一本だけ、紅葉をまとった木。周囲から浮き立ち、美しい。
 

 「黒い髪だろうが、赤い髪だろうが、本来問題にすらならないはずだ。見た目にとらわれて内面を無視し、“悪い生徒”とレッテルを貼るのは教育ではない」。この言葉をくれたのは、中学時代にお世話になったカナダ人の先生だった。いつもはひょうきんな彼が、最後の授業の日、それまで見たこともない真剣な眼差しで私たちを見渡しながら、熱を込め語っていた。
 この言葉を思い出したのには理由がある。先日大阪府立の高校で、生まれつき茶色い髪の毛の女の子が、黒髪に染めるよう指導され続けたとして訴えを起こしたというニュースを目にしたからだ。身体的な特徴を否定されること、それによって排除される苦痛は計り知れないだろう。ただ彼女の声は飽くまでも、氷山の一角である気がしてならない。
 私たちの身の回りにもなかっただろうか。大人になって振り返れば理不尽だと気づけても、その時は見過ごしてしまっていたことが。
 高校時代、とある部活の指導にあたっていた先生が前触れもなく怒鳴り、部員たちに“オットセイ”のようなポーズで体育館を何周も這わせているのを幾度も目にした。その子たちの手のひらは腫れあがり、ひどいときには皮も無残に剥けていた。
 こんな言葉を聞いたこともある。「うちの生徒はすごいと言われるけれど、何がすごいんだろう。短くしているスカートから見える太もも?」。男性教師の言葉に、体が固まった。
 大人になり、知識やつながりが増えた今だからこそ分かることもある。あれは体罰であり、セクハラだった。けれどもあの時は、それが声をあげていいことだということも、声のあげ方も分からず、「学校ってそういうものだ」と、どこか割り切っていた。
 今でもあまりいい思い出として高校時代を振り返ることができない。それは学校で起きていた出来事そのものよりも、それにはっきりと疑問を呈し、変える努力もせず背を向け続けてきた自分がいるからだと思う。何かに従うことは学校の中で再三教えられる。けれども、理不尽なものに抗うことを忘れかけていた。
 「そういうものだ」と慣れてしまえば、そこから思考が止まってしまう。「なぜ?」を一緒に考えられる場を築きたい。何より一人一人が声をあげていいんだ、と思える空気を作らなければ、と思う。SOSに耳を傾け受け止める場を、疑問には対話で応える場を。そんな場所を広げていくのが教育の役割ではないだろうか。だからこそ今、一人の大人として、単に自立を促すよりも前に、「頼っていいんだよ」と語りかけ続けたい。

地上の天の川のような、水面に浮かぶ灯。よく見ると色彩も光の強さも少しずつ違う。(熊本県熊本市で行われた「みずあかり」)