この一年を私たちはどう過ごしてきたのか。過酷な体験を経て、自分たちはどのように変わったのか――これは、三月十一日という節目を迎えて、多くの人々の胸に去来した問いかけだったと思います。そして、大半の日本人はおそらく、この日をどう過ごしたらいいのかと、それぞれに思いをめぐらせていたのではないでしょうか。
 一年前のあの日、わが編集部は次号の「考える仏教」という特集を準備しているさなかでした。日本人と仏教の関係を問い直し、現代における仏教の役割を再考しようとしていたまさにその時に、未曾有の大震災がこの国を直撃したのでした。そして、奇しくもその特集に登場した複数の人たちが、阪神・淡路大震災を契機に初めて仏教というものに関心を抱き、それが思考の転換点になったと発言していました。
 偶然の符合とは言い切れない何かを感じました。想像を絶する天災(そして原発事故)が日本を襲い、多くの命が奪われ、先の見えない不安に日本社会全体が恐れおののくという事態の中で、仏教に何ができるかを問う特集の意味を改めて考えざるを得ませんでした。
 同時に、おそらく一年後にはこの震災に関する特集を何かやることになるだろう、とも感じていました。阪神・淡路大震災が多くの人たちの生き方、考え方に根本的な影響を与えたように、今回の震災は後世からみても日本人全体にとっての分岐点になるに違いないと思われたからです。

 その時、補助線として頭に浮かんだのが、「東北」という言葉でした。私自身、この名称で呼ばれる地域にはずいぶん旅したつもりでした。よく知っている土地だと思っていました。しかし、「東北」のいったい何を見ていたのか? そもそも「東北」とはいかなる土地なのか? 大きな疑問がわいてきました。
 震災後の風景の中で見た東北の人々の表情やふるまい、言葉遣いの奥底には、あの地に脈々と受け継がれてきた歴史、文化、民俗の流れを感じました。被災地の光景の背後には、これまで確とは捉えられなかった「見えない東北」の輪郭がほのかに感じられました。それらについて新たな言葉を見出すことはできないか。さらに言えばこれらを通じて「日本人というもの」について確かな知見を得ることはできないか――。

 今回の特集では、池澤夏樹さんに基調となる長篇エッセイをお願いしました。震災からちょうど半年後に刊行された『春を恨んだりはしない』(中央公論新社)の中で、池澤さんはこう明記していました。
「あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない」
「背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う」
「死は祓えない。祓おうとすべきでない」
「これらすべてを忘れないこと。
 今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる」
 震災直後から被災地に何度も足を運んでいた池澤さんが、被災地の風景の中で体感し、それを可視化しようとした「東北の土地の精霊」とは、時代を超えてこの地に遍在する「生きている死者たち」の言葉に他なりません。
 さらに、震災が日本永住と日本国籍取得を決意させたというドナルド・キーンさんや、仙台在住の伊坂幸太郎さん、また父・舟越保武さんの郷里である盛岡で、「3・11絵本プロジェクトいわて」の活動を続けている末盛千枝子さんらには、各々が感じている「東北の魂」を語っていただきました。
 また山形生まれの二人の作家、井上ひさしと藤沢周平の小説を通して読む東北、あるいはいくつかのキーワードから浮かび上がる東北の深層をそれぞれの角度から探ってみました。
 震災という過酷な体験を契機に、私たちは何を発見したのでしょうか。ひとつには、過去にもたびたび天変地異に見舞われながら、それでも逞しく生きてきた、日本人の伝統があると思います。『方丈記』に象徴される無常観を抱えながら、それでも毎日を地道に生きようとしてきた日本人の「根っこ」。
 この苦難の一年が私たちに開示した何かを、いま「東北」という窓から見つめたいと思います。