番外編 もし東京から人間が消えたら(前編)
前編 自粛の影響は野生動物にも
著者: 松原始
「カラス先生」と言えば動物行動学者の松原始さんだ。「カラスの悪だくみ」の連載は『カラスは飼えるか』として書籍化され、好評とのこと。さまざまな鳥の特徴からカラスに出会える場所までを伝える一冊だが、そんな鳥たちは、人間が家に引きこもっているこの時期にどうしているのだろう? カラス先生に聞いてみよう。
Covid-19の感染拡大を防ぐため、世界各地で外出の禁止、あるいは自粛が行われている。普段出歩いている人間がいなくなる、少なくとも極端に減る、ということだ。これは社会の様々な側面に大きな影響をもたらしつつある。先日、やむを得ない事情で出勤した時に見た丸の内地下街の光景は忘れられない。店という店は閉店し、「当面休業します」の張り紙。そして、普段ならビジネスパーソンで賑わうフードコートも閉鎖され、人影のない地下道がどこまでも続くばかり。映画『マトリックス・レボリューシ
その影響は人間社会にとどまらない。インドのパンジャブ州では数十年ぶりに街中から約200km先のヒマラヤ山脈がくっきり見えたとCNNが報じた。経済活動の縮小により、煤煙や排気ガスが減少し、空気の透明度が上がったからだ。同ニュースではデリーの大気汚染物質PM10が規制初日に44%減ったとも報じている。
ESA(欧州宇宙機関)の地球観測衛星SENTINEL-5Pのデータによると、中国やイタリアで二酸化窒素濃度が下がった。これも自動車や工場の活動が低下したからに他ならない。
また、2020年4月10日のナショナルジオグラフィック日本版サイトは、武漢市が都市封鎖の間、本当に「静かに」なっていたことを報じている。地震計が捉える微振動が急減し、封鎖解除と共に元のレベルに戻ったのだ。無数の人や車が動き回ることで、微弱とはいえ、地震計に捉えられる振動が発生していたのである。
そして、野生動物の動きも普段とは違って来た。
野生動物は一般に、人間が近くにいることを嫌う。特に哺乳類は隠棲的で、人間の前に堂々と姿を見せることは少ない。タヌキもキツネも、実際には人間の身近に住んでいるのだが、その姿を見た人は少ないだろう。山奥であっても、そう簡単に人前には姿を見せない。それは彼らが主に夜行性であること、そして、人間が近づくと人間より先にそれを察知して身を隠すからである。これはクマやイノシシのような大型獣でも同じだ。
多くの人間の暮らす都市にも野生動物はいる。あるいは、その周辺に住んでいる。もし、都市環境で一番目立っている「ヒト」という大型動物が突然姿を消したらどうなるか?
4月10日、在宅勤務の合間にテレビを見ていたら、チリの首都サンチアゴで市街地に複数のピューマが現れたというニュースをやっていた。どうやら人間がいなくなったため、市街地まで行動圏に含めるようになったらしい。フランスでは石畳の大通りでマガモ(それともアヒルか?)のカップルがデート中で、イギリスでは羊の群が街の真ん中を闊歩している。
奈良市では市内の普段来ない場所まで、奈良公園のシカが姿を見せていると知り合いに聞いた。これは「観光客がいないので鹿せんべいがもらえないから」としている記事もある?が、鹿せんべいを腹一杯食べているシカなんて、いたとしてもほんの一握りである。奈良のシカの餌の大半は天然の植物だ(だからこそ、下生えの食害が問題になるのである)。また、普段から奈良公園の外にも出かけている。ただ、今回はその範囲が広がっているようだ。これもおそらく、人間という邪魔者がいなくなったことで、シカが本来の生活を取り戻し、行動範囲を広げて来たと見るべきだろう。
私の住んでいるところも例外ではない。東京都内の庶民的な住宅地だが、先日、どうしても所用があって外出したところ、マンションに挟まれた道路を横切っている動物に気づいた。遠目でよくわからないが、色はくすんだ褐色のようだ。最初は大きさからしてネコだと思ったのだが、ちょっと違和感がある。動きが遅い? いやまあ、ネコだってのんびり歩く時はのんびりしているが、なんだか足が短い。そのせいで動きがノソノソして見えるのだ。何より気になるのは、体の後ろの地面に見える何かだ。あれは尻尾の影か? 違う、あれは尻尾そのものだ。長い尻尾を地面に引きずりながら歩いている。
ネコじゃない、ハクビシンだ!
ハクビシンは道路を横切ると「よっこいせ」とマンション敷地を囲む低い生垣に入り込み、姿を消した。全く慌てた様子はなかった。
ハクビシンは白鼻芯と書く。黒い顔の鼻筋に白い線があるのが特徴だ。大きさはネコくらいだが、長い尾がある。ジャコウネコの仲間で、近年、都市部でも目撃される例が増えている。
このハクビシンという動物、いろんな意味でやっかいである。まず、人為的に海外から持ち込まれた移入種だろうとは言われているのだが、その由来がはっきりしない。日本での分布が限定的、かつ飛び飛びに分布していたところや(本州東部と四国に多い)、古い時代の記録がないこと、化石も出ない点から、移入種ではあるのだろう。一方で遺伝的には大陸産のものとは少し違いがあり、移入種だとしてもかなり古い時代に持ち込まれた可能性も。
そして、人家の屋根裏に入り込む厄介者としても知られている。ハクビシンは雑食性で果実もよく食べ、木登りが上手という動物だ。電線を伝って移動することすらできる。
というわけで、東京23区内にいること自体は別に不思議ではないし、隣駅の繁華街で明け方に見かけたという話も聞いていたのだが、今まで私の住んでいる地域で見たことはなかった。それがいきなり、真昼間の路上に姿を見せたのだ。
もちろん単なる偶然とも言えるが、やはり、人通りの消えた街はハクビシンにとって「ストレスなく歩ける場所」になったのではないか、と思うのである。
カラスの日常は?
私の研究しているカラスはどうだろう。
都市部のカラスは人間の出す食べ残しや食品廃棄を餌資源の一部としている。これは毎朝、ゴミを巡ってカラスと攻防を繰り広げてきた都民なら身にしみてわかっているだろう。カラスはゴミしか食べないわけではないが、栄養豊富で食べやすい、しかも逃げも隠れもしない生ゴミはカラスにとって非常に良い餌になる。カラスはもともと他の動物の食べ残しを漁ることも多いから、彼らにしてみれば本来の生活の一面にすぎないわけだし。
政府の緊急事態宣言(4月7日)と東京都の外出自粛要請(4月8日)も出て、東京じゅうが「可能な限り出歩くな」に突入して数日。人間の活動が大幅に変わった場合、カラスの生活はどうか? これは大変、興味深い問題である。私は自宅でリモートワークをしたり、原稿を書いたり、時間があるのにかまけて一人居酒屋ごっこをしたりしながら、そう考えた。
無論、外出を自粛すべきなのは理解している。だが、徒歩圏内で、一人で黙って路上からカラスを見ているのは、感染拡大を助長する行為には当たらないだろう。それよりもこういう滅多にない事態に対し、繁殖期のカラスがどう反応しているか、それを確かめておくことは生物学者として必須ではないだろうか。いやまあ、カラスでも眺めていないと気が重くなるという理由も否定はしない。幾分かは運動不足の解消にもなる。
というわけで、私は近所に、カラス調査に出かけた。
(後編につづく)
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『カラスは飼えるか』(新潮社)
松原始 著
2020/03/23発売
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松原始
まつばら・はじめ 1969年奈良県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科博士課程修了。専門は動物行動学。東京大学総合研究博物館の特任助教。研究テーマはカラスの行動と進化。著書に『カラスの教科書』ほか。もちろん悪だくみなどしていない。心に浮かぶ由無し事を考えているだけである。ククク……
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥