上野敬幸さん(手前右)の自宅前で、東日本大震災後、自身が歩んできた日々の話を伺った。
 

 風が木々の葉を揺らす音だけが、静かに響いていた。耳を澄ませても、波音は聞こえない。けれども目の前の校舎の柱は無残にへし折れ、黒板や辛うじて残る可愛らしい絵が描かれた壁が、確かに流れていた子どもたちの時間を物語っていた。宮城県石巻市、大川小学校。あの2011年3月11日、児童74人、教職員10人が犠牲となった場所だ。この大川小学校を、全国から集った高校生たちと訪れた時だった。「なぜ、もっと早く来なかったんだろう」。同じ宮城県内でも内陸の出身である高校生が、悔しさを口にした。

 毎年8月、高校生対象の東北スタディツアーを開催してきた。かさ上げ工事などで目まぐるしく街の様子が変わる中、教訓を埋もれさせないために出来ることは何かと、模索の末考えたのは、次の世代を担う高校生たちと一緒に東北にお邪魔することだった。4回目となる今回も、全国から多くの応募がある中、11人の高校生たちが選ばれ、福島、宮城、岩手を共に巡った。

 そんな高校生たちが最も心に刻まれたこととして挙げるのが、先に記した大川小学校、そして福島県南相馬市でお話を聞かせてくださった上野敬幸(44)さんだった。上野さんはあの日の津波で、母の順子さん(当時60歳)と娘の永吏可(えりか)さん(当時8歳)を亡くし、父の喜久蔵さん(当時63歳)と長男倖太郎(こうたろう)くん(当時3歳)は行方不明のままだ。原発事故を受け、救援の手も殆ど届かず、自らの手で遺体の捜索を続けた。ぬかるみや瓦礫の間から見つけ出した亡骸は皆、昨日まで声を掛け合っていた隣人たちだった。永吏可さんの遺体は、自宅のすぐ裏から見つかった。

 そんな上野さんが意外なことを口にした。「皆、東北のことなんて、俺は忘れてくれていいと思ってるんだ」。その言葉が何を意味しているのかと、高校生たちの表情がこわ張る。「東北それ自体は忘れてくれていいんだ。ただ、教訓は残ってほしいと思っている」。あの東日本大震災後にも、災害は相次いでいる。誰かが犠牲になる度に、上野さんはやるせないのだという。「自分たちの教訓、活かされてないのか」、と。

 上野さんの自宅を後にし、次の目的地へと向かうバスの車中、皆その言葉を咀嚼しようと試みていた。教訓とは何か、自分は今まで命を守るために何か取り組んだことがあっただろうか。そしてここで頂いた言葉、撮らせて頂いた写真を元に、何をどう伝えればいいのだろうか、と。

 そんな高校生たちの写真展とギャラリートークが11月に東京で行われ、南相馬から上野さんも駆けつけてくださった。高校生たちは、それぞれの言葉でその体験を語った。「今までと、伝え方が大きく変わりました。伝える相手が何に興味を持っているかを考えるようになったんです」。例えば相手が音楽が好きなのであれば、岩手で見た祭囃子の素晴らしさを、写真が好きな人であれば、自分がシャッターを切ることに躊躇した話を。高校生の言葉にハッとさせられた。自分が何を伝えたいかだけではなく、どんな風に届ければ、相手に受け止めてもらえるのか。大切な想いのこもった言葉を頂いてきたからこそ、考えなければいけないことだろう。

「なぜ、もっと早く来なかったんだろう」。大川小学校で高校生たちが抱いたのと同じ気持ちを、私も上野さんの自宅に初めてお邪魔したときに感じていた。確かに、遅かったかもしれない。でも遅すぎることはないのだと、上野さんたちが、そして高校生たちが私に教えてくれた。自分や大切な人を守るためにできることは何か。頂いた教訓を、どう私たちは日常に持ち帰ることができるのか。それを問い続けることが、今を生きる私たちに託されたものではないだろうか。

スタディツアーの最後にお邪魔した、岩手県陸前高田市、「うごく七夕」。悲しいだけの場所になってしまったのではないことを、シャッターを切りながら実感する。