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おかぽん先生青春記

 僕が浪人中に祖母が死んだ。心筋梗塞であった。すると父は、「人間いつ死ぬかわからない。好きなことやれ」と言ってくれた。これにより僕は祖母を亡くしたが未来を得た。

 説明が必要であろう。僕の一家は、水道工事業を営んでおり、「おかぽん」というあだ名もそれに由来する(連載第2回参照)。物心ついた頃から、父母からは「おまえは水道屋を継ぐんだ」と言われてきた。水道屋を継ぐのだから本を読むより体を鍛えろ、父は言った。父は寡黙な男であった。寡黙な男の言葉は、他の選択肢がないことを思わせた。

 だから僕は、これまで語ってきたように、スポーツは嫌いで体はひ弱で、読書が大好きであったのだが、いずれ水道屋になるのだと諦めていた。水道屋になるために大学は工学部に進め、というのが父の命令であった。その命令は僕の無言の反抗を生み、中学に進むと数学で落ちこぼれてしまった。さらに高校に進んで文系か理系かを決める段になると、文系に進まざるを得ないほど数学・化学・物理ができなくなっていた。生物だけはできたのだが。文系に進んでしまえば、文学部で好きなことをできるだろう。このように企んだ上「文系だから、水道屋は継げない」と言う僕に、しかし父は「文系でも経営や経済だったら水道屋を動かせるだろう。現場は若い衆に任せて、水道屋の経営をやれ」と命じるのであった。

 そういうわけで高校2年では文系に進んだものの、やはり勉強の動機づけは高まらなかった。浪人という青春(連載第7回参照)へのあこがれもあり、僕はすんなり浪人して代々木ゼミナール生となった。その夏、祖母は死んだ。祖母は初孫である僕をたいへんにかわいがってくれて、もしかたら僕の本当のお母さんはおばあちゃんなんじゃないかと疑わせるほどだった。だから、代田橋の下宿の共用電話にかかってきた母からの電話で「おまえのことかわいがってたんだからさ、帰ってこいよ」と聞き、僕はすぐ足利に向かった。

 祖母が死に、気弱になった父から、僕は自由の宣告を聞いたのであった。祖母が死んでしまったことはとても悲しかったが、僕の心の中では「水道屋を継がないとすると、何をしよう?」という疑問がわいてきた。水道屋にはなりたくなかったが、今更獣医にもなれない。あたり前だが、獣医は理系だ。

 祖母の葬儀が終わり、東京に戻った僕は、代々木ゼミナールの資料室で、文系でいながら動物の勉強ができるところがないだろうか、と探し回った。その結果候補に挙がったのが、東大と慶應大であった。

 東大では科学史・科学哲学の勉強ができて、それは文系から進学できるのであった。また、東大では副専攻制度があり、副専攻として生物学を学ぶこともできそうであった。さらに、文系で入っても「理転」して、動物学専攻に進むことも不可能ではなさそうだった。前回書いたように、ムツゴロウさんが指導原理であった僕にとって、これはとても魅力的だった。

 一方、慶應大では文学部の心理学教室で動物行動に関わる実験をしているそうであった。その頃読み始めた日高敏隆さんの本、コンラッド・ローレンツの本で動物行動学に興味を持っていた僕は、慶應大も悪くないなと思った。東大のように、入学してからいろいろ画策しなくても動物心理学が勉強できそうだ。

 僕はこれらを新たな志望校と決めて、ものすごく勉強するようになった。ものすごく勉強してみると、勉強というのはとても面白くて、人類が蓄積した知識を学び、その上に何らかの知識を積み重ねることに、強い意義を感じることができるようになった。

 その結果、僕は慶應義塾大学文学部に入学した。東大は落ちたが。どちらかというと、安心もした。東大に入って「理転」するための勉強をするより、慶應に入って動物心理学を最初から勉強しよう。父母は私が慶應大に進学することを認めてくれた。父母はそのころには、大学を出たら家を継ぐだろうと考えていたそうである。僕自身も、四年間思い切り好きな勉強をしたら、恩返しに家を継ぐことも考えていた。

 かくのごとく非常に殊勝な気持ちで大学に進学したわけであるが、最初に目についたのは女子学生たちである。浪人としてほぼ封印していた性欲が、一気にはじける。どこを見ても女子学生ばかりで、男子校出身の僕には、日吉の銀杏並木道を歩きながら大学に向かう時点で、ほぼ発情しているのであった。

 慶應大の教養課程は、東横線の日吉にある。他の学部が日吉で2年過ごすのに対し、文学部は日吉で1年のみ過ごし、その後、三田(田町)にある専門課程に進む。私立大学に、しかも文学部に進学した僕は両親に対して非常に遠慮があった。だから、大学の四年間を通じて住み続けるところに住もうと思い、恵比寿に住んだのである。恵比寿からは中目黒を経て日吉に行くことができ、また、山手線で田町に行くこともできた。

 恵比寿など、今でこそおしゃれな街になったが、当時はビール工場が本気でビールを造っていた街で、どこを歩いてもビール臭いのであった。後に下戸であることが判明する僕は、恵比寿に住んでいるだけで酔ってしまっていた。動物心理学が勉強できるのは嬉しかったが、女子学生がいるのも嬉しく、また、クラシカルギタークラブがあるのも嬉しかった。人生はなんて楽しいんだ。

 そして、クラシカルギタークラブは、僕の大学3年までの、おもな居場所になるのであった。僕はそこで発情し、片想いをいくつかし、少しだけ両想いもし、そしてギターを練習しまくった。いったい動物心理学の勉強はどうしたんだ。俺は発情してギターを弾くために大学に来たのか。そのように反省しないわけでもなかった。次回はそのあたりを書こうと思う。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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