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分け入っても分け入っても日本語

 1980年代頃、口頭で「御社おんしゃ」という呼称を使うことが広まり、90年代には普通に用いられるようになったと述べました。なぜこの時期に「御社」が広まったか。その鍵のひとつは「おたく」の意味変化にあると考えられます。
 もともと、「おたく」は相手の家を指す敬称として使われはじめました。「先生のお宅は閑静で結構ですね」などという用法で、これは江戸時代からあります。また、「お宅は何人家族ですか」と、相手の家庭を尊敬して言う用法も以前からあります。
 これが拡大して、会社など、相手の集団を呼ぶ敬称にも使われました。
 戦後10年経った頃のこと、「実用的な手紙文を新入社員にどう教えるか」について、各社の担当者が座談会を行いました(『言語生活』55年12月号)。それを読むと、
〈そこでお宅はパンフレットを作ったわけですか〉
 のように、相手の会社のことを「お宅」と言っている例が数例出てきます。肩の凝らない座談会ですが、今の若い人は、こういう場合でも「お宅」は使いにくい、「御社」のほうがいい、と思うのではないでしょうか。
 他社を「お宅」と言うことが決しておかしくなかったことは、「御社」の項で紹介した80年代の投書からも分かります。投書者は、「お宅の会社」とか「そちらさま」とか言う代わりに「御社」を使うのだろう、と推測を述べていました。「お宅の会社」は、当時自然な表現だったのです(「お宅さま」と言ったほうがより丁寧です)。
 話が前後しますが、50年代には、青年層を中心に、相手個人を「お宅」と言う用法が現れました。作家の小林信彦さんも、50年代前半に参加した学生運動で〈おたくはこっちの列に入っていてください〉と呼びかけられたそうです(『日本人は笑わない』)。
 この、相手個人を「お宅」と呼ぶ用法は、その後も脈々と受け継がれました。作家の新井素子さんは、大学生だった80年代の文章で、友人との会話を描写しています。
〈「あ、もとちゃん? おたく、次の授業、あたるよ」/「あ、本当? どの辺?」〉(『ひでおと素子の愛の交換日記』84年)
 私もまた、80年代の高校・大学時代に、友だちに向かって「お宅はどうだい」などと使っていました。ちょっと大人っぽい言い方という感じを持っていました。
 一方で、この頃から、「お宅」という呼称を揶揄やゆする動きが生まれました。雑誌『漫画ブリッコ』83年6~7月号に、評論家の中森明夫さんが「『おたく』の研究」と題する文章を寄稿しました。コミックマーケット(コミケ)に集う少年少女の「異様さ」が取り上げられ、〈中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくらさぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない〉という感想が記されました。中森さんはこの文章で、雰囲気の暗いマニアたちを「おたく」と命名しています。
 中森さんの主張には、当然反論も起こりました。それでも、こうした蔑称としての「おたく」は次第に広く使われるようになりました。
 私は、大学生だった80年代後半にクラスメートから指摘を受けました。
「飯間は人に『お宅、お宅』と呼びかけるだろう。それは、アニメなんかのマニアの言い方だよ」
 その表情が軽蔑に満ちていたので、私はそれっきり「お宅」を使うのをやめました。「お宅」から「おたく」へと、ことばの指し示す対象が変わっていたのです。
 マニアの蔑称としての「おたく」を定着させる決定打となったのは、88~89年に東京・埼玉で起こった連続幼女誘拐殺人事件でした。犯人の男がアニメなどのビデオテープを大量に持っていたことが興味本位に報道され、漫画やアニメ、パソコンなどの「おたく」は何をしでかすか分からない危険な集団だと、本気で思われるようになりました。
 90年のある日、コンピューターに詳しい大学教授の所へお話を伺いに参上したことがあります。その先生は、「僕のやってることは『おたく』の世界でしょう」と自虐的に話され、私は衝撃を受けました。今なら普通の表現ですが、当時、社会的に色目で見られかねない「おたく」を自ら名乗ることは、勇気が要ったのです。
 この頃、すなわち90年代になると、相手のことを「お宅」と呼ぶのはもちろん、相手の会社を「お宅(の会社)」と呼ぶのもためらわれる雰囲気が生まれました。これとほぼ同時期に、前項で述べた「御社」という呼称が広まっています。これは偶然ではないでしょう。「おたく」が差別的な語感を伴ったため、代わりの言い方として、文章語だった「御社」が好まれたのです。「御社」の普及には、就活セミナーの一般化などの理由も考えられますが、「お宅」の極端なイメージ悪化を抜きに語ることはできません。
 その後、状況はまた変わります。「おたく」と呼ばれたマニアは、次第に消費集団や、ものづくり集団として力を持ちはじめました。経済の面でも無視できない存在になりました。そうすると、「おたく」がむしろかっこいいという見方が現れます。『週刊新潮』2006年1月26日号では、〈〔世の中は〕「オタク」という言葉にも市民権を与え、最近では「アキバ系」「Aボーイ」などの呼称も現れ、ファッションにすらなっている〉と紹介されています。
 私の携わる『三省堂国語辞典』では、マニアを表す「おたく」について、08年の第6版までは〈特定の趣味にのめりこんでいる(内向的な)マニア〉と、ネガティブな説明をしていました。14年の第7版で、〈特定の趣味にのめりこんで、くわしい知識をもつ人〉とポジティブな説明に変更しました。「おたく」は、わずか何十年かの間に、世間的な評価が極端に乱高下した、たぐいまれなことばです。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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