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食べる葦

 2003年3月のイラク戦争で、私が泊まったバグダッドの宿は「サフィール」という小さなホテルだった。サフィールは英語でいえばアンバサダー、大使という意味だ。アンバサダー・ホテル。名前は立派だが、3階建ての古い建物で、ルームメイドのおばさんはスリッパ履きでぱたぱたやってくる。商人宿といったほうが近い感じのホテルだ。
 戦争が起きる前は、中心部にあるパレスチナ・ホテルに泊まっていた。市内に三つある五つ星ホテルの一つで、電話やテレックスなどの通信機能が完備しているうえ、プレスセンターが置かれていて便利だった。しかし戦争が始まるやホテルは欧米のテレビ局に占拠され、部屋は取れなかった。
 私の新聞社からは、開戦と同時にカイロやイタリア、フランスなどの若手特派員がバグダッドに飛びこんでいた。彼らがあちこち探し回り、プレスセンターのあるパレスチナ・ホテルに近いということでサフィール・ホテルに決め、支配人と交渉して20室のうち10室を確保した。私はその3階の道路側の部屋に入れてもらったのである。
 ホテルは、チグリス川沿いの堤防道路から路地を50メートルほど奥に入ったところにある。建物の間から、チグリスの大河のゆったりした流れが見えた。
 米軍はすでにバグダッドに入っていたが、戦闘はまだ続いており、市内のあちこちから銃撃の音が聞こえる。イラク側の行政機構が壊れてしまったため、バグダッド市内は停電していた。パレスチナ・ホテルは24時間の自家発電だが、小さなサフィール・ホテルにはその余裕がない。自家発電は朝の6時から夜8時までで、それ以外は無電力である。夜8時を過ぎると真っ暗、エレベーターも冷蔵庫もだめ、という状態だった。

便器まで外して持ち去る

 取材用の車を雇った。トルコ系企業の運転手をしていたアハメドという中年男性で、片言の英語が話せる。彼をマイカーごと雇いあげ、その車でバグダッド市内を回った。
 市中心部に、タハリール・センターという20階建ての立派なビルがある。わが新聞社の支局があった建物だ。外国企業や政府系オフィスも入っていたのだが、何カ所かに爆弾が命中して壁に大穴が開き、真っ黒に焼け焦げ、ちろちろと火も見えた。
 そこから100メートルほどの「イラク・テレコム」ビルは、黒煙を上げて盛大に燃えている。イラクの電電公社にあたる組織のビルで、これは略奪に入った者が放火したらしい。
 パレスチナ・ホテルに並ぶ五つ星ホテル、「アルマンスール」は徹底的に略奪されていた。放火されて、窓のあちこちが黒く焦げている。
 入り口で門番をしていた男性、サイードさん(36)に話を聞いた。ホテルのウエイター頭だという。彼によると、略奪は米軍がチグリス川の対岸まで到達した4月5日夜から始まった。
「米軍の戦車が川の向こうに見えたとたん、市内から警官の姿が消えた。その直後、ホテルには男や女が押し寄せてきて略奪を始めた。何人? 見当もつかないよ。千人以上いたんじゃないか」
 彼らは無人のフロントデスクからマスターキーを奪い、略奪した。制止できるような雰囲気ではなかった。11階建てのホテルにはツインの部屋が全部で368室あったが、そのすべての部屋のベッドが持ち去られた。700台以上だ。もちろん、マットレスも。
「停電でエレベーターは動かなかった。あのでかくて重いベッドやマットレスを全部、連中は階段で運び降ろしたんだ」
 タオル、毛布、カーテン、ドアノブ、鏡、そして便器も。部屋には何も残らなかった。すべて盗んだ後で、放火された。
「後から来た連中が、何も盗むものがないのに腹を立てて火をつけた」

エレベーターの△▽ボタンも

 悪名高い秘密警察「ムハバラート」はどうなっているのか。
 事務所は、市中心部から離れた住宅街にある。門の前に米軍の装甲車がエンジンをかけたまま停まり、ヘルメットをかぶった米軍兵士が入り口を警戒していた。
 事務所の部屋はすべて、ドアが蝶つがいごと引きちぎられている。ドアまでが略奪の対象になったのだ。部屋の中はがらんどうで、書類が散乱していた。壁の一部が四角く白い。額が持ち去られた跡のようだ。
 どの部屋も、床一面に土が撒かれていた。この土はなんだろう。
 米兵は「ああ、植木鉢の土だ」といった。略奪者が植木と植木鉢を盗み、重い土だけ捨てて行ったのだ。
 トイレに入ってみた。何もなかった。洗面台がない。蛇口がない。鏡がない。個室のドアがない。便器がない。水洗用の水タンクもない。床に排水パイプの穴があいているだけだ。エレベーターの「△▽」のボタンは、電線ごと引き抜かれていた。
 午後2時、バグダッド最大のスラム街であるサダムシティーに回った。たまたま金曜日で、サダムシティー最大の「アルモスル・モスク」の前の広場は、礼拝の信徒でいっぱいだった。付近にいた宗教者は、10万人を超しているといった。
シーア派の宗教都市ナジャフからわざわざ出てきたという高僧が説教を始めた。
「略奪した車を返せ。とくに公用車は返さなければいけない。それはサダムのものではない。人々の物なのだ」
 モスクの裏路地には、略奪者がすでに返還した公用車が並んでいた。二階建ての赤い市バス、「貿易省」と書かれた黄色いトラック、パトカー、白バイ…。
 帰り道、下水があふれて悪臭がする道端で、子どもたちが便器に泥をつけて磨いているのを見かけた。ひょっとしてムハバラートのトイレではないか。一瞬、そう思った。
 市中心部、バスセンター脇の路上市場をのぞいた。以前は肉や野菜、穀物など食品や衣料が中心だったが、いまは並べられているものが異常だった。
 白紙の徴兵手帳、250ディナール(約8円)。これは国民皆兵のイラク人にとっては身分証明書に当たるもので、国防省が発行する。明らかな略奪品だ。
 黒焦げの水道蛇口、1250ディナール(約40円)。
 プラスチックケース入りの抗生物質、約1000円。どこかの病院から奪ったらしい。
 そしてカラシニコフ自動小銃。これはドル払いで、実弾30発付き100ドル。装弾されていないのを確認してからレバーを引き、引き金を引いてみた。ガチッとボルトが動く。ちゃんと動く代物だった。
 夕方、宿に戻る途中、アズミーヤ地区で火事に出会った。広場にあるサーカスのテントが炎を上げて燃えている。略奪者の仕業らしい。黒煙が天高く上っているが、だれも消火作業をしていない。消防車も来ないし、パトカーも来ない。サイレンの音がない。国家が壊れるということは、こういうことなのだ。

窓の下、弾丸飛び交う

 宿の食事は味気ないものだった。羊肉と野菜の薄いシチュー、キュウリのサラダ、エイシュと呼ばれる平パン。戦争中で、店が開いていないのだから仕方がない。
 夜、部屋で取材メモの整理をしていると、ふっと電気が消えた。午後8時、自家発電の停まる時間だ。真っ暗の中でろうそくをつけたが、この灯りではどうしようもない。水も出ないので、ペットボトルの水で歯をみがいてベッドに入った。
 うとうとしかけたとき、突然、激しい銃声が響いた。窓の下だ。ベッドから転がり落ち、そのまま床に伏せた。
 銃を撃っているのは1人や2人ではない。10人近くいるだろう。窓の下の路地の左側から、数丁の銃がダダッ、ダダダッと連射される。それに呼応するように、路地の右側からも数丁の銃声が響く。複数の人間が二手に分かれて撃ち合っている。
 窓の下の路地で撃ち合っているということは、窓と並行して弾丸が飛んでいるということだ。部屋に弾丸が飛びこんでくることはなさそうに思えた。そっと窓まで寄り、カーテンの陰から路地を見下ろした。自動小銃の弾丸には、10発に1発の割で曳光弾が入っている。その曳光弾が、目の下で左右に飛び交っていた。右側の銃が発射した曳光弾の1発が、窓のわきをヒュンと飛んでいき、暗闇のチグリス川に弧を描いて落ちて消えた。
 撃ち合いは5分ほど続いたろうか。ドッドッドッという重機関銃の音がした。米軍の装甲車が出てきたのだ。それで騒ぎは終わった。
 翌朝、宿の支配人が、昨夜の銃撃戦の経緯を教えてくれた。
「このホテルの2軒先に、高級輸入車のディーラーがあります。中庭の駐車場にキャデラックやベンツを保管しているのですが、戦争が始まって客に引き渡せなくなってしまった。その外車をねらって、武装した略奪者がやってくるのです」
 ディーラーの側も当然、武装ガードマンを雇っている。賊に気付いたガードマンが撃ち始める。それに対して賊の方も撃ちだす。それが昨夜の騒ぎなのだという。
 外に出てみると、路地は大量の空薬莢が散乱していた。気づかずに踏んだら滑って転びそうなほどたくさんある。7.62ミリの短い薬莢。カラシニコフ自動小銃のものだった。
 朝食を済ませて外に出ると、空薬莢はきれいに1個もなかった。支配人は「近所の子どもたちが拾っていくのです」といった。金属回収業者のところに持っていくと高く売れるのだという。
 高級輸入車をめぐる銃撃戦は、その晩も、その次の晩も起きた。一晩に3回あったこともある。そのうち、面白いことに気が付いた。略奪者とガードマンの撃ち合いが始まると、それに合わせるように近所のあちこちで銃声がしだすのである。あの人たちは何を撃っているのだろうか。支配人は苦笑した。
「彼らは地区の住民で、空に向けて撃っています。略奪者が目標を変更して自分の家に入ってこないよう、ここにも銃があるぞ、こっちに来るな、と警告しているのです」
 バグダッド市民はほとんどが銃を持っているのだ。5月1日に米軍が戦闘終結を宣言し、市内をパトロールするようになるまで、撃ち合いはほぼ毎日続いた。バグダッドの治安は完全に崩壊していた。

開いていた鯉屋

 戦闘終結宣言が出るまで、市内のレストランなどはほとんど開いていなかった。銃撃戦が毎晩あるような状況では無理もない。
 わが取材チームには気の利くメンバーがいて、隣国ヨルダンから炊飯器を持ち込んでいた。もちろん、コメもだ。炊いたご飯とサバ缶で、なんとか腹は落ち着く。連日、そんなメニューが続いた。
 パレスチナ・ホテルのプレスセンターで米軍の発表をチェックするのが、毎朝の日課だ。チグリス川の土手道を約1キロ、歩いて通う。きちんと舗装され、歩道もある気持ちのいい道路だ。ある日、その土手下の鯉料理屋が開いているのに気が付いた。しめた、これはいけるぞ。
 チグリス川の鯉料理「マスグーフ」は、アラブ世界では有名だ。投網で獲った鯉を生け簀に入れておき、客が来るとさばいて焼いて出す。
 親父さんが、客の注文の大きさの鯉を網ですくう。それを息子が受け、尻尾をつかみ、コンクリートの床に頭をたたきつけて気絶させる。続いてナタで後頭部を半分ほどたたき切り、血を抜く。
 私の郷里、長野県千曲川の鯉屋では、鯉を気絶させるときには出刃包丁の背で頭を殴る。血抜きをするときにも出刃包丁で後頭部と尾の付け根を切る。それに比べるとチグリス川の鯉屋はずいぶん荒っぽい。
 背開きにし、内臓を取り外す。中骨をぐりぐりとこじって身から外す。あまり切れそうにないステンレスの古い包丁だが、ここまで5分とかからない。見事な手際だ。
 塩をして背側から横に串を2本打つ。囲炉裏のようなコンロに火を起こし、それを立てて強火の遠火であぶる。脂肪分がポタポタと落ち始めるが、やがてアジの開きのように身に薄膜が張り、中はほっこりした蒸し焼き状態になる。
 その身をむしって食べるのだ。生け簀の水でしばらく飼っているためか、泥臭さはない。塩味が絶妙で、超特大の新鮮なアジの開きという味わいだ。

戦争中だというのに、鯉料理屋は営業していた=バグダッドのチグリス河畔で

 鯉屋のあたりの川幅は2キロぐらいあり、対岸は大統領宮殿だ。親父さんは、休んだのは宮殿が爆撃された日だけだといった。
「生き物が相手の商売だから。休むわけにはいかなかった」
 お持ち帰りOK。40センチ、1.5キロほどの鯉で1000円ほどだ。焼きあがるまで1時間ほどかかるので、夕方に予約して金を払っておく。すると午後7時ごろ、ホテルまで届けてくれる。
 私たちは、それに合わせて漬物をつくった。キュウリはさいわい、道端でいくらでも売っている。それを10本ほど買ってきてぶつ切りにする。包丁の腹でたたいて大きく砕き、プラスチックのボウルで塩もみする。30分ほどでキュウリの浅漬けができあがる。
 それからの私たちの夕飯は、チグリス川の鯉とキュウリの塩もみ、ビールと白いご飯が定番となった。レストランもスーパーも開いていない戦時下のバグダッドの町で、私たちは夕食の「鯉の開き定食」を楽しみに、かなり激しい現場でも取材を続けることができたのである。ホテル支配人はあきれ顔だった。

登校途中の女児が誘拐される

 フセイン政権を打倒した米国は、イラクに「米復興人道支援室」(ORHA)という組織を立ち上げた。イラクに新政権ができあがるまで行政の代行をするのが目的で、太平洋戦争後の日本のGHQのようなものだ。
 初代室長として米国から送りこまれたのは、ジェイ・ガーナー退役陸軍中将(65)だった。ラムズフェルド国防長官と親しく、そのコネで選ばれたという噂だった。しかし彼はイラクの現状をまったく理解していなかった。
 5月1日の戦闘終結宣言後、ガーナ―室長は「30日プラン」なるものを打ち上げ、暫定統治機構を30日以内に設立すると宣言した。その記者会見で、イラク人記者から出た質問は、治安に関するものばかりだった。
「犯罪の取り締まりの責任者はだれなのか」
「警察はいつ活動を開始するのか」
「略奪などの被害を、どこに届ければいいのか」
 1人の記者が次のような質問をしたとき、会見室は静まり返った。
「私の隣家に、9歳になるかわいい女児がいました。学校は近く、いつも歩いて通っていました。しかし2週間前、彼女は通学途中で誘拐されました。それきり連絡はありません。両親は気が狂いそうに嘆いています」
「米軍が来る前、イラクでこんなことはなかった。これは米軍の責任ではないですか。彼女をどうやって取り戻すのですか」
 治安が崩壊したバグダッドでは、略奪や武装強盗だけでなく、女児誘拐が頻発していた。さらわれた女児は、湾岸産油国の金持ちのハーレムに売り飛ばされているという噂だった。親たちは女児を学校に行かせなくなった。
 ガーナ―室長は着任1カ月足らずで更迭された。しかし責任は彼にあるのではない。イラクという国家の特質を知らずにフセイン体制を壊し、パンドラのふたを開けてしまった米政府そのものの責任なのだ。

独裁の方がまし、と国連事務総長

 フセイン政権は独裁恐怖政治だった。政府批判をすれば拷問・虐殺が待っている。だが反政府的な言動をしさえしなければ、日常生活の安全はあった。市場やレストランはにぎわい、子どもは笑い合いながら歩いて学校に行けた。
 それがすっかり変わってしまった。いつテロに巻き込まれるか分からない。シーア派だ、スンニ派だというだけで命をねらわれる。通学途中の子どもがさらわれ、外国に売り飛ばされる。アパートにロケット弾が飛びこんでくる。
 独裁ではないが、自分や家族がつねに命の危険にさらされている国があるとする。他方、独裁ではあるが、生活の安全は保たれている国があるとする。そのどちらかの国民にならざるを得ないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。
 フセイン政権が倒れて3年がたった2006年12月、英BBC放送のインタビューに、コフィ・アナン国連事務総長(当時)がイラクの現状についてこう答えた。
「残忍な独裁者がいても、今よりはましだったと国民が考えるのは理解できる」
 自由、平等、人権…。国家が目標とする理念はさまざまある。しかし国家の最低限の義務は、住民が安全に暮らせるようにすることだ。その「安全」の上に立って、人々は高度な理念を実現する努力をしていく。
 英国の作家フレデリック・フォーサイス氏と会ったことがある。彼はこういった。
「飛行機に乗るのにベルトを外し、靴を脱がなければならない。通りでは監視カメラに見張られている。そんな社会は誰だっていやだ。しかし、自分や家族の安全のためだとなれば我慢せざるをえない」
 つまり、自由や人権といった崇高な理念でも、生活の安全という問題の前には二義的でしかないということなのだ。米国はその認識を欠いたまま、イラクの独裁を取り除いてしまった。
 そして今。米国はシリアで、同じ泥沼にはまり込もうとしている。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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