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食べる葦

 カラシニコフ自動小銃は世界中に2億丁あるといわれる。世界でもっとも大量に出回っている銃だ。その開発者、ミハイル・カラシニコフ氏は、ロシア・ウラル地方の都市イジェフスクの古びたアパートの3階に住んでいた。

カラシニコフ自動小銃を手に機構を説明するカラシニコフ氏(2002年、ロシア・イジェフスク市のカラシニコフ展示室で)

 2003年に会ったとき、彼はそのアパートに私を呼んでくれた。一緒に昼飯を食べよう、という。銃器会社の運転手がびっくりした顔をした。客と会う時は郊外のダーチャ(別荘)を応接室がわりに使い、自宅アパートに人を招くことはないのだという。
 1975年にできたという5階建てのアパートには、エレベーターがなかった。当時84歳のカラシニコフ氏は階段を、ゆっくりとだが手すりも使わず、3階まで上がった。ドアの前でジャンパーのポケットから鍵束を出し、ガチャガチャと鍵を探す。
 「最近目が悪くなってねえ。どれが自宅の鍵か分からないのだ」
 内部は3LDKだった。100平方メートルよりちょっと大きい感じだ。
 居間に通された。15畳ほどの広さだが、ロシアではそんなに大きな方ではない。そこに10人は座れるほどの大きなテーブルが置かれている。壁際にはテレビが置かれピアノが置かれ飾り棚が置かれ、そこに大テーブルでぎちぎちだ。テーブルの上には、プーチン大統領から贈られた大きな置時計があった。
 カラシニコフ氏はジャンパーを脱いで椅子にかけ、私にも座るよう言った。8月だが、そんなに暑くはない。氏は白のスポーツシャツに赤いサスペンダーという格好だ。よく見ると、スポーツシャツの胸にはカラシニコフ自動小銃のロゴマークがある。設計責任者として勤務している武器会社「イジマシュ」の社員用シャツらしい。
 「お招きいただいて恐縮しています」とあいさつすると、カラシニコフ氏はにこにこ顔で「君ならいつでも歓迎だ」といった。          
 氏から歓迎されたのには理由がある。実はその前の年にも会っているのだ。


 新聞社の特派員としてアフリカや中東に駐在し、各地の紛争地を取材した。すると必ずカラシニコフ自動小銃、AK47に出会った。それ以来、この銃に関心を持つようになった。紛争地にはびこっているのは、ドイツ製やアメリカ製の銃ではなく、必ずAK47なのだ。それはなぜなのか。
 アフリカや中東で紛争が収まらない最大の原因は、国家が未熟で、武力をコントロールできないところにある。武力をコントロールできていない国は例外なく「AK系」の国、つまり親ソ連系の国なのだ。カラシニコフ氏に会いたいと思った最大の理由はそれだった。本人に会えたら、AK47を切り口にして国家と武力の問題が描けるかもしれないと思ったのである。
 2002年9月、新聞社のモスクワ支局を通じて、やっと会見のアポが取れた。
 11月26日に、ロシア・ウラル地方の武器工業地帯イジェフスクで。
 しかし私は武器の専門記者ではない。自動小銃がなぜ自動なのか、カラシニコフ銃はほかの自動小銃とどこが違うのかなど、まったく知識がない。さて、銃のことを勉強しなければいけないぞ。
 しかしその時間が取れなかった。
 2002年は、米軍がタリバン政権を打倒したアフガニスタンでは、爆弾テロや部族対立のごたごたがいつまでも続いていた。その上、米ブッシュ大統領は今度はイラクのフセイン政権にねらいをつけて兵力を増強しており、いつ戦争が始まるか分からない緊迫した状況だ。中東を担当する記者としては、とてものんびり鉄砲の勉強などしていられない。ばたばたしているうち11月になってしまった。
 せっかく取れたアポをキャンセルなんかしたら、次がいつになるか分からない。それにカラシニコフ氏はその時点で83歳になっていた。早く会っておかないと間に合わなくなるかもしれない。会うだけでいい、とにかく行こう。不勉強のままロシアに飛んだ。
 イジェフスクはモスクワから国内便に乗り換えて東に1000キロ、ウラル山地の山裾にある。モスクワとは1時間の時差がある遠隔地だ。ソ連時代、極秘の兵器工廠があった。それが民営化され、「イジマシュ」という武器会社になっている。カラシニコフ氏はその技術顧問だ。インタビューはイジマシュ社の広報センターで始まった。
 AK47の開発でもっとも苦労した点は何ですか。カラシニコフ氏は「一つはチェンバーを短くしたことだ」と答えた。ところが、私にはチェンバーの意味が分からない。
 「チェンバーって何ですか?」
 あとはすべてその調子だった。
 「ボルトって何ですか?」
 「スライドって何ですか?」
 彼はあきれ返った顔で、私をまじまじと見つめた。
 銃のことを聞きたくてわざわざ日本からインタビューに来た新聞記者が、銃の基本的なパーツの名前も知らないのだから無理もない。白状せざるを得なかった。
 「実はアフガニスタンとイラクの情勢で忙しく、銃の勉強をしている時間がなかったのです。もう一回、会ってください。それまでには十分に勉強しておきます。今日のところは、あなたの生い立ちと経歴をうかがわせてください」
 彼は不機嫌な様子を見せたが、質問に答え始めた。そのとき、彼の左手の人差し指の腹に、小さい古傷があるのを見つけた。
 「それ、麦刈りで付けた傷ですか?」
 実は私も子どものころ、近所の農家の稲刈りを手伝って同じところに傷跡がある。左の逆手で稲をつかみ、右手で鎌を使う。鎌が滑って左手の人差し指の付け根を切った。
 「子どものときに麦刈りでやったんだ。何だ、君も麦刈りをしたのか?」
 「いや、私は稲刈りです」
 それで彼はすっかり打ち解けた。子どものころ川でおぼれそうになったこと、錆びた古いピストルを修理して使えるようにしてしまったこと、物置で試射して母の服に大穴を開けてしまったことなどを楽しそうに話し、「来年ぜひまた来なさい」と、翌年の日時まで約束してくれたのだ。

インタビューの後、筆者(右)と写真に収まるカラシニコフ氏(中央)。左は秘書のニコライさん、後ろは孫のイーゴリさん(2003年、ロシア・イジェフスク市の自宅リビングで)

 再訪した2003年、彼のアパートでのインタビューは大成功だった。
 自動小銃の設計で、トカレフとかスダレフらの大先輩が「蚊のくちばしも入らないくらいぴっちりに設計しろ」というのを無視し、スカスカに設計した。そのため、多少のゴミや湿気が入っても平気で作動する銃がつくれた。
 自動小銃の最大の問題は、薬莢がちぎれて薬室の壁に張りつき、次の弾がつかえてしまうジャミングだ。そうなると銃は使えなくなる。彼はそれをユニークな方法で解決した。
 空薬莢をつかんで引き出し、次弾をつかんで薬室に押し込むスライド。それを鉄にし、500グラムという常識外れの重さにしたのだ。火薬の爆発力を重いスライドが一瞬吸収して作動を遅らせる。そのために熱く膨張して薬室壁に張りついた薬莢が冷えて収縮し、破れることなく引き出せる。そのためAK47ではジャミングが起きにくくなった。
 細かい部品を8つのブロックにまとめてしまった。ネジを使わず、分解掃除がかんたんにできるようにする。
 その結果、マニュアルが読めないような無学な兵士にもかんたんに使えるような銃ができた。
 完成したのは1947年で、それでAK47という名がつく。Aはオートマチック、Kはカラシニコフの頭文字だ。その後、小さな改良はあったが、原理は開発時のままである。カラシニコフ氏は、新しい機械をつくった最初に完全品をつくってしまったのだ。

 イジェフスクの兵器工場には、1日1万4000丁が生産できる製造ラインがつくられた。毎日3000人の労働者が働く。ソ連政府は需給に関係なく、次から次へとカラシニコフ銃を生産していった。
 銃は、1950年代から60年代にかけ、アフリカや中東の独立戦争を支援するために送られた。各地に社会主義政権ができると、こんどは東側グループの政府間援助として送られた。さらに、ソ連共産党の幹部がモザンビークのエビを食べたくなると、その代金代わりにモザンビークに送られた。アンゴラの石油の代金にも送られた。
 大量のカラシニコフ銃が、アフリカや中東の途上国にとめどなく流れて行った。しかしそうした国の政府に、銃を管理するノウハウも、意欲もなかった。倉庫に積まれたAK47は横流しされ、やがて子ども兵の手に渡った。


 インタビューが終わると、キッチンに移って昼飯になった。8畳ぐらいあって広く、4人掛けのテーブルと椅子がある。ふだんはこのキッチンだけで生活しているといった。
 食事には孫のイーゴリさん(31)も加わった。彼はカラシニコフ・ブランドを管理する「カラシニコフ基金」の副代表を務める。一昨年離婚し、いまはカラシニコフ氏と2人で暮らしている。
 昼飯はピロシキだった。ロシア風肉揚げパンだ。アパート住人の奥さんが、男2人暮らしを心配してときどき料理を届けてくれるのだという。カラシニコフ氏はそれを自分で電子レンジに入れ、慣れた手つきでチンした。
 それとシカ肉のスープ。カラシニコフ氏が狩りで仕留めたシカをイーゴリさんがさばき、調理して冷凍してあるのだという。ピロシキのあとで電子レンジに入れる。
 スープは薄味だったが、よくダシが出ていた。「骨を使ったんだ。シカの骨はとてもいいダシが取れる」。
 ピロシキには焼きリンゴが入っていた。「年寄りなんで甘くしてくれたんだろう」。初めて食べる味だったが、シナモンの風味が効いていて、これもうまかった。
 食後は紅茶とイチゴジャム。お茶とジャムを交互に楽しむロシア式の紅茶だ。ジャムはイーゴリさんの手製だといった。
 お茶を飲みながら、収入がどのくらいあるのかおそるおそる聞いてみた。彼はあっさり答えた。
 「そう、イジマシュの給料が12000ルーブル(約400ドル)。後は年金とか共和国功労報償とかで14000ルーブル(約470ドル)ぐらいあるかな」
 それだけあれば、年寄りが暮らしていくには十分だ、といった。
 米軍の自動小銃M16を開発したユージン・ストーナー氏は、フロリダに大邸宅を建て、外洋航海ができる大型クルーザーを持っていた。あなたも、メイドさんがいるような生活をしているのかと思っていました―。そういうと「私はニューリッチじゃないからね」と笑った。
 カラシニコフ銃を開発した功績に対し、ソ連最高の勲章である「労働英雄」を2度もらっている。日本の文化勲章を超える賞だ。自分の技術を高く評価してくれたソ連に、彼は愛着を持っていた。
 「ゴルバチョフは好きになれない。ソ連を崩壊させてしまった責任は大きい」
 もし銃をつくっていなかったら、あなたは何をつくっていましたか。そう尋ねると、しばらく考えた。
 「…そうだな、農業用トラクターでもつくっていたかな」


 氏とは翌年、もう一回会っている。2004年11月10日、氏の85歳の誕生日パーティーに招かれた。イジェフスクについた私は、誕生日の前日、今度は氏をホテルのレストランの昼食に招待した。
 ホテルの前で車を降りた彼は、玄関の階段をトントンと早足で上がってきた。
 「若いですね。100歳は大丈夫ですよ」というと、「そうなんだ」と笑った。
 「ロシアでは、人間は年を取れば取るほど知恵がつくということわざがある。100歳になればどのくらい知恵がつくか、試してみようと思ってね」


 2011年、ロシア国防省はイジマシュ社に対し、カラシニコフ自動小銃の新規発注を取りやめると通告した。倉庫に収まりきれないほど在庫があるから、というのが理由だったようだ。92歳のカラシニコフ氏に、それは内緒にされた。
 世界で最も優れた自動小銃は、国の都合で大量に生産され、世界中にばらまかれ、多くの人の命を奪い、そのあげく国の都合で生産をストップされた。
 完璧な性能を持つその銃を開発したのは、機械いじりの好きな人間だった。彼はエレベーターのないアパートに住み、月給400ドルで暮らし、自分で料理をつくっていた。2個の勲章に満足して。
 銃の生産が停止されて2年後の2013年12月23日、彼は死去した。94歳だった。

カラシニコフ氏は人気者だ。町を歩くとたちまち取り囲まれ、記念写真をせがまれた(2003年、ロシア・イジェフスクで)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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