二十三、戦後への痛憤――W先生の遺言
著者: 南直哉
なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。
W先生は、高名な国際政治学者で、今年は没後30年に当たる。先生は、学問的業績もさることながら、1970年代の初め、戦後一貫して外国が施政権を持っていた地域の、その施政権の返還交渉を裏から支えた重要人物だった。
私が先生の知遇を得たのは、修行道場で10年を過ぎた1990年代の半ばで、ある国の駐日大使が道場を訪問した際の案内役をしたら、先生が大使に同行していたのである。
先生は、施政権返還の交渉を通じ、時の首相の内意を得て、相手国や関係各国の政府高官や政治家と、何度も会談を重ねて縁を深めており、そのこともあって、当時特に欧米の大使が先生に面会を求めることが多かった。
その頃、先生はすでに公職をすべて退き、自身の故郷であり、私が修行していた道場のある県に、自宅を構えて隠棲していた。それで、先生は時々、訪れてきた内外の政府高官の接待として、彼らを道場にエスコートしてきたのである。
最初はそんな事情は全く知らなかった。大使を案内した時にも、先生に気が付かなかったくらいである。ところが、後日、先生の「地元秘書役」のような立場の人物が、突然私のところにやってきた。
「先日は誠にありがとうございました。大使も大変感動して、喜んでいらっしゃいました」
「それはよかったです。わざわざ御礼いただいて恐縮です」
「ところで、実は、今日は南さんにお願いがあって参ったのです」
「僕にですか?」
「そうです。南さんにです」
「何でしょう?」
「先日大使と伺った時に同行していた人がいたでしょう」
「ええ、でも何人かいましたね」
「あのなかの一人がW先生と仰って、実は大使は先生との面会のために、この県を訪問したのです」
ここで初めて、私は先生の人物と経歴を聞いた。「県警トップが交代する時、この県で唯一、引継ぎがある人物です」と彼は言った。
「それで、私にお願いと言うのは?」
「はい、端的に言うと、南さんに先生の話し相手になっていただけないか、というお願いなのです」
「はあ?」
およそ想定外のことを言われて驚いていると、彼は続けて、
「実は、先生は今、この国と社会の在り様を深く憂えているのです。それを周囲にも時折お話し下さるのですが、これを受け止めて、先生と十分な対話ができる人が近くにいないのです」
「だからと言って、僕なんかが……」
「いや、私にはわかります。先生は、案内してくださった南さんに、非常に感銘を受けていらっしゃいました」
いや案内しただけですよ、と言って、振りかかる火の粉を避けようとしたのだが、彼は引かなかった。
「お願いします! 先生は間違いなく、あなたと話をしたいはずです。どうか、一度、お会いいただけないでしょうか?」
彼はこの県の経済界に影響のある人物で、だからと言うわけではないが、私もこの地で修行のみならず住職もしている手前、あまり無下なことも言えない。
「わかりました。お役に立つかわかりませんが、お目にかかります」
「そうですか! ありがとうございます!!
本当に心から感謝致します!!!」
彼は尋常ならざる喜びようで帰っていった。
私が先生と最初に面談したのは、この数か月後、例のオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後である。先生は例の秘書役と共に、当時道場が管理していて、私が責任者を務めていた山寺に、昼前にやってきた。
会った途端、挨拶もそこそこに、先生は境内をゆっくり見回して言った、
「ああ、本当に禅寺らしい禅寺だ。あなたによくお似合いだ。いや、失礼、私は……」
そう名を名乗ると、先生は直立不動の姿勢から90度に体を曲げて数秒、頭を上げなかった。私は当時30代の若輩である。
「先生、そんな、ご丁寧に……」
「いや、今日は貴重な時間をいただいて……」
2人を書院に通し、そこで3人で蕎麦と精進揚げの天麩羅の昼食をとった。ここまでは、和やかだったが、この後、食事を終えると、先生は秘書役を下がらせ、私と2人になった。
「ところで、私はあなた様をどうお呼びすれば?」
「南さんで結構ですよ」
「いやいや、修行をしている方に、そんな……」
「じゃ、方丈さん、がいいです」
「そうですか。では、そう呼ばせていただきます。方丈さん、私は今ですね……」
これが5時間を超える対話の始まりだった。
先生は出だしでまず、オウム真理教について切り出してきた。
「方丈さんは、今回の事件をどう思われます? 私には、今の日本社会が抱えている根源的な問題の露出に思えるのです」
先生はほとんど悲憤慷慨と言うべき、切迫した口調で、
「私は、戦後、国家が理念を失い、社会から道義が失われた、その結果に思えてなりません」
このような、オウム問題を日本人の精神的状況に還元する意見は、事件直後から非常に多かった。私はむしろ、この問題を社会構造の変化から考えていたので、先生の話にそのまま同意することはできなかったが、私には先生の鬼気迫るとも言うべき、静かながら強烈な口調が、とても気になった。
その先生の見立てはこうだった。つまり、戦後一夜にして、「帝国日本」から「民主日本」に転向した社会は、その後ひたすらアメリカ的な経済万能・物質優先の、拝金的な欲望の追求に雪崩を打つように邁進して、国家と社会、民衆を律する精神性を見失ってしまった。それが招いた結果が、あの事件だ。
「私は終戦当時15歳でした。そうしたら、一夜にして、学校の教師の言うことが変わったのです。皇国日本のために米英を撃滅するのだと私たちを叱咤していたのに、日本は愚かにも道を間違えて戦いに負け、今度はアメリカのような国を作るのだ、と」
教科書に墨を塗ったこの世代に共通のトラウマだった。しかし、ここからが先生は並みの少年とは違った。
「私は納得できませんでした。あの後、私は天皇陛下のために死ぬのだと言っていた教師を一人ずつ尋ねて、あなたが我々に教えていたことは嘘だったのかと、訊いて回りました。彼らは誰もまともに答えられませんでした」
「八紘一宇」の理想と、「大東亜共栄圏」の大義を心から信じた、純情誠実な少年は、自分の精神的背骨を叩き折られるような思いだったろう。このトラウマが、戦後の日本人に対する痛憤ともいうべき嘆きになっていたのだ。
戦前の国民を律した理想と道義を、何の反省もなく一切放擲して、物質的欲望のみを追求した、戦後の精神的な荒廃の果てに、オウム事件が起こったというわけである。
しかし、先生の嘆きと怒りは、それだけではなかった。後のキャリアに、このことは大きな影響を与えていた。
「戦後、私は政治学者になり、さらに政府にかかわり、あの施政権返還交渉にも参加しました」
先生は深い後悔をにじませる口調で言った。
「私は、あの交渉に重大な問題が残ることはわかっていました。しかし、あの時は、今を逃すと、あの地域は日本に還ってこないかもしれない。問題が残ろうと、まずは返還を実現し、残る問題の解決は今後に託そうと、忸怩たる思いで決心したのです」
戦争で激烈甚大な損害を被り、施政権を奪われて、今も「本土」とは差別的と言えるほどの格差が存在するこの地域の問題を、必ずや近い将来、日本の政府・社会・国民が引き受け、その解決に向かうはずだと、先生は、期待と言うより、それに賭けていたのだ。
ところが、返還後、経済成長第一の、拝金主義的風潮が蔓延する社会の中で、この問題はまるで無いかのように、放置されてしまった。あの大きな犠牲を払った地域への政治的・道義的責任は、誰も負わないのか、先生の痛切な思いはそこにあったのだ。自分のしたことは、あの地域のために、本当に正しいことだったのか。
時に意気投合し、時に見解が相違した先生との対話は、ついに5時間を超えて、夕闇が迫った。頃合いを見計らって、秘書役が入ってきた。
「先生、そろそろ……」
「ああ、方丈さん、長居をしました。ご修行を妨げて、すみませんでした」
寺の階段を闇の中に下りていく先生の痩躯は、すでに癌に侵されていて、余命いくばくもなかった。その時は知る由もなかったが。
二回目の対話は、先生が亡くなる直前で、私は先生の自宅に昼過ぎに招かれた。
応接室のテーブル前に、ネクタイと背広姿の先生が、立っているときと些かも変わらぬ不動の姿勢で坐っていた。先生と私の前には、コップが置かれていた。
「ここでお出しできるものは、この水一杯だけです」
本当にそのコップの水一杯で、対話は再び5時間を超えたのである。
この時の話題は、もはや一つに集中していた。日本人の「精神の復興」である。先生は、この先世界規模の大転換期が来ると考えていた。
「これは、ベルリンの壁の欠片です」
先生は、東西冷戦の終わりを象徴する、破壊されたベルリンの壁の一部を私に見せながら、
「人々の中には、これで冷戦が終わり、より平和な世界が来ると言う者もいますが、たとえ平和が来るにしても、それまでに大変な困難が世界を襲うでしょう」
今の世界状況を予言するような一言だった。
「だから、先生は日本が向かうべき道を示す理念や道義が必要だ、と」
「方丈さん」
先生は苦しそうな表情で言った。深刻さを増した病状だけが理由ではなかった。
「私は、学者として、一番勉強すべき時を、外交交渉の現場で費やしてしまいました。私は政治学者ですが、政治だけ勉強してもダメなのです。政治を俯瞰する歴史的、社会的、文化的視点と教養が必要です。それが私には欠けている」
「そんなこと……」
「いや、そうなのです。今後の時代を導くものを、今の私では考えることはできない」
先生は初めて一口、水を啜った。
「だが、方丈さんは違う。仏教を深く学び、広い知見をお持ちなことは、もうよくわかっています。これからの時代を作るのは方丈さんの世代だ」
私は遺言を聞く気分だった。
それから先生は、一転、断崖絶壁を背にして切り込んでくるような気合で、私に問い続けた。仏教の根本とは何か、その思想の核心は何か、それを現代に生かす方法があるのか、方丈さんは未来の仏教の価値を信じているのか。私も必死で、力の限り答え続けた。
何時間かが過ぎ、窓の外は夜だった。そして、先生のスタミナは限界に近づいていた。最後に先生は、何かを振り切るような声で言った、
「方丈さんに、今日、私はどうしてもお聞きしたいことがあるのですが」
「なんでしょうか」
私は、疲労困憊の眼が発する閃光を目の当たりに、次の言葉に身構えた。
「天皇陛下を中心とした国を再び作ることは、もう無理なのでしょうか」
その瞬間、私は15歳のW少年がいきなり現れるのを見た。そして、あまりに純粋で誠実であるがゆえに、多くを失った人間の悲しみを。
「極めて難しいでしょう。たとえそれができたとしても、その時の天皇陛下は、先生が思っておられる天皇陛下とは、まったく違う在り方をしているでしょう」
先生の頭が少し傾いた。そして小さく息を吐いた。しばしの沈黙がやって来た。
「方丈さん、本当にありがとうございました。今日のご恩は決して忘れません」
あの時先生は、この若僧に「ご恩」と言った。それから間もなく、先生は亡くなった。当時公表はされなかったが、今では、先生の死は自裁だったとされている。
*次回は、9月7日月曜日更新の予定です。
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南直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- 南直哉
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禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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