連載にあたって
これから毎週、語源、つまりことばの由来を考えていきます。
語源について「解説する」のでなく、「考える」というのが肝心なところです。
世間では、さまざまなことばについて、もっともらしい語源解説が加えられています。中には「本当だろうか」と疑わしい解説も多いのですが、受け取る側は、あまり真偽のほどは重要視していないフシがあります。語源は、せいぜい話のネタであり、面白ければいいんだ、という程度に考えている人も多いのではないでしょうか。
でも、私たちが毎日使っている日本語のことです。どこから来たのか、できるだけ事実に近づきたいではありませんか。「こういう説もあります」と並べて解説するだけではなく、実証的、合理的に考えて、「ここまでは確かに言える」「少なくともこの語源説は違う」と、頭を働かせて考えてみることは大事なことです。
といって、あまり難しい話をするのは、私も嫌です。気楽に読めて、しかも、「なるほど、そういうことはあり得るだろう」と、納得できる話をするつもりです。ご一緒に、語源の森に分け入っていきませんか。
(※連載の1回分の分量は、週によって長短があります。気まぐれですみませんが、どうぞご容赦ください)
オシャカになる
「エンジンがオシャカになる」「大風で傘がオシャカだ」のように、製品がだめになったり、ものが使えなくなったりすることを「オシャカになる」と言います。なぜここにお釈迦さまが出てくるのか、昔から不思議に思う人が多かったらしく、語源に関してはいくつもの説があります。
その最も代表的なのが「火が強かった説」です。よく検討してみれば、これは否定するしかないものです。
「火が強かった説」というのはこうです。
鋳物工場で溶接を行うとき、火力が強すぎてはんだが流れ、接着に失敗した。「火が強かった」から失敗したというわけで、これをしゃれのうまい人が「シ(ヒ)ガツヨカッタ=4月8日」に引っかけた。この日は灌仏会、つまりお釈迦さまの誕生日だ。そこで、でき損ないの不良品のことを「オシャカ」と呼ぶようになった……。
話としては面白いですね。あまりにも面白いので、多くの語源の本にも引用されているし、テレビのクイズ番組でも「正解」として紹介されることがあります。でも、俗語の成立過程としては回りくどすぎるようにも思われます。
この説を唱えたのは楳垣実。外来語の研究などに多大な業績を残した言語学者です。ただ、大学者の説だから常に正しい、ということはありません。楳垣よりひと回り若い言語学者の金田一春彦は、他の説とあわせて〈どうもこれも話がうますぎるようだ〉と、楳垣説をばっさり切り捨てています。
もっと理屈の通る考え方はできないでしょうか。ここで、「オシャカ」ということばは、「不良品」以外にどういう意味で使われた例があるか、検討してみます。
日本文学者の宮地崇邦が雑誌『言語生活』の1960年12月号で「仏教から生活に入ったことば」について書いています。その中に〈釈迦の名から「オシャカになる」(死ぬことをいう)〉という説明があります。ここでは「オシャカになる」は「死ぬ」の意味と捉えられています。
「オシャカになる」を「死ぬ」と関連づけている辞書もいくつかあります。古いほうでは、たとえば1932年の『最新百科社会語辞典』にこんな説明があります。
〈「お釈伽〔原文ママ〕になる」「仏になる」即ち「死ぬ」の意より転じて、「ダアーとなる」〔降参する〕と同じ様な意味に使用されてゐる。即ち「まゐつた」とか「すつかりあてられた」等の意〉
ここで説明している「オシャカになる」は、今の一般的な意味とは違いますが、その元の意味を「死ぬ」だと捉えていることは注目されます。
「死ぬのは『お陀仏になる』ではないの?」という疑問が湧くかもしれません。「お陀仏」は阿弥陀仏のことです。人は死ぬと「仏」になるとは言われますが、厳密には「阿弥陀仏」になるわけではありません。「お釈迦」、すなわち「釈迦牟尼仏」になるというのも、正確さの点では「お陀仏」と似たり寄ったりです。「お陀仏」が死ぬことなら、「お釈迦」も死ぬことの意味で使われたとしても不思議はありません。
語源説の自然さという点から見ると、「火が強かった」からいくつものプロセスを経て「オシャカになる」が成立したというのは、いかにも迂遠です。それよりも、「製品としてだめになる=死ぬ」ことから「オシャカになる」が成立したと考えるほうが自然だし、「お陀仏になる」という類義表現もあることから、より説得的です。
「オシャカになる」は江戸時代の文献には見えないので、近代の工場で生まれたということには信憑性があります。でも、「『オシャカ』と掛けて『製品がだめになること』と解く、その心は『火が強かった』」、と言うのでは、すごく説明の必要なしゃれになってしまいます。これで工場の仲間たちが「おっ、うまいことを言うなあ」と納得するかどうか、はなはだ疑問です。
実際には、さしずめ、次のような会話から新表現が生まれたのでしょう。
「あっ、失敗した、この製品はだめになった」「仏になったんだな」「ああ、お釈迦になった……」
何なら、「本当は『お陀仏になる』と言うべきところを、『お釈迦になる』と言い誤ったのだ」と捉えてもかまいません。でも、「お釈迦になる」に「死ぬ」の意味があるなら、どちらでも大差ないことです。
かくして、語源の話になるとしばしば出てくる「オシャカになる」は、自然さという点から考えれば、「製品として死んで仏になる」という意味から出たと考えるほうが、より妥当ということになります。
面白さの点では、「火が強かった説」にはとうてい及ばない結論です。でも、語源とは、雑談のネタにするために探究するものではありません。合理的に考えてみれば、事実はごく単純、ということはよくあります。「その語源が面白いかどうか」ではなく、「合理的に納得できるかどうか」を重視して、語源探究を続けていきましょう。
――「火が強かった説」以外の従来説にはどんなのがあるか、とうとう述べませんでした。いずれも根拠は確かめられず、ここで取り上げる価値はないものです。
シャカリキになる
若い人がどのくらい使っているか分からないのですが、「シャカリキになって働く」「シャカリキにがんばる」などという言い方があります。「シャカリキになる」は、「(仕事などに)一生懸命になる」という意味です。
なんでこんな言い方をするのか、実はよく分かりません。
「釈迦力」ではないのか、という説があります。インターネットでも「仏教用語です」「お釈迦さまの力ということです」と断定的に書いている人がいます。でも、これは考えにくいことです。
仏教には「観音力」(観音さまの優れた力)ということばがあります。また、仏教用語とまでは言えないけれど、「普賢力」(普賢菩薩の力)、「金剛力」(金剛力士の強い力)などのことばもあります。とすれば、「釈迦力」もありそうな気がしますが、古典には例がありません。
もし、「釈迦力」から来ているならば、「観音力を念じる」「観音力が現前する」と同じように、「釈迦力を……」「釈迦力が……」などの言い方もあるはずです。でも、「シャカリキ」はもっぱら「シャカリキに(で)」の形でしか使われません。
「シャカリキ」は、実はかなり新しいことばです。終戦前に使われていたという証言もありますが、確かな例は戦後のものばかり。戦後に広まった俗語なんですね。ますます仏教用語とは縁遠い感じです。
語形から意味の捉えにくいことばは、擬音(オノマトペ)ではないかと疑ってみる余地があります。かりに「シャカリキ」が擬音だとすると、その成り立ちは、「シャカ+リキ」か「シャカリ+キ」かのどちらかです。
「ぴっかり」に「こ」がついて「ぴっかりこ」と言うような例を思い浮かべると、「シャカリ」という擬音に「キ」がついた、「シャカリ+キ」もありそうです。泥酔状態を指す「へべれけ」も、「へべれ」の部分が「べろべろ」「べろんべろん」などの擬音と関係があると考えれば、「へべれ+け」かもしれません。
ここから、「擬音にはコとかキとかケとか、カ行音が加わることがあるのだ」と結論づける道もあります。ただ、類似の例がほとんどないのは痛い。私としては、仕事や勉強を「シャカシャカ、シャカリ」と一生懸命やるイメージがあり、それに「キ」がついたと考えたいところですが、まあ「個人の感想」のレベルです。
今のところ、「シャカリキ」の語源は不明と言わざるを得ません。ただ、少なくとも「釈迦力」ではない、ということは言えるでしょう。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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