私のいた高校は男子校である。私の在学した1975-78年にかけて、男子校には保健室と購買部以外女性は全くいなかった。人生でいちばん発情しているときに女性から隔離されることにどのような意義があるのだろう。意義があるとすれば、想像力の鍛錬になったということだ。手がかりの少ない環境の中で、私たちは私たちの恋の対象となるべき女性について日夜想像していた。そんな高校2年生の夏であった。学級にはいくつかのグループが構成されており、それぞれが夏休みに何をするのか、がやがやと話していた時のことである。この連載の(7)を読んでもらえばわかるように、私は父親から「友達のいない奴」と烙印を押されるほどの非社会性を持って、ひとりぼんやり座っていたのであった。
そこにKがやってきた。Kは学級内小グループのひとつを統率していた。私はKとは適宜会話する程度の社交は行っていたが、そのグループに属しているわけではなかった。「岡ノ谷、夏休み、飛騨高山に行かねえか」とKは言う。飛騨高山とはどこなのかよくわからなかったのだが、どうせ予定もない夏休み、Kのグループと共に飛騨高山に行くのも良いだろう。「いいよ」と簡単に答えておいた。「じゃ、岡ノ谷は飛騨高山の旅行ガイド買って調べておいてくれ」とK、「わかったよ」と私。「でもなんで飛騨高山なんだよ」と問う私に、Kは以下の話をしてくれた。
飛騨高山は今(というのは1976年)、女子大学生が最も旅行に行きたいところだ。前は八丈島だったが、今は断然飛騨高山だ。女子大学生は数人のグループで飛騨高山の民宿に泊まる。民宿では宿泊客がみんな食堂でご飯を食べる。だから女子大学生とお友達になれるし、うまく行けばセクスの仕方を教えてくれるのである。女子大学生のほうも、旅のアバンチュールを求めているのだ。こんな噂、飛騨高山を旅する女性たちにはたいへん失礼なことであるなあ。「お前だってセクスしたいだろ」とK。「まあね」と私。そんなうまい話はあるまいと思いながらも、性ホルモンの過剰分泌により欲望の言いなりになっていた私は、どこかは知らぬ飛騨高山で性の手ほどきを受ける自分を夢想し、その日は授業など耳に入ってこなかった。そして帰りに立ち寄った本屋でさっそく「旅行読売 飛騨高山特集」を購入した。ところでこのセクスとは、柴田翔『されどわれらが日々――』に出てくる表現である。もちろんセックスのことだが、根が純真な私は恥ずかしくてセックスと言えず、セクスと言いたいのだ。
ここまで読んだ読者のうち、みうらじゅん先生を崇拝する方は、「ありゃ、この話聞いたことあるような」と思ったであろう。然り、後年私が読んだみうらじゅん先生の小説(2004)および映画(2009)「色即ぜねれいしょん」と酷似した展開だ。いやあ、あの映画の臼田あさ美様はエロかわいかったなあ。臼田あさ美様が「フリーセックスう」と叫ぶのだからたまらん。みうらじゅん先生は私と同年代である。この時代の青年は、多かれ少なかれ、童貞を捨てる旅を画策していたのだろうかと思う。詳しくはぜひ「色即ぜねれいしょん」を観てくれたまえ。
私の話に戻ろう。Kのグループではない私が旅行に誘われた理由は、何のことはない、グループのひとりが都合により旅行に行けなくなったが、民宿の宿泊人数を減らすことができないと言われたため、宿代高騰を防ぐ補欠が必要なのであった。私は人畜比較的無害であったため、このような埋め草にはちょうどよいと判断されたのであろう。後でこのことに気づいた私は、やはり青年らしく傷ついた。しかし何よりも、まだ見ぬ女子大学生にセクスを教えてもらえるかも知れぬ可能性はあまりに魅力的であった。そのような可能性を信じてしまい、その設定でナタリー・ドロン主演の「個人教授」を想起し、その飛騨高山版を脳内で監督・脚本する時点で、当時の私は非常に想像力を鍛錬していたと言えよう。
そういうわけで、飛騨高山だ。私たちは4人のグループであった。Kは宿を手配した。私は観光情報を集めた。Nは切符を手配した。Hが何をしたのか覚えていない。飛騨高山だ。まあ観光地として悪くはないが、発情した男子高校生グループがなぜそこにいるのだ。理由は1つしかない。セクスの手ほどきを求めて、である。全く、飛騨高山に失礼な話である。
私たちは現地に到着した昼、適当に散歩して観光らしきことをし、とにかく民宿での夕食を待った。正直言って、飛騨高山でどのような観光をしたのか、私は全く覚えていない。観光情報係だったのだが。頭にはたった1つのこと、セクスしかなかったに違いない。待望の夕食の時間だ。民宿の食堂へ。飛騨高山だから、朴葉(ほおば)味噌焼きだ。いや、そんなことどうでも良い。女子大学生のグループは居るのか。見回すと、どう見ても女子大学生3人のグループが居るではないか。あの噂はほんとうなのか。今考えてみると、失礼な話である。自分の発情度を持ってしか、他人を見ることができなかった時代である。あの頃の自分を愛おしくは思うが、多くの他人に迷惑をかけたのだろうなとも思う。いや、このような姦淫願望は想像上のことなので、非キリスト教徒の私は罪には問われないはずだが。
Kは私に言う。「岡ノ谷、連れてきてやったんだから、おめえがあの大学生たちに声かけろよ。飯食ったらトランプやろうよ、ってな」。私がこの旅行に招聘された理由が、今、より鮮やかになったわけだ。私は「女子大学生に声をかけ、トランプに誘う」役として、この発情旅行に参加していると言うわけだ。私は根が素直で小心なので、この素晴らしい旅行に来られたのもKのおかげであると心底から感謝し、その役を請け負ったのであった。そして驚いたことに、その女子大学生たちは、私の誘いに応じてくれたのである。トランプが始まった。総勢7名なので、トランプをやるには多すぎる。大貧民を数回やって、彼女たちは「今日はここまでにしよう」と言って去って行った。え。セクスはどうなっているんだ。
部屋に戻った私たちは、彼女たちのどの子が良かったか、というような話をしている。これでは中学校の修学旅行、いや、小学校の修学旅行レベルではないか。セクスはどこに行ったんだよ、おまえら。しかし根が品行方正に出来ている私は、そのようなことは口に出さず、女子大学生3名のうち1名がたいへん好ましかったことを告げ、なんとなく話を合わせていた。しかし発情は止まらない。一人で歯を磨きに洗面所に行くと、なんとその好ましい女性がそこに居たのであった。ついにセクスか? しかし我々はぎこちなく二言三言会話し、「手紙書いても良いですか」との問いかけに彼女は「ええ」と短く答え、私たちは密かに住所を交換し合っただけで、セクスはせずにおのおのの部屋に戻ったのであった。
翌日の夜もトランプをする約束であった。しかし翌日の夜、彼女たちの姿はなかった。童貞男子高校生4名とトランプをするよりも有意義な過ごし方は、世界に満ちあふれている。誰も彼女たちを責めるべきではない。私は密かに好ましい女性と住所を交換したのであり、たとえ宿代高騰を避ける補欠要員で、トランプに女子大学生を誘う突撃隊であったとしても、私の品行方正な、謹厳実直な性格は、この一片の紙に残された住所として、創造主によって報われたのである。無宗教であってもこのような時には創造主が出てくるのだ。
その後私たち、つまり私とかの岡山大学の女性はセクスをしたか。否。私たちは2度ほど手紙を交換した。しかし、童貞男子校生には彼女に語るべき世界の素晴らしさもなく、せっかくもらった手紙を手がかりに、童貞を捨てる旅その2、を挑む勇気は私には無かったのである。このような私に返事をくれたあの岡山大学の女性よ、あなたは私に世界の扉を少しだけ開いてみせ、そして閉めて見せた。いや、閉めてしまったのは私だ。すべては私の妄想だったかも知れない。それにしては、あのとき風呂場でひげ剃りに失敗して中指をざっくり切った、そのときの中指の傷は、自分の童貞時代の記念としてしっかりと残っているのである。
精一杯出した勇気が何度かの大貧民と引き替えられた現実に私たちは多くを学び、秋は八丈島に行ってみよう、などと言い出す者は誰もいなかった。いや、私抜きに八丈島に行ったのかも知れない。だが私抜きに、誰が女子大学生をトランプに誘う勇気があるか。ないに違いない。そして、Kのグループはゆるゆると自然解散し、みんなは今度こそ本当にセクスをするために大学に入るべく、受験勉強に邁進したのであった。KやNやHとはその後つきあいは途絶えた。彼らはともかく、女子大学生たちをトランプに誘い、うち一人と住所を交換したが、そこから先に進む勇気がなかった私は、少なくとも想像力の鍛錬はこの時期十分行うことができた。まあ、負け惜しみである。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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