在沖米軍と一口に言っても、部隊によって街の雰囲気は違い、食べる量も違うそうだ。コザは嘉手納基地の門前町だから空軍(エアフォース)が多く、家族で住んでいる地上勤務の人も多い。それに対して、金武のキャンプ・ハンセンは海兵隊(マリーン)の基地で、若者の街だ。
エアフォースはビールを飲みますけど、マリーンはぜんぜんビールを飲まないです。戦争する一線部隊の軍人だから、ビールを飲んだらいかん、太ったらいかんと言うんです。エアフォースの場合は、太った人や、年配も多いんですよね。だから、エアフォースは、ビール飲むけど、あまり食べない。
確かにタコスはビールによく合う。勝田さんの「チャーリー多幸寿」をはじめコザ一帯にタコス店が多いのは、エアフォースの街のせいかもしれない。一方、タコライスという料理が金武の街で生まれて一気に広まったのは、若い兵士が多い「飲まない街」ならではのことだったのかと得心がいった。
タコスの具をそのまま米飯にのせたタコライスという料理がある。沖縄では学校給食でもファミレスでも吉野家でも出てくる県民食だ。レトルトのパックがいくつもの会社から出ていて、スーパーのセールの目玉商品になる。今では「新しい沖縄料理」の観すらある。
このタコライスは、タコスを日本人向けにアレンジしたものかと思っていた。あの濃い味付けの肉味噌でご飯が何杯もいける、とは誰でも考えそうだ。意外なことに、あれは米兵向けに「発明された」料理である。
金武町はタコライス発祥の地。巨大タコライスを作ってギネス登録し、「タコライス日本一の町」を謳っている。コザから高速に乗れば20分かそこらの距離だが、だいぶ雰囲気の違う海兵隊の街だ。
金武のキャンプ・ハンセンには、第12海兵連隊の司令部が置かれ、西太平洋で唯一の都市型戦闘訓練施設があるという。朝鮮戦争の頃、射撃演習場として整備され、ベトナム戦争時には大規模な兵舎が完成して出撃前の兵士が溢れた。それはもう凄まじい「ドルの雨」が降ったそうだ。
タコライスを「発明」したのは、タコライスの有名チェーン店「キングタコス」の創業者・儀保松三氏。別名義の店「パーラー千里」で1984年頃にメニューに出したのが始まりだ。
儀保氏の経歴も、「基地の街で商売をした人」の物語だ。終戦時に15歳。1950年代半ばにコザに出て、照屋の黒人街でバーを経営したがオフリミッツの打撃を受けて嘉手納へ移転。またオフリミッツを受けて嘉手納基地あたりでの商売を諦め、次は辺野古へ。キャンプ・シュワブの門前町アップルタウンで成功し、ベトナム戦争で賑わう金武に来たのが1964年。ベトナム戦争バブルに間に合い、バーやレストランを成功させた。
変動相場制に移行した時、「もうバーの時代ではない」と判断したそうだ。 「でも、人は1日3食、ご飯を食べる。食べ物屋なら間違いない。人と違う、今までにない食べ物にしたい」と考えた。
タコライスを始めたきっかけが、ちょっと面白い。円高も進んだ80年代、若い米兵が食べていた焼きそばをうっかり落とし、屈んで拾い上げ、食べた。それを見て、儀保氏は衝撃を受けた。「ジープから菓子を撒き、ベトナム出撃前に大金を撒いた、あの豊かなアメリカ人が落ちたものを食べた!」
「可哀想に」と思ったそうだ。身体を使って働いている海兵隊の若者が腹いっぱい食べられるよう、安くて美味しい物を作ろう。それで、レストランの人気メニューだったタコスの具を大盛りご飯に乗せたメニューを考案した。だから今も、系列店では1合半はあろうかという大盛りが出てくる。英語が不自由な店員でも説明できるよう「タコス」の「タコ」を残して「タコライス」と名付けた。
後発の食べ物屋だから、目立つようにと第1ゲート前の店を借りた。街で遊んだ米兵が深夜に基地に帰っても、すでに食堂は閉まっている。 「なんだか分からない食べ物だけど、これしかないから最後に食べておくか」と消去法で食べるだろうという狙いだった。
そうして食べた人の評判が評判を呼び、米兵に人気が出た。5年で地元の人が、10年で観光客が来るようになった。今やタコライスは新しい「沖縄料理」になっている。
勝田さんはタコライスをどう思っているのだろう。聞いてみたところ、なんとも歯切れの悪い語り口だった。
金武でタコライスが流行ったのは、金武には若い兵隊が多いわけですよね、マリーンあたりの。若い兵隊が何でも食べたがる。ハンバーガーとかサンドイッチではいくら食べてもお腹いっぱいにはならんで、ライスをちょうだい、と。結局、外人の場合は、何でもいいんですよ。お腹を満たせられればね。
どうやら勝田さんは、タコライスが金武で流行し始めた頃、敵情視察に行ったことがあるらしい。そして、いささか拍子抜けしたようだ。タコライスとの出会いの印象を、珍しく不満そうに評した。
トルティーヤ、つまり皮を使ってんのかと思ったら、ぜんぜん使ってないでしょ。誰でもできることなんです。あの皮を作るのが難しいんですからね。で、タレなるものもホットソースかけるだけですよね。ホットソースの場合と、ケチャップとかタマネギなど野菜を入れてソースを作るのとでは味が変わってきますけど、外人の場合、味はあんまり関係ないんです。
実際のところ、「うちの方が先にタコライスを作っていた」と小声で主張する店はよくあるそうだ。タコスをメニューに出すレストランでは、皮が売り切れた後、賄い飯として店員がご飯にかけて食べることがよくあった。ご飯にかけてくれ、と頼まれてメニュー外で作って出すこともあった。ただ、「そんなものを客に出すわけにはいかない」と誰もが思っていただけだという。
勝田さんの店では、今もメニューにタコライスはない。「チャーリーライス」という名前で、ご飯に肉とチーズだけをのせて、レタスとトマトは別添えになっている。「生野菜も肉も全部ご飯の上にのせるような賄い飯スタイルのものは出さない」というタコス専門店の矜持だと勝手に解釈している。
実は私は、密かにずっと食べ物屋さんに憧れている。大学院生の頃、よく煮詰まっては妄想に逃避した。「こんな下手な論文なんぞ、資源の無駄で申し訳ない。美味しいものを作って食べさせる仕事はきっと幸せだろう。大学祭で焼きうどんを作って売ったのは楽しかった。小料理屋の女将か、定食屋のおばちゃんになりたい。まずは屋台で何かを……」。とはいえ、商才のなさでは血統書がつきそうな家系の出、何をどうしていいのやら想像もつかなかった。
勝田さんはお店のことを、実に嬉しそうに語る。「私はね、食べるもんをやってきて良かったと思っとるんです。人間は、食べて生きるんですからね」と眩しい笑顔で言われて、心の底から羨ましく思った。
「また新しく何かお商売をするとしたら、やっぱり食べ物屋さんですか?」と聞いてみると、勝田さんは大きく頷いて「ええ、もう食べ物屋に限るですね」と断言する。お知恵を拝借、「いま始めるなら何をします?」 勝田さんは即答した。「例えばアイスクリームとか飲み物とか、子供が好むものが一番いいと思う。子供に『ちょっと、あんた、これ美味しいから食べてごらん』と言うようなものです」。なるほど、確かにそれは人の財布の紐がゆるむジャンルだ。
「それにしても、今こんなにたくさんタコスやタコライスのお店があって、みんな食べていて、すごいですね。最大の功労者ですよね」と称えたら、勝田さんは自分の店をタコス専門店にした理由を身振り手振りで語り始めた。
例えばチキンにしろステーキにしろ、1000円分を買って同じように分配はできないですよね。ライスもきれいに分けるのは無理でしょう。でもタコスの場合、皮に包まれた部分は1個ずつ同じに分けられる。みんなで分け合って、箸もフォークもいらないです、手掴みで。持って帰って、あちこちで食べることもできる。だから、オリジナルの箱も作りました。
その熱っぽい語りように、無粋だと知りつつ尋ねたくなった。それはやっぱり、戦争のご経験が反映しているんでしょうか、と。
沖縄戦の終結を知らずに9月まで潜伏して、夜ごと食べ物を探して歩いた。そうして見つけたものを持ち帰っては、仲間と分け合って命を繋いだ経験。だから、持ち帰って公平に分けられる食べ物を選んだのではないだろうか。
勝田さんは、ふふふと控えめに照れ笑いした。
(了)
※ご愛読ありがとうございました。
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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