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チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史

(前回まで)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1956年からずっとコザでレストランを営んできた。

1976年頃、BC通り(別名・センター通り、現・中央パークアベニュー)に移転して間もない頃。勝田家より提供

出来ることならセンター通りの慰霊の塔をつくりたいね。戦後、ここで頑張って損して死んだ人たちの。沖縄戦で死んだ人達じゃなくてよ。

 何かいい画像がないかとめくっていた写真集『コザ残像:フォート・コレクション』(宮城秀一編著、復刻拡大版:2007)の小さなコラムに胸を衝かれた。1952年にコザで生まれてセンター地区の自治会長を務めたこともある富本実さんという人が、父の友人がしみじみ呟いたと記憶する言葉だ。
 BC通りの短期間での盛衰は、おそらく後の世代のよそ者には分からないのだろう。占領、朝鮮戦争と基地整備、冷戦、ベトナム戦争、本土復帰、ドル暴落。時代の激動に、この街の経済と生活は翻弄されてきた。
 1972年5月の本土復帰に1ドル=305円が適用されたが、1973年2月、ついに変動相場制へと移行。みるみる円高は進み、1978年には一時、180円あたりまでドルは落ち込んだ。街から米兵が消えた。本土復帰とともに日本の風俗営業法が適用されて取り締まりが強化された影響も大きい。
 当時、並外れた才覚の人たちは素早く米軍相手の商売を辞めてコザを離れたらしい。国道58号線沿いにそびえる巨大なパチンコ屋は、ダンサーから足を洗った女性が起こしたそうだ。やたら耳に残るCMソングのカラオケ・チェーン店も、コザで財を成した奄美の人が商売替えした店だと聞いた。
 だが、多くの人は状況の急変に戸惑うばかりだったのだろう。
 元Aサイン業者のための「沖縄県Aサイン関係救済補償獲得期成会」なる団体が1977年に発足した。行政にも何度も基地関連業者の救済措置について要請が出たようだ。今でもコザをぷらぷら散歩していると、その痕跡を見つけることができる。

商工会議所の入口にかかる案内板「円高対策特別相談室」。筆者撮影

 だが、コザの街の斜陽は、勝田さんにまたチャンスをもたらした。1976年、BC通りに出てこいと誘う人があって、店舗を移転できたのである。
 BC通りを中心としたセンター地区は、八重島に歓楽街ができた直後に成立した。八重島が非公式の街で、センターは行政が公然と関与してできた「健全な米流親善の街」だ。当初はスーベニア(土産物店)や映画館が中心で、八重島のオフリミッツ後はバーやキャバレーも増え、20年以上も栄えてきた。
 ベトナム戦争バブルの頃、BC通りには移転できる空き店舗などなかった。ドルが下落して米軍関係者が減ったため、アメリカ人も観光客も呼べる人気店に通りに来てもらおう、と勝田さんのタコス店が誘われたわけだ。
 バーや風俗店は浮き沈みが激しいが、勝田さんの店は本土復帰やドル暴落の影響をさほど受けなかった。ベトナム戦争の景気を勝田さんが回想して言ったように「酒や女性にはいくらでも金の使いようがあるが、食べるご飯の量は変わらない」。それは不景気でも同じだ。酒や女性はなくとも、食事はする。安くて美味しいものなら、人は食べに行く。
 だから、円高ドル安を語る勝田さんの口調もいくぶん他人事だ。「本当に可哀想だよ、アメリカさんは。もうドルが来ないからね。世の中、しょっちゅう変わりますからね」。

勝田家より提供

 BC通りに移転した勝田さん、まずは日本人にもタコスを知ってもらおうと考えた。当時は「タコスって酢蛸か?」と言う人も多かった。看板にはタコスの絵を描き、通りを行く人に1つずつ試食を配った。「米軍向けの食べ物で、辛くて堅い」というイメージのタコスを、日本人向けの味に工夫していた。試食して美味しいと分かれば次は必ず客として来てくれる、という確信があった。
 店は繁盛して忙しくなり、店の前には昼夜とぎれず長い列ができた。近くのレストランの主人がよく通りに立って、忌々しそうにチャーリーの行列を眺めていた。向かいの菓子屋は並んでいる人に菓子を売って「チャーリーのコバンザメ商法だ」と笑ったそうだ。どちらも今は那覇で観光客向けの有名なステーキハウスと土産物店になっている。近所のバーで呼び込みをしていた青年は、チャーリーの行列を見ていてタコス屋を開業した。こちらも今では有名店だ。
 やがて地主からの申し出で店を土地ごと買い取り、今の3階建てに建て替えたのが1983年のこと。店の名前も、英語らしい「タコース」から日本人向けに縁起のいい漢字を当てて「チャーリー多幸寿」と改めた。
 以来、店はここにある。

チャーリー多幸寿の現在。筆者撮影

 コザの繁華街はどこも、「基地の街」から観光地へと転身を急いだ。
 1975年11月、一番街に500メートルもの全天蓋のアーケードが架かり、カラー舗装が完成した。当時の金額でも総工費4億9000万円の大工事だ。黒人街として知られた照屋も、その年に歩行者天国イベントを催し、1978年には目抜き通りにアーケードを掛けた。
 センター通りも少し遅れて1982年に「中央パークアベニュー」と名を変え、1985年、白いアーケードを架けた。「昼から歩ける明るいショッピング街」を合言葉に街並みを一新。風俗店が一掃され、流行ブランドが沖縄店を構えた。地元の若者にも観光客にもお洒落な街として「すごく流行っていた」そうだ。「うちが一番忙しかったのは、あの頃ですねぇ」と勝田家の人たちも懐かしむ。
 にもかかわらず。中央パークアベニューの繁栄はごく短かった。

中央パークアベニューの現在。筆者撮影

 写真のとおり、パークアベニューは歩道を広く取るために車道を一方通行の一車線にした。沖縄の場合、地上戦で破壊された鉄道の復興より、自動車の普及が早かった。「歩けるショッピング街」の設計は車社会と相性が悪い。
 当時、県民の自動車保有台数はみるみる増えていた。沖縄県警の統計によれば、50万の大台に達したのが1986年のこと。その年の県民人口は121万人だから、1世帯に1台は普及している勘定だ。今や「大人は全員が自分の車を持ち、徒歩3分のコンビニにも車で行く」と揶揄される車社会である。
 いち早くモータリゼーションの流れを読んだ宮古島発の流通業「サンエー」は1977年、コザに食品スーパーを出店。1984年には宜野湾市の大山に流通センターを構えて、各地に大型店舗を増やした。食品と衣料品の店を併設して、大型駐車場も備わっている。中部地域の住民の流れと買い物スタイルが変わった。
 若者や観光客の流れも変わる。
 コザからほど近い北谷(ちゃたん)町の美浜に若者と観光客をターゲットにした超大型の娯楽エリア「アメリカンビレッジ」ができたのである。1981年に米軍のキャンプ瑞慶覧とハンビー飛行場が返還された跡地だ。1997年に工事が始まって翌年から施設が順次開業した。
 誘致した行政の人々がアメリカ西海岸へ視察に行って雰囲気の再現に努めたという「街並み」は、まるでテーマパークのようだ。新興の人工アメリカは、本物のアメリカと格闘してきたコザから「遊び場」の座を奪った。
 なぜアメリカから返ってきた土地にアメリカを造るのだろう。
 最近の例では、泡瀬ゴルフ場の跡地もそうだ。1948年に沖縄で初めてできたゴルフ場は、復帰後もずっと米軍施設として高台を占有していた。1996年の日米合同委員会で合意され、ようやく2010年に返還された、その跡地にできたのが「イオンモール沖縄ライカム」という超大型イオンだ。
 ライカムとは「Ryukyu Command Headquarters(琉球米軍司令部)」の略称で、司令部のあった交差点周辺を復帰後もライカムと呼んでいた。転勤族の奥様から困惑気味に「なんでアメリカにちなんだ名前なの? 沖縄の人は平気なの?」と尋ねられたが、うまく答えられなかった。せっかく返還された元軍用地が、なぜイオン、それも占領軍司令部の名を冠したままなのか。

チャーリー多幸寿の店内にて、お客の少年たちと勝田さん。1990年。勝田家より提供

 街はめまぐるしく変わるが、勝田さんの店はずっとアベニューにある。
「もっと景気があったらいろいろやりたいんだけど、こう世の中が変わり不景気になってしまったら、思うように行かないしね。これからも少しでも世のため人のためという気持ちはあるんですがね」と勝田さんは残念そうだ。それでも、店が続くこと自体が「世のため人のため」だと、話を聞いていて思う。
 退役した米軍人が家族旅行で沖縄にきて、「この味だ」と懐かしがる。子供の頃、日曜の礼拝後に家族で食事に来た、と語るアメリカ人客もいた。日本人観光客も再訪する。「昔のアベニューに来た皆さんは、今ここに来ると『アベニュー、草生えてるじゃないか』って驚くんですよね」とお嬢さんが苦笑する。
 日本の元軍人や遺族も来る。
 70年代80年代は、生き延びた兵士たちがそろそろ定年退職する時期だ。時間ができて、体力はある。勝田さんのいた野戦重砲兵第23連隊の戦友会「野重23会」が発足して初めて沖縄で慰霊祭をおこなったのが1975年。沖縄戦を生き延びた日本兵で沖縄に住む人は少ない。勝田さんは現地在住の幹事として活躍した思い出を楽しそうに話す。33回忌には慰霊碑も建てた。
 戦友会の慰霊祭は毎年4月の第1日曜日におこなわれ、全国各地への団体旅行も企画された。有名観光地で撮った姿勢のいい元兵士の集合写真を、勝田さんは大事そうに取り出して何枚も見せてくれた。そんな戦友たちが沖縄へ家族旅行や戦跡巡礼に来る時は、店に寄ってくれることもあった。
 「まぁ、今はもう、みんなあっちへ行ってしまいよりましたがね」と勝田さんは寂しそうに言う。「野重23会」は、1994年に50回忌の慰霊祭をおこなって最後の文集を作り、活動を停止した。勝田さんは戦友の訃報が届くたび、律儀に名簿の名前の横に鉛筆で没年月日を記入していたが、それも途中で止めてしまったようだ。「今、残ってるのは私ともう1人くらいですね」。
 それでも今でも、遺族が来る。個人情報にやかましくなかった時代、戦友会が職業・住所・電話番号がそろった名簿を作っていたからだ。
 「うちは店をやってますからね。来やすいんじゃないですか?」とお嬢さんが説明してくれた。そうして家に遊びに来てもらう間柄になった遺族たちもいる。彼らのことを語りながら、お嬢さんは涙ぐんだ。

 やっぱり、日本兵だったというのは、ちょっと言いづらい雰囲気があるんですよね。だから、うちだと安心して話せるんだと思います。
 特に沖縄だとそうですよね。日本兵が玉砕を命じたとか悪いことをしたって言われて。うちに来る息子さんたちは、悲しいって。沖縄の人がそういうふうに言って、自分たちの親は死んだのに、肩身が狭いって、ここでおっしゃって。話しながら泣いた人もいて。…沖縄の人も可哀想だけど、家族を亡くした人はみんな可哀想。誰だって、偉い人の子だって、やっぱり悲しいんですよ。親がどんなことしていたか子供は分かんないですけど。家族を亡くしたら変わらない、みんな悲しいんです。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宮武実知子

みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。

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