(前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1945年6月で日本軍の組織的戦闘が終わっていたことも知らず、勝田さんは南部に潜伏し続けた。
「敵はこの島へ、3月23日にやってくる。そしてこの島の戦いは、6月22日に終わる。そして世界の戦争が8月15日に終わる」
名護のユタがそう予言したという噂が開戦直後から日本兵の間に広まっていた、と船舶工兵第26連隊の通信兵だった人が記している(野村正起『沖縄戦敗兵日記』、1974、太平出版社)。
ユタとは、今も沖縄に大勢いる民間の霊能力者である。内地では「
それだけではなく、勝田さんは8月15日のことも何も知らなかった。
沖縄戦の経験は十人十色だ、と勝田さんはいつも言う。沖縄の8月15日も、実に十人十色だ。
外間は前田高地の戦闘を奇跡的に生き延び、8月の時点では志村常雄大隊長が率いる70人ほどのグループの一員だった。山中を突破して北部へ合流したいが、
いよいよ分捕り作戦決行の日がやってきた。[…]今か今かと分捕り成功の合図を待っていると、中城湾に碇泊している米軍艦と輸送船団がいっせいに満艦飾に彩られ海からも陸からもおびただしい砲声銃声が轟いた。狐につままれたような夜が更けていった。後日わかったことだが、この日は8月15日。日本の無条件降伏を祝う祝砲だったのだ。(外間守善『私の沖縄戦記―前田高地・六十年目の証言』2006、角川学芸出版)
そんなこととはつゆ知らず、外間らは「トラック分捕りを夢見ながら更に3週間近く北上原に潜む」ことになった。結局、9月2日まで戦争が終わったことを知らず、9月3日に山を下りて収容所に送られている。
終戦を知らずに潜伏していた人の話は、案外たくさんあるようだ。
私がこの夏、話を聞かせてもらった女性は、1944年春に第32軍司令部が発足した段階で採用された事務員だった。最後に摩文仁の司令部壕が壊滅する直前、参謀の1人から「沖縄にもまた春がめぐってくる。いま死ぬのはたやすいけれど、生き延びなさい」と説得する手紙をもらって壕を出た。そして、彼女はそのまま海沿いの小さな洞窟に9月まで隠れていたそうだ。
連日、海からも崖の上からも「出てこい」と呼びかけられたが、出て行こうと思ったことはない。「日本が負けることないって本当に思いましたよ。神風が吹くとか、今考えれば不合理な話ですけど、あれ信じてましたね。捕虜になんかなるもんかって」。時々、兵隊らしい男たちが裸になって投降するのが見えるたび、一緒に隠れていた女性と2人で「情けない」と腹を立てたそうだ。
やがて、沖縄の各地に終戦を知らせるビラが大量に撒かれるようになった。夜中に食べ物を探しに行った彼女はビラを見つけて読んだ。
拾ってみたら、天皇陛下のお言葉と、戦争は終わったってこと。……ますます私たちは憤慨しましたね。天皇陛下のお言葉を、こうしてビラに撒いて捕虜にさせようとしている、ってあべこべに奮発しましたよ。
何週間後だったか、助け合っていた隣の洞窟の民間人グループに「本当に日本は負けたらしい。明日一緒に出よう」と説得されて投降した。久しぶりに太陽の下に出ると、目がくらんで何も見えなかったそうだ。それが9月何日のことだったのか、時間の感覚がなくなっていて分からないと聞いた。
勝田さんは当時どんなことを考えていたのか思い出せないという。ただただ「生きて帰る」とばかり念じていた。
掃討戦終了後の米軍は、夕方には仕事を終えて宿営地に戻った。だから、隠れている人々にとって夜は活動時間だ。勝田さんも、昼は警戒しながら浅くて短い眠りを繋いだ。ぐっすり眠った覚えはない。新兵の頃に歩哨に立った習慣もあって、細切れの眠り方をするのは今も習慣のようになっている。
夜になると、食料を探して歩き回る。潜伏していた八重瀬の辺りは、今でも夜は真っ暗だ。フィリピンのルバング島で30年も潜伏していた小野田寛郎は、真夜中でも昼のように物が見えるようになったという。そういうものですか、と勝田さんに問うてみた。「まぁ、それほどじゃなかったけど、一回通った道は分かりますね。どこに何があるというふうに」。
高台から見渡すと、濃い闇にぽつぽつと米軍の灯りが見えたそうだ。音楽が響いてくる時もある。たまに軍用犬の声も聞こえた。
一度、米兵に遭遇したことがあるが、死体のふりをしてやり過ごした。恐ろしいのは軍用犬とピアノ線だった。犬に死んだふりは通用するまい。「見つかって追いかけられたら、もう終わりだろう」と想像した。
犬には出会わずに済んだが、ピアノ線には何度か接触した。敗残兵を探すためにピアノ線のトラップが随所に仕掛けられていて、接触すると曳光弾が上がる。光に姿が浮かぶと無数の銃弾が降る。曳光弾の方角を確かめ、すぐ光の反対側に飛び込んで伏せたまま動かないのがコツだそうだ。
飲み水は、砲弾であいた弾痕にたまった水を飲んだ。梅雨の時期は水たまりも多かったが、8月にもなると干上がってくる。
水場では情報交換が行われる。米軍が撒くビラを拾って持参する者もいた。特に8月15日以後、日本の敗戦を伝えるビラが大量に撒かれるようになると、「日本はとうとう負けたらしい」と言い出す者が現れた。本当だろうか。罠ではないか。夜ごと話し合ったが、半信半疑で結論は出なかった。明け方、米軍の活動が始まる前に、皆それぞれのねぐらへと帰っていく。
やがて、信じざるを得ない出来事があった。
9月の2日になったら、飛んでいた飛行機も軍艦も、みんな煌々と電気を灯しているんですよね。それで、「日本は負けたんだな」と我々は信用した。「とうとう日本は手を挙げたんだなぁ」と……。
それは東京湾に停泊する戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われた日だった。飛行機や艦船の明るさが、何より雄弁な勝利宣言と見えた。
潜伏する人々への投降勧告に、米軍は先に投降した人たちからなる「宣撫(せんぶ)班」を送り込む。あの灯りを見た後だと、宣撫班の言葉にも説得力が感じられた。「日本は負けた。こんなところで命を捨てるのは損だ。明日トラックで迎えに来るから出てきなさい」と彼らは言った。翌朝、約束通りトラックが来て、勝田さんたちは外に出た。
米軍がまとめた戦況報告を見ると、9月5日付でそれらしき記録がある。
「午前10時、摩文仁の南東で将校2人、下士官兵2人、日本兵25人、防衛隊員4人、住民15人が投降」
規模といい場所といい、この「日本兵」の1人が勝田さんに違いない。
一緒に隠れていたN姉弟は、民間人の収容所がある
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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