浪人とは希望に満ちた存在である。なぜなら彼はまだ何者にもなっていないのだから。という箴言くらい誰か言っていそうなものだが、誰も言っていないようである。昭和52年の浪人は、朝6時半に起き、甲州街道をまたぐ歩道橋を渡り、代田橋でたいへんに混んだ京王線に乗り、新宿でたいへん混んだ国鉄に乗り換え、7時30分ころ原宿に着くのであった。原宿とは言え、駅を出て左のほう、当時は寂れてさえいた方角に浪人は進んで行く。左手に明治神宮の森を見て、耳にカラスの叫び声を聞きながら、浪人は進んで行く。そこにあるのは代々木ゼミナール原宿校であった。授業が始まるのは午前8時30分だったはずだが、この時代の浪人はひどく真面目で、前の席に座るために早めに到着するのである。しかしながら、前2列は組織的な席取りシンジケートのため押さえられており、この浪人のような無所属は、頑張っても3列目であった。前の席に座ったほうが講義は身につくと浪人は信じていた。

 浪人は国立文系コースだったはずだが、記憶にある講義はわずかである。多久という講師の漢文の講義は当時非常に人気があった。彼の講義は完全に講談であり独演であった。ある日多久講師は、則天武后がいかにライバルを陥れていったのかを話していた。そのライバルが息絶えると、多久講師も息絶えた。かのように見えた。多久講師は5分たっても机につっぷしたままであった。10分経つ頃、心配になった学生が多久講師の肩を叩く。多久講師は何事も無かったように起き上がり、講談は続くのであった。多久講師のおかげで、漢文はずいぶん読めるようになった。当時の浪人友達で、多久講師に影響されて中国文学者になった方がいる。なんだか数学の講義を受けていた記憶がない。「大学への数学」という雑誌を自習室で読むのがカッコよかったのであり、きっと浪人もそのようにしていたのであろう。

 かくして午前中二コマの講義が終わると、浪人は選択科目を履修するため代々木ゼミナール代々木校に向かう。当時の授業料は通年で数十万円、それに選択科目がいちいち数万円取られていたはずだ。それに夏休みはさらに別口で夏期講習に申し込まねばならぬ。大金である。大学の授業料とかわらない。それだけのお金を郷里で水道業を営む父母より搾取している以上、必ずや何かにならねばならぬと浪人は考えていただろうか。それとも希望通り浪人になったはいいが、浪人以外の何者にもなろうという考えが起きなかった浪人は、漠然と浪人であったに過ぎなかったろうか。今ではよく覚えていない。

 浪人とは言え、思春期の男である。最前列を組織的に確保する女の子3人のうち1人に、浪人の心を捉えた女の子がいた。長い髪が腰まであって、西洋人形顔をしていた。男子校で妄想を膨らました浪人にとって、恰好の恋愛対象だったのだと思う。組織的な席確保行動は軽蔑しながらも、浪人は授業中にその長い髪を後ろから見ていることがしばしばあった。実のある会話をした覚えはない。浪人に恋は不要であるという前提を盾に、浪人は妄想の対象が現れたことを喜んでいた。妄想の対象はもう1人いた。浪人は物心ついたころより慢性副鼻腔炎いわゆる蓄膿症であり、代田橋の歩道橋そばの耳鼻咽喉科に週に2度通っていた。時間によっては、そこに可愛らしい声の短髪丸顔の女性がいた。予備校の西洋人形とは全くタイプが異なるが、浪人はここでもときめきを感じた。彼女の「お大事に」の一言で、幸せになったり不幸せになったりした。過剰な解釈である。このときの浪人の言い訳は、患者が医院の受付に言い寄ってはいけない、という勝手な法律であった。要するに浪人は、勇気無い童貞として典型的な解釈を作り出していたのである。

 浪人の1年間は、実り多かった。高校では全く感じることの出来なかった勉強の面白さをここでは感じることができた。これは高校教師のせいではない。勉強のような、面白く感じるまでに忍耐が必要なことに関しては、その他の面白いことを排除した環境が必要であったのだ。それまでの地縁社会から完全に隔離され、ほんの少数いた友達とも会うことのない土地で、全く1人で、テレビと言えば定食屋「みのや」でそのときやっている番組を漠然と見るのみで、青年らしいことと言えば、予備校最前列の髪の長い少女と耳鼻咽喉科受付の短髪の少女を妄想するのみの環境で、浪人はようやく勉強の面白さを知ることができたのである。

 浪人はそのような生活の中でいくつかの大学に合格し、また、東京大学に不合格し、結果として慶應義塾大学に補欠で採用された。受験番号は2695であり、浪人はこれを「付録後」と自虐的に読み替えた。当時読んでいた「太郎物語」(曾野綾子著)で、太郎は補欠合格の大学には行かず、正式に合格した大学を選ぶ。XX大学はおいでと呼んでくれた。YY大学は来ても良いよと言う。それなら僕は、XX大学に行く、という表現だったと思う。浪人にもその気概が欲しかった。しかし浪人は付録でもよいからその大学に行くことにしたのである。

 代々木ゼミナール国立文系クラスの解散の日が近づいた。浪人は、この環境で出来た数人の知人とは、その後偶然以外に会う機会はなかろうと思っていた。ところが、クラスの者数人で企画された予備校卒業記念会に、浪人も声を掛けられたのである。自ら社会的存在であることを止め、静かに予備校に通っていた浪人がそのような集まりに呼ばれたことを、浪人は幸せに思った。幸せに思うことができる心の余裕を、補欠合格とは言え合格した大学から与えられたように思う。結局、浪人というものは合格するまで存在しないのである。合格したことにより、それまでの1年間が浪人であると認められるのである。これは箴言ではなく、浪人であった僕の事実である。