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食べる葦

 1993年、中東和平を話し合いで達成しようという合意が米国の仲介で成立し、調印式が米ホワイトハウスで行われた。中庭に特設された壇上で、イスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長が合意書にサインした。サインが終わるとアラファト議長が手を差し出した。米クリントン大統領がラビン首相の手をそっと押す。宿敵だった2人が、おずおずと手を握り合う。「おおっ」というどよめきが上がり、一瞬おいて嵐のような拍手が巻き起こった。その歴史的な瞬間を、私は中庭のプレス席で見ていた。
 パレスチナ人の男性記者が椅子の上に立ち上がり、ピースサインをつくった両手を振り回していた。その後ろのイスラエル側記者席で、青のTシャツ姿のユダヤ人女性記者が通路にしゃがみこみ、背中を丸めて泣きじゃくっていた。


 その一か月後、ヨルダン川西岸のイスラエル占領地に入った。以前のピリピリした雰囲気がすっかり消えていたのに驚いた。
 検問のイスラエル兵士は、こちらの車を見ても座ったままでたばこを吸っている。
 私のレンタカーのナンバープレートは黄色だ。イスラエル籍であることを示す色で、パレスチナ側は緑色だ。黄色ナンバーの車で占領地に入ると、子どもたちから投石される危険がある。しかし子どもたちはにこにこと手を振ってきた。
 運転手のムーサ君(31)の家で彼の緑ナンバーの車に乗り換える。本業は大工なのだが、エルサレムに通じる道路が封鎖されて仕事がなくなり、私が西岸を取材するときに運転手を務めてくれていた。
 取材が終わった後、ムーサ君は夕食を食べて行けといった。「あんたが好きな羊料理だ」とにこにこしている。
 ムーサ君の家に行く途中で、民家風の家に立ち寄った。「羊料理屋だ」と彼はいう。料理屋といっても料理を食べさせる店ではなく、家庭でつくるには大がかりな料理を、代わりに料理してくれる店とのことだ。しばらく待つと、おかみさんが深鍋を抱えて出てきた。ご飯ならゆうに一升は炊けそうな大鍋だ。保温用のキルティングがかかっていて、おかみさんは「熱いから気を付けな!」といった。
 家につくと、子どもたちがワッと叫んで寄ってきた。この料理を待っていたらしい。居間の食卓に、奥さんが直径60センチはありそうなアルミの大盆を置いた。ムーサ君が深鍋のふたを取る。オリーブオイルと香辛料のいい匂いが広がった。アルミ盆をふたの代わりにかぶせ、ドンとひっくり返す。鍋を注意深く持ち上げると、アルミ盆いっぱいに炊き込みご飯の山が出てきた。
 ナツメグやらナスやらが載ったご飯を、ムーサ君が注意深くほぐす。中から羊の大きなあばら肉が出てきた。
 「マクルーバという料理だ。さあ、あんたから取ってくれ」
 マクルーバというのは、アラビア語で「ひっくり返す」という意味だ。羊肉、タマネギ、ナスなどを塩とオリーブオイルで炒め、トマトの輪切りやナツメグと一緒に鍋に敷き、クミンやシナモン、クローブなどの香料を入れてコメと炊く。炊きあがったらひっくり返し、取り皿に分けて食べる。パレスチナでは、お祭りやお祝いのときに食べる料理だという。
 ご飯には羊の味がじっくりしみ込み、おいしかった。ムーサ君に勧められるまま何杯もお代わりした。子どもたちも夢中で食べている。
 「和平になればエルサレム側の建設仕事が増える。そうすれば子どもを大学まで行かせることができる。これまでかみさんにもずいぶん苦労かけたからなあ」
ムーサ君はそういってウィンクした。
 「子どもの結婚式には呼ぶから、ぜひ来てほしい。そのときは、またマクルーバだ」


 しかし、その和平は長くは続かなかった。

 2年後の1995年11月、ラビン首相はユダヤ人右翼青年のテロで殺される。和平派のペレス氏が後を継いだ。このテロの後、イスラエルの世論調査では和平支持が54パーセント、和平反対23パーセントだった。イスラエル世論はまだ和平を支持していた。
 ところが、翌96年の2月から3月にかけ、エルサレムでイスラム過激派によるバス自爆テロが4件続いた。乗客ら約60人が死ぬ。これで世論はひっくり返ってしまった。
 96年6月の首相選挙。和平派のペレス氏は49.5パーセントしか取れず、強硬派のネタニヤフ氏が50.5パーセントで当選したのである。テロへの恐怖。パレスチナは信用できないという不信感。このままでは危ないという危機感…。
 イスラム過激派にとっては、和平が達成されたら自分たちの存在が危うくなるという危機感があった。パレスチナ人社会の中で大きな影響力を持ち続けなければならない。そのためには、この和平を何としても壊す必要がある。その方法がテロだった。テロを繰り返せば、相手の憎悪を引き出し、対立をあおることができる。4回のバス自爆テロで、そのねらいがずばり当たったのである。

ネタニヤフ政権になって急激に入植が進んだ。ユダヤ人入植者のアパートは建設ラッシュだ(西岸マーレ・アドミム)。

 3月3日の2度目のバス自爆テロでは、運転手のヨナ・ガブリエルさん(46)が、重傷を負いながら奇跡的に生き延びた。6月、そのヨナさんに自宅で会った。
 「その瞬間、自分の体が浮き上がったように感じた。周りは不思議なほど静かだった」とヨナさんは振り返る。爆風で鼓膜が破れ、何の音も聞こえなかったのだ。
 バスが路上を滑っていた。止めなければ、と思った。サイドブレーキを引こうとして、腕が血で真っ赤になっているのに気付いた。バスが止まり、彼はハンドルの下に崩れ落ちた。通行人が自分を引き出そうとしているのが見えた。それを感じながら気を失った。
 ヨナさんが運転したのは、その日午前6時4分、エルサレム郊外のバスターミナル、エリオットパットを出た18番線の始発バスだった。25年間もバスを運転してきた彼は、始発バスの乗客はみな顔見知りだった。バスは6時25分、エルサレム中心部の市役所前に停まる。すると、ジーンズ姿の若い男が駆け込んできた。初めて見る男だ。観光客だろうか。それにしてはこんなに朝早く、どこに行くのだろう。そんなことを考えて150メートルほど走り、郵便局の前に来たときに爆発が起きた。男を含む19人が死亡し、ヨナさんら7人が重傷を負う。事件後、イスラム過激派のハマスが犯行声明を出した。
 病院に運ばれたヨナさんは生死の境をさまよった。後頭部から腰にかけて爆弾の破片を浴び、小さい金属片がいくつも脊椎にめり込んでいた。耳は取れてぶら下がり、腎臓の片方はずたずたに破れていた。背中には、散弾を食らったように一面に穴が開いていた。8か所の大手術を受け、輸血は6リットルに及んだ。
 2か月近い入院のあと、4月末に退院した。医師からは「脊椎にめり込んだ小さい破片はそのままにしてある。下手にいじると障害が残る可能性があるからだ。一生かかえていく覚悟でいてほしい」といわれた。
 今も体がしびれ、手足が思うように動かない。週に3回、病院にリハビリに通う。発声練習、指の訓練、自転車こぎ…。

ヨナさんが運転していた18番のバス。事件後も混雑は変わらない(エルサレムの郵便局前バス停で)。

 ヨナさんは旧ソ連のアゼルバイジャンで生まれた。1歳のとき、両親とともにイスラエルに移住する。21歳で、イスラエルのバス会社大手のエゲット社に運転手として就職した。今では最ベテランの運転手だ。
 1973年の第4次中東戦争には、工兵として従軍している。スエズ渡河作戦に参加し、砲弾がひっきりなしに飛んでくる中で架橋した。多くの戦友が死んだが彼は傷一つ負わず、「ラッキー・ヨナ」というあだ名を付けられた。
 大学生の長男から8歳の3女まで5人の子持ちだ。1日16時間の超過勤務もぶっ続けでこなし、彼らを学校に上げてきた。エルサレム郊外に8年前、4LDKの家も買った。
 「事件の前まで、私はマッチョだった。家族を暴風から守る強い父親であろうとした。しかし事件後、すっかり自信をなくしてしまった」
 毎晩うなされて目が覚める。夢にあの瞬間が出てくるのだ。
 「死んだ乗客はみんな顔見知りだ。血だらけの彼らが何か呼びかけてくる。叫んで飛び起きると、枕が涙でぐしょぐしょになっている。恥ずかしいが、怖くてたまらないんだ」
 パレスチナ人の置かれた立場を理解しているつもりだった。テロはよくない。それをなくすには和平しかない。そう信じ、これまでの選挙ではずっと、ラビンやペレスの労働党に投票してきた。
 しかし今回の選挙で、ヨナさんは初めて、保守のネタニヤフに投票した。
 「和平は大切だ。しかし、こちらがそう思っても彼らはテロ攻撃をやめないということを、私は体で知った。断固とした姿勢を見せないと、テロはまた起きる。ぴしゃりと力を示す必要があると思ったんだ」
 保守派の勝利は、ヨナさんのような人々の票によるところが大きかった。

銃声がした。走り出すイスラエル兵士(ヨルダン川西岸のヘブロンで)。

 首相に選ばれたネタニヤフは99年、収賄事件で失脚した。しかし、イスラム過激派のテロのたびにパレスチナの恐怖を訴え、憎悪をあおる手法で復活する。イスラム過激派と同じ方法だった。2009年には再び首相に選出される。それからのイスラエルは、ことあるごとに和平と反対の方向に進んでいった。
 ヨルダン川西岸占領地を囲んで、イスラエルは450キロにわたる壁を建設した。パレスチナ人の勝手な出入りを防ぐためという理由だ。ガザ占領地とエジプトの国境にも、50キロに及ぶ壁をつくる。21世紀になってつくられた人種分断の壁だった。
 壁の建設と同時に、西岸占領地内へのユダヤ人入植地は増えた。怒ったパレスチナ人は激しい抵抗をする。テロが激化した。ネタニヤフ首相はそれを力で抑え込んだ。
 2017年、米国でトランプ大統領が誕生する。トランプ氏も壁をつくることが好きな大統領で、「憎悪と敵対心をあおる」という手法で支持を集める人だった。
 18年5月14日、トランプ大統領は、テルアビブの駐イスラエル米国大使館をエルサレムに移した。これまで米国は、エルサレムは将来の首都だという2国家共存の理念を考慮し、大使館を第二の都市テルアビブに置いていた。70年にわたる米国代々の大統領のおもんばかりを、トランプ大統領はいとも簡単に反故にしたのである。米国内のキリスト教右派におもねる決定だった。
 パレスチナ人は怒る。激しい反対デモが起き、ガザ占領地の検問所では衝突に発展した。イスラエル側はそれに実弾射撃で応じる。18年5月14、15日の2日間で、生後8か月の女児を含む62人が死亡した。93年にホワイトハウスで示された和平への期待は、仲介者であった米国の方針大転換で空中分解の寸前に立ち至っている。


 ヨルダン川西岸占領地のムーサ君は、いま西岸の自宅にはいない。和平をあきらめ、スイスに出稼ぎに行っているという。年に一回ぐらいしか帰らない、と奥さんは電話で嘆いた。上の子は30歳を超えているはずだが、結婚式の連絡はない。あのおいしいマクルーバを家族と一緒にごちそうになることは、もう多分ないだろう。

和平は遠のいた。巡回の軍に投石する子どもたち(ヨルダン川西岸のヘブロンで)。

 

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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