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チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史

(前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。部隊解散後も南部に潜伏していたが、1945年9月、ついに終戦を悟って投降した。

1945年9月3日撮影。「捕虜収容所行きのトラックに乗り込む日本人将校ら」とキャプションがある。沖縄県公文書館所蔵

「沖縄戦は十人十色だ」と勝田さんは口癖のように言う。

 戦友会なんてのもありますが、みんな個人個人、たどったところが違う。自分がこの陣地を生きて、この陣地を生きて、ということで。結局、ほかのところは別世界みたいに、訳わからんのですよ、自分がたどったところしか。いわゆる「十人十色」ですよね。

 沖縄戦では、部隊が組織行動できた期間は短い。開戦してすぐ壊滅した部隊も多く、生存者は何度も再編成された。部隊解散後の経験はまるで異なる。
 だから、沖縄戦を生き残った兵士の場合、時間と経験を共有してきた仲間がいないことも多い。自分のことしか話せない。そのためか、最前線を経験した人は口数が少ない傾向にある。「沖縄の戦争」と一般化して語れるのは、戦場から距離のある人なのだろう。
 そんな十人十色の沖縄戦で、数少ない共通の経験は屋嘉(やか)の捕虜収容所である。捕虜になった日本兵は、まず屋嘉の収容所本部へ送られた。
 この捕虜収容所は、沖縄本島の中部、現在は金武(きん)町となった屋嘉集落にあった。広い砂地にある小さな村で、昭和3年の調査では人口が1000人にもなったが、戦災で家屋のほとんどは焼き払われた。その焼け跡に捕虜収容所が設営され、沖縄全域で降伏した日本軍は全員がいったんここに収容された。
 収容所について知りたくて、まず『金武町誌』を開いた。しかし、700ページ以上もある大部な本のうち、捕虜収容所の記述はわずか2ページ足らず。その半分は民謡「屋嘉節」の話だった。収容所はその後、米軍の保養所「屋嘉ビーチ」になり、1980年に返還され、今では収容所の痕跡を留めるものはない。多くの手記には登場するが、どういうわけか、まとまった記録や研究が見当たらない。

屋嘉の捕虜収容所。たくさんの米軍野戦テントが二重の有刺鉄線で囲まれている。1945年6月27日撮影。沖縄平和祈念資料館所蔵

 投降して収容所に送られるのは、どんな気持ちなのだろう。「これで生きた」と安堵するのか、生きて虜囚となった屈辱があるのか。
 勝田さんがある時、収容所に到着した時のことを語った。珍しく、悔しさのような腹立たしさのような、なんとも表現しづらい感情が口調ににじんだ。

 向こうに行ったらもう何千人という兵隊が集まっておってね。もう健康体そのものですよ。我々はずっと食べ物もないし、やせ衰えて、色も白々としてね、髭も生えてるんだが…。

 先に収容された人たちへの複雑な思いは、さまざまな戦争体験記を読んでいると時々出会う。外間守善の記録は、ここでも面白い。

 収容所の中には所長(連隊長格)、大隊長、中隊長と呼ばれる「エリート」がいた。旧軍隊の階級などまったく通用しなかった。「エリート」の彼らはなんと米軍上陸後、いち早く捕虜になり、米兵気に入りの兵隊たちであった。捕虜収容所長は旧日本軍では上等兵だった。彼らは捕虜収容所内で肩で風きる風情だった。日本軍人として戦闘行為をしなかった彼らの横行を憎々しげに見ていたのは私だけではないようだった。(外間守善『私の沖縄戦記』)

 一般に沖縄戦の日本兵は勇猛果敢だったと言われるが、実は戦闘に参加した者ばかりではないようだ。侵攻する米軍を迎撃せずに壕の中でやり過ごした後、あっさり投降して軍の機密を暴露する兵や軍属の存在に32軍司令部が苦慮した記録もある。沖縄戦の全期間を収容所で悠々と過ごした者もいたようだ。
 そうした人々への軽蔑を示す言葉を、最前線に投入されて犠牲の大きかった62師団の小隊長だった人が手記に書いている。収容所内では、8月15日以前に捕虜になった軍人軍属を「ふんどし組」と軽蔑を込めて呼んだそうだ。投降勧告ビラの挿絵に、ふんどし一丁で投降する絵が添えられていたのが語源だ。

 将校、下士官、兵を問わず、今でもふんどし組でない者は、「俺はふんどし組ではない。」「私はふんどし組ではなかった。」と心に言い聞かせて生きてきた人が多かったことを特記する。(山本義中『沖縄戦に生きて― 一歩兵小隊長の手記』ぎょうせい、1987)

 勝田さんは自分の心情や苦痛をほとんど語らない人なので何も言わなかったが、外間守善は心細さや屈辱感を素直に記している。

 軍隊の組織もなくなり、日本人としての誇りも失いつつある捕虜収容所での日常は悲喜交々だった。国を思い、故郷を思い、家族を思い、特に南部で別れた兄守栄の生死を思って淋しかった。収容所に入ってすぐに米軍の野戦服を着せられたが、服の背中にはPW(prisoner of war)の文字が書かれていた。私にはそれも屈辱だった。(外間守善『私の沖縄戦記』)

「生きて虜囚の辱めを受けず」を徹底されていた日本兵に配慮して、8月15日以後に捕らえられた者は「WS(War Surrender:抑留者)」と呼び、それ以前に捕らえられた「PW:捕虜」と区別して呼ばれるはずだったが、実際には不十分だったようだ。「捕虜」として記録が残るのを嫌って、加藤清政や豊臣秀夫などと偽名を使う人たちもいたそうだ。
 夜の自由時間には、トラブルもあったらしい。屋嘉では、日本人・沖縄人・朝鮮人・将校はそれぞれ別の幕舎だったが、朝鮮人軍夫たちが旧上官を呼び出して集団リンチを加えたり、日本兵の幕舎に殴り込みをかけたり、その仕返しが行われたり、日本人同士でも争いが繰り返し起こったらしい。慶良間列島の赤松守備隊長が兵隊たちに呼び出されてリンチに遭って入院した事件もあったという。たいていの場合、米軍は黙認した。
 それでもなかなか楽しそうな収容所の様子も外間は記録している。
 夜の自由時間に幕舎を行き来して知人を探し、互いに旧交を温めた。勝田さんも当時、同じ部隊の生存者たちと再会して戦友や上官の消息を聞いている。
 自由な時間は多かった。それぞれ思い思いに余暇を過ごす。
 中には配給のレーション(米軍の野戦用食糧)に入っていたレーズンを発酵させて葡萄酒を作り、酒盛りする者もいた。賭け事も盛んで、厚紙でトランプや花札、麻雀までが作られ、レーションのなかの煙草やチョコレートが賭けられた。勝田さんは麻雀も知らず、賭け事の輪に加わったことはないそうだ。
 各地の収容所で舞台が作られたのは有名だ。屋嘉の芝居小屋はなかなか豪華で、演出は後に大作映画『人間の條件』(1959-61)を監督した小林正樹だったとか。後に名をなす歌舞伎の中村時蔵、新派の村田正雄もいたという。

 収容所内の広場には「人生劇場」と名付けられた小屋も建てられ、演劇や歌などが公開されるようになった。流行歌や童謡は懐かしかった。演劇には女形まで出てきた。女形は大もてでプレゼントが山ほどあるという噂だった。演劇などは日本人部隊が主役だった。(外間守善『私の沖縄戦記』)

 空き缶(カンカラ)から「カンカラ三線(さんしん)」と呼ばれる弦楽器が作られ、「屋嘉節」という新しい民謡ができた。今や琉球芸能の演目では定番で、古典的な民謡に混じって演奏されている。
 俳句や短歌を学ぶグループもあり、司令官・牛島満と参謀長・長勇の辞世の句も広く回覧されていた。戦争体験記の草稿を書く人々もいて、後に出版された手記の多くはこの時期に記憶をまとめたと書かれている。秋頃には、沖縄戦の全容を格調高い文章でつづった作者不詳の「沖縄戦記」が評判になり、多くの収容者に廻し読みされ書き写されたという。


 
 勝田さんにも心慰められる楽しい思い出があっただろうか。何かあってほしい。不謹慎かとためらいつつ尋ねてみると、勝田さんは「楽しいことはなかったですねぇ」と即答した。が、その後、急に何かを思い出した明るい顔になり、「たぶん牧港の収容所に移送された後ですが」と前置きをして語りだした。

 四国の部隊の先輩で、徳島の中学を出たか何かした人が、英語がちょっとできたんです。粟国島(あぐにじま)かどこかで終戦になった人で。その人から私は英語を教えてもらったりした。収容所の中で英語を教えてもらって勉強したのが楽しかった。それは一つの思い出ですね。

 その人は収容所を出た後で徳島に帰り、長く郵便局長を務めた。終戦後は一度も沖縄に来なかったので会うことはなかったが、その人が10数年前に亡くなるまでずっと文通を続けたそうだ。
 進学に憧れながら果たせなかった勝田さんにとって、収容所が学びの場になったことは嬉しい話だ。戦友の中には大学を出た人も英語のできる人もいた。軍隊生活とは、平時では出会わないような人と生活を共にする経験でもある。収容所では、部隊や出身地を超えた繋がりも生まれた。
 勝田さんは捕虜収容所で英語に出会い、「アメリカ」に出会ったのである。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宮武実知子

みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。

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