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分け入っても分け入っても日本語

G(虫の名前)

 晴れた日の午後、私は東京・永田町にある国立国会図書館の「音楽・映像資料室」にいました。ここで、ある懐かしいテレビドラマの台本を閲覧しようとしています。
 おぼろげな記憶の中のドラマです。タイトルもストーリーも忘れていました。番組を見たのは、確か中学生の時。1980年か81年でした。
 ―おばあさん(たぶん大阪の人)が、娘と電話で話しています。その時、畳の上を黒い虫がササッと横切ります。おばあさんは思わず叫びます。
「ゴッカブリ(が出た)!」
 私が覚えているのはこの場面だけ。「ゴッカブリ」という言い方が耳に新しくて、強く印象に残りました。
 ここからは、食事中の人はまず食べるのをやめてお読みいただきたいのですが―略称で「G」と呼ばれる害虫がいますね。私は、中学1年の国語の授業で、この虫の語源について習いました。
〈このゴキブリというのも妙な名前である。そのいわれは江戸時代の「御器かぶり」で、食器をかじることからきている。それがゴキブリとなまったのは、明治になってからのことらしい〉(小西正泰「新動物誌」=『新編新しい国語一』東京書籍)
 国語の授業で知った「御器かぶり」という古語が、「ゴッカブリ」という方言として残っている! ドラマを見た私が興味を引かれたのはこの点でした。
 NHKで夜に放送していた「銀河テレビ小説」の一作品だったはずです。ただ、このドラマシリーズは1年に何本も作られていて、作品の特定が難しい。インターネットの「テレビドラマデータベース」で検索すると、80年だけで13作品もあります。しかたなく、それらのあらすじを読んでいきました。すると、問題のドラマは、どうやら「極楽日記」(80年9~10月放送)ではないかと思われました。
 夫と死別した女が、6人の子どもを抱えた男のもとに嫁に行く話です。登場人物の中に、記憶の中のおばあさんに似た人はいないか、出演者名を基にGoogleで画像検索してみました。初井言榮ことえという人が、記憶の中の人によく似ています。その娘がヒロインで、丘みつ子。これなら、おばあさんと娘が電話で話す場面もあるかもしれません。
 国会図書館の一室で、私は「極楽日記」の台本の実物をめくっていきました。第7回まで読み進めたところで、こんなせりふがありました。
〈たつの いやーッ、ゴッカブリが歩いとおる! とにかく、そんなしょうないことは自分で解決しなはれ。(と、電話を切ってゴキブリを追い掛けまわす)コラッ! 待て!〉
 ちょっと感動しましたね。三十数年前のおぼろげな記憶が、誤りでなかったことが実証された瞬間でした。古い記憶の中のことばに、ずっと後になってから再会するうれしさ。これは、ことばにこだわりのある人間だけが感じる気持ちかもしれません。
「極楽日記」は、NHK大阪局制作で、舞台は大阪。脚本の茂木もぎ草介も大阪の人です。「ゴッカブリ」は「ゴキブリ」の大阪方言で、それが作品に現れたのです。
「ゴキブリ」の語源とされる「御器かぶり」は、今日では耳にすることがありません。でも、方言にこうして「ゴッカブリ」の形が残っているからには、昔、「御器かぶり」ということばが広く使われたのは疑いないことです。
「御器かぶり」は、文献の上では、江戸時代の『和漢三才図会ずえ』などに出てきます。また、『現代日本語方言大辞典』によれば、方言として、「ゴッカブリ」に類する語形(ボッカブリ・ゴッカブイなど)が、関西以西に広く分布しています。
 一方、「アブラムシ」と言う地域が、関東から九州まであります。分布状況から見て、「アブラムシ」のほうが古く、そこに関西から「ゴキカブリ」が広まったと考えられます。ちなみに、さらに古くは「アクタムシ」「ツノムシ」と言いました。
 ところで、分からないのは、「ゴキカブリ」から「ゴキブリ」の形が生まれることが、本当にあり得るか、ということです。「カ」の有無ぐらい、たいした違いではないようですが、一般には、こういう変化はほとんど起こらないのです。
「カエルデ→カエデ(楓)」「ウンドン→(麺類の)ウドン」のように、ラ行音やンの音がまるまる脱落することは、しばしばあります。でも、「カ」というはっきり聞こえる音が脱落する確例を、私はほかに知りません。
 ここで信憑しんぴょう性を帯びてくるのが、「ゴキカブリ」を「ゴキブリ」と誤植したのが広まったという説です。1884年の岩川友太郎『生物学語彙』に〈Cockroach 蜚?(ゴキブリ)〉とルビが振られています。書物に現れた「ゴキブリ」の最古例です。これが「ゴキカブリ」の誤植で、そのまま定着してしまったというのです(小西正泰『虫の博物誌』など)。
 これは本当でしょうか。案外、方言で昔から「ゴキブリ」と言っていた地域がある、ということはないでしょうか。
 前出の方言大辞典を見ると、西日本で「ゴキカブリ」と言うのに対し、東日本では「ゴキブリ」が優勢です。ただし、「当地にはいない。テレビで覚えたことば」(福島)という証言もあり、そもそもことばがないという地域が、東日本の寒冷地に多くあります。書物から生まれた「ゴキブリ」ということばが、寒くて実物があまりおらず、ことばもなかった東日本に流れ込んだと考えると、合理的に解釈できます。
 誤植がもとで新しいことばが広まったというのは、面白すぎて、にわかに信じがたい気がします。でも、「ゴキカブリ」が単になまって「ゴキブリ」になったというよりも、誤植説のほうが、やはり真実に近そうです。
 

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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