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村井さんちの生活

2026年2月18日 村井さんちの生活

末期がんの実母に、私は何ができたのか?

著者: 村井理子

 義父母の介護を経験してからというもの(一応継続中)、認知症関連のご質問を頂く機会が増えた。それも最近は認知症のスタート、つまり初期の症状がどんなものであったか、何がきっかけとなり「やばい、始まっちまった!」と思ったのか、そんなことを詳しくお話する機会が増えている。

 いままで、義母のケースについてばかり説明をしてきた。義母のケースでは、瓶ビールに「不良」と書かれた紙がつけられ、それを笑顔でお土産として私まで持って来てくれた義母の奇行に疑問を抱いたのがきっかけだった。これについては『義父母の介護』(新潮新書)に詳しく書いた(試し読みはこちら)。

 不良瓶ビールの他にも、ぶっ潰れたコロッケを大量に持って来たり、食べかけの食パンをそっと手渡されたり、子どもが生まれるというお札を部屋に貼られたり、いろいろとあった。正月に軽く暴れたこともあった。多分あの頃すでに発症していたなと思われる症状は、今にしてみれば実に多かった。あの時、認知症に関して知識が少しでもあったら、治療の開始を早められたかもしれない、そんな反省もある。

 今回は、もしかしたら何かの参考になるかもと思い、実母のケースを書きたいと思う。


 始まり、というか、私が母の変化に気づいたのは、実は一本の電話がきっかけだった。母が長年通っているという駅前の内科医院で働く看護師と名乗る年配の女性が、私のケータイまで連絡してきたのだ。

 そもそも、その内科医院の存在すら知らず、母が通っていたことも知らなかったのだが、「お母様とは、何年ぐらいお会いになっていらっしゃらないんですか?」と、多少だが責めるような口調で聞かれ、ドキッとした。

 その時点で、少なくとも数年(3年ぐらい?)は会っていなかった。それには理由があった。まず一つは、子どもがまだ小学生だったこと。双子男児ということで、帰省するにはあまりにも大変だった。そして二つ目の理由は、それなら母に来てもらおうと何度も誘うのだが、予定当日になると理由も言わずに母はドタキャンを繰り返した。それで、私は怒り心頭だった。怒り心頭のあまり、一切、母には会っていなかった。

 時折、暇なのか電話してくる兄が「かあちゃんが言ってたぞ! お前は口が悪すぎるってさ、ギャハハ! いつまでもかわいくない娘だってさ、ギャハハハ!」とか言うものだから、余計に腹を立てていた。月に一度程度の電話での会話で、同じ話の繰り返しがあるなと気づいたこともあったが、深刻には考えなかった。

「末期がんで、ずいぶん痩せられましたよ…それから、お母さん、進行した認知症ですよ」と看護師は遠慮がちに言った。私は絶句してしまった。体調が悪い日があるから、兄と一緒に病院に通っていることは電話での会話でなんとなくは知っていた。でも、あくまでも、なんとなくの話だ。母のことは同居している兄に任せていいと思っていた。だってうちの子たち、双子男児ですもの。育児だけで、軽く死にそうなんですもの。そんな日々だったから、母の変化、ましてや、認知症には全く気づかなかった。そのうえ、末期がんだなんて。

 いつの間にか電話は看護師から医師に代わっていて、医師は落ち着いた声で「申し訳ないんだけど、あなたのお兄さんでは話にならないんだ。彼は僕の診断を疑っているようでね。できればあなたと話をしたい。一度戻ってくれませんか」…兄では話にならない? なんとなく理由はわかるような気はするが、これはかなり深刻だぞと理解した。

 このような経緯で急いで帰省したわけだが、久々に会った母は、すでに別人になっていた。別人というか、存在自体がもう、幽霊のようだった。昔の母はいつの間にかいなくなっていたのだ。

 30キロ台まで落ちた体重、虚ろな眼差し。痩せ細った足の動きはおぼつかなく、話をしてもこちらの言うことを理解しない。面談した医師は、母は数年前から膵臓がんの治療をしており、ある程度、症状を抑えられていたものの、急激に悪化、それがきっかけとなって認知症を発症、特に膵臓がんは末期に近く、これからは緩和ケアのタイミングだということだった。

 呆然と話を聞く私に医師は、「知らなかったよね。だって僕が、一刻も早く娘さんに言いなさいってどれだけ頼んでも、お母さんは、娘にだけは迷惑をかけられないって言ってたもの。それからあなた、制服姿でお母さんのお店で雑誌を読んでいた、あの娘さんだよね? 僕、お母さんの店の30年来の常連だから、君のこともよく見ていたんだよ」

「さて、どうする?」と医師に再び尋ねられ、返答に困った私は、「滋賀に引っ越してもらうしかないと思います。滋賀の病院に転院とかできませんか?」と、慌てて答えた。それしか思い浮かばなかったのだ。子どもが小学生の私が、どうやって実家まで通うというのか。すると医師は「君は、お母さんが今まで一生懸命ここで築きあげてきた人間関係を、人生の最期の最期で、すべて奪ってしまうつもり? それはあまりにも気の毒だ。ここで、このまま治療させてあげなさい」と言った。医師の横で立っていた、母をよく知るという看護師もウンウンと頷いていた。

 そこから、故郷に残っている親戚の助けを借りて、母の緩和ケアとデイサービスの利用が始まったというわけだが、今にして思えば、デイサービスを利用できた期間は数か月に満たず、あっという間に腹水が溜まり始め、母は入院した。母と一緒にいると思い込んでいた兄はすでに東北に引っ越していた。

 母が亡くなったのは2014年2月。病床の母と会話が成立することはなく、大事な話なんてひとつもできないままの別れとなった。いろいろな人に助けてもらった。感謝してもしきれない。

 今にして考えてみると、亡くなる数年前から母はおかしかった。いつも通り明るい口調だったが、妙にお金の話ばかりするようになっていた。滋賀まで遊びに来ると約束した当日、やっぱり行かないわと連絡をしてくることも多発した。私はその都度激怒したのだが、後から母の友人に聞いたところによると、JRの切符の購入の仕方がわからなくなっていたようだ。

 義母のパターンでも、そして実母のパターンでも悩ましいのは、周囲には当人の変化がわかりにくいという点だ。まったく普通の様子のまま認知症はじわじわとスタートして、気づいたときにはもうすでに進行している。

 妙に電話連絡が増えたとき、その内容がおかしいとき(保険証書がない、預金通帳がないなどの訴え)、そして妙にイライラとしている時間が増えたときは、子世代がしっかりと様子を見守る時期かもしれない。私は最近、これを自分自身にも当てはめ、時々、私自身がすでに危ない! などと考えている。

義父母の介護

2024/07/18発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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