志さんと出会った。 ちょうど沖縄戦体験の聞き取り調査をしていた時で、沖縄県傷痍軍人会の事務局から戦争経験者を紹介してもらうことになった。特に面白い話が聞けるはずだ、と最初に2人を紹介された。
「その一人は、実は、あのチャーリー多幸寿のチャーリーさんなのよ」
事務局のクニガミさんは、得意げな顔で宣言して私の反応をうかがった。……えっと、すみません、チャーリー多幸寿、知らないです。
「え? ほら、コザにある、あのタコスの美味しい店。知らない?」
ごめんなさい、わからないです。タコス、ですか?
「……そう。一度ぜひ食べに行ってね」
明らかにがっかりした表情のクニガミさんに、たいそう申し訳ない気持ちになった。「あの」と定冠詞がつく有名店なのか、と思った。沖縄へ移住して3年、まだまだ経験値が足りない。こういう時に「よそ者」が露呈しては、うろたえてしまう。実際、その後、誰に聞いてみてもたいてい誰でも知っている有名店だった。
運転免許を取ったばかりで遠出が恐ろしい、しかも幼児がいて食べ歩きをする余裕などなかったが、そうも言っていられない。インタビュー前の事前調査に、と初めて一人で夜の高速道路に乗り、夜食を食べに行ってみた。次の日、事務局に寄って「すごく美味しかった」と報告すると、クニガミさんは「そうでしょう、美味しいでしょう」と胸を張った。
チャーリー多幸寿は、そういう店である。
それほどにまで地元で愛され誇られる有名店の創業社長さんなら、気難しい人かもしれない。しかも沖縄戦の最前線を生き残って、9月まで摩文仁で潜伏していたという。鋼鉄の意志の持ち主であることは確かだ。こちらが想像もできない過酷な経験を、どんな態度で聞いたらいいのだろう。
初めてインタビューに伺う時はいつも緊張しているが、その時の緊張は格別だった。車の中で何度もICレコーダーの動作確認をし、インターフォンを押す前に深呼吸して、口角をむにむに揉んで笑顔の練習をした。
だが、拍子抜けしたほど、勝田さんは穏やかな人だった。優しさが滲みでた風貌で、戦争と戦後をたくましく生き抜いてきた人生をとつとつと語る。体験の内容も驚くことばかりだったが、そのお人柄が大好きになった。
「なぜ自分が生きたのか、それが不思議でならない」と勝田さんは今も会うたびに言う。うんうん頷きながら聞くが、私には実のところ、不思議ではないと思える。
誰のことも、何についても、決して悪く言わない。出会った人たちのことを大切そうに語る。戦場体験も戦後の苦労も、淡々と受け止めて立ち向かってきたのだろう。出征の時も、負傷した時も、一面に死体が転がる荒野をさまよっていた時も、「絶対に死なないと決めていた」そうだ。コザという米軍基地のお膝元で栄枯盛衰の荒波を越えて店を守ってきたことを、「とにかくもう少し続けようと思った」とだけ言う。何より、「よそ者」でありながら「沖縄の食文化」の一角を作りあげてきた人生に惹かれた。
その後も時々、勝田家に遊びに行っている。はじめの数回はレコーダーで録音していたが、やがてちょっとした手土産を持って雑談をしにいくだけになった。同じ話を何度でも聞く。楽しく話をしてくだされば、それだけで嬉しい。
なぜ私が沖縄で戦争体験の聞き取りをしていたのか。少し自己紹介をさせていただきたい。
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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