前回は「童貞を捨てる旅」と題して結果的には「童貞を捨てない旅」について長々と書き連ねてしまった。ではいつ童貞を捨てたのかと言うと大学2年である。詳細はまたいずれ。僕はませていたか、奥手だったか。結果的には奥手だったなあと思う。性に関する情報収集には余念がなかったが、行動に出すところでは非常に奥手であった。今回はその辺のところを書こうと思う。
今の子どもたちは基本、まわりから「かわいい」と言われながら育っている。たぶんそれで良いのだろう。僕はその種の褒め言葉を子どもとして受けたことがない。むしろ大人になってから肩書きと年齢に不釣り合いな行動をして「かわいい」と言われたことがあるが、これは人格形成に影響を及ぼしていない。人格形成に影響を及ぼしているのは物心ついたころから母や叔母から言われた「目が細い」「鼻が低い」「首にあざがある」と言った比較的褒め言葉とは言えない言葉たちである。これらの言葉がどうも心の奥底にへばりつき、自分が女性に受け入れられないであろうという予感に醸成されていった。それは性を意識するようになると共に僕の深奥に堆積していった。
童貞を捨てたのは大学2年だったが、初めての接吻は小学1年であった。しかしこれは形式として接吻であっただけで、接吻とすべきものではなかっただろう。なぜなら僕はとても嫌だったからだ。1年生の教室で、隣の席にはKちゃんがおり、前の席にはYちゃんがいた。この二人はとても仲良しで、経緯は知らぬが僕を「彼氏」と定めてしまった。彼女たちは僕が油断していると接吻する。頬のみならず、唇も盗まれた。小学1年はガキであるから、これは特に嬉しくない。唾液でべちょべちょして気持ち悪くてたまらん。あの頃のことを思い出すとKもYもそれなりに可愛らしく、今なら接吻歓迎だがそのようなことは立場上言うべきではないな。さて、ほんとうの接吻に至るまで、僕はさらに14年待たねばならぬのであった。
このように「モテ期」をあまりに早くに浪費してしまった僕は、5年生くらいになり、ようやく女子が気になってくると、「自分はモテないに違いない」という呪縛にとらわれてしまった。その上、連載2回目でも述べたとおりついたあだ名が「おじいさん」である。これでは青春は来ない。僕はだから、模型飛行機に没入した。とは言え、やはり気になる女の子は出てくるのである。
高学年になると、土曜放課後に教室でたらたらするのがはやりだした。学校側もこれについてなんら禁止条例を発しなかったので、土曜放課後は僕らにとって青春前哨戦であった。お菓子を食べながら雑談をする訳だが、当初男女別に構成されていたグループが少しずつ男女混成になり始めた。僕たちはそこで何を話したのか、全く覚えていない。ただ覚えているのは、Yさん(先ほどのYちゃんとは異なる)がくれた「イチゴミルク」の味である。調べてみれば、イチゴミルクの発売は1970年だから、そのお菓子は流行の最先端なのであった。ちょっと酸っぱい外側をしばらくなめ、外側がある程度薄くなったところで意を決してかみ砕く。するとミルクの甘みが広がり、イチゴの酸っぱさと混じり合う。丸くって酸っぱくって三角なのだ。世の中にこれほど美味なものがあるとは奇跡であった。そしてYさんは、イチゴミルクの味と共に僕の青春前期に君臨している。
Yさんは小さいころからピアノを習っていて、合唱ではピアノ伴奏してくれた。土曜のたらたらタイムではイチゴミルクをくれるばかりではなくピアノも弾いてくれていたのだ。青春前期に恋に落ちるべきステレオタイプな条件を備えていたのだ。問題は、僕以外にイチゴミルクをもらっていた男がいたかという点に収束する。そしてそれがいたのであった。その男は顔が河童に似ていたので無残にもカッパというあだ名であった。そしてカッパを裏返すとパッカになり、バッカに似ているので、僕たちは「カッパ、バッカ」を繰り返して彼を揶揄したが、彼はそういうことには動じない男であった。そしてそういうことがあればもれなく動じる僕は、仮想ライバル河童に対して常に負けているのであった。さらにご丁寧なことに、学級の姉御的存在であったSさんは「岡ノ谷君はYさんに遊ばれているのよ。Yさんが好きなのはN君(河童)なのよ」と忠告してくれた。小学生なので、「遊ばれている」と言ってもたいしたことはないのだが。今ならむしろその当時のYさんに遊んでもらいたいものだが、それもまた不謹慎なので取り消す。
さて、女子と混成でない時の土曜たらたらタイムではどのように私たちは過ごしたのか。これは割とよく覚えている。僕たちの議論の中心は、「どうしたら子どもができるのか」という事であった。たぶん今は多様な情報が容易に入手可なので、このような議題は小学3年生時点で解決しているであろう。僕らは小学6年にもなってこの議題を熱心に論じていたのだから、のどかな時代である。さて、この件について僕は独自な調査をしていたので、男女の解剖学的な差異とその機能について知識を持っていて、河童を含む数人の悪ガキらに披露した。すると「男と女がそんな気持ちの悪いことをする訳がない」と主張する者も現れた。彼によると、男女はある程度長期間同じ家に住むことで、自然に子どもが発生すると言う。前者を性交派、後者を自然派としよう。性交派と自然派の議論は、少なくとも3回の土曜日たらたらタイムを消費しても結論が出なかった。
ところがその次の土曜、河童が画期的な資料を持って現れた。「チビっ子猛語録」という。今調べてみると、1972年発行となっており、デンマーク語からの翻訳である。題目はしゃれた訳だ。毛沢東語録からの連想であろう。前半は学校生活と先生について。先生は絶対ではなく誤謬に満ちた存在であることが記されていたと思う。後半はセックス(前回はセクスと言ったが、これは引用なのでセックス)について。男女の解剖学的差異とセックス時にそれらがどう機能するか、解剖学的結合に先立ち、男女がどのような行為をするか、そしてその結果として受精が行われ、子どもが出来ること。少年少女がセックスする場合には、子どもが出来ないよう「コンドーム」をすべきこと。こう言ったことが実にカッコよく語られていたのだ。僕たちは「チビっ子猛語録」を座右の銘として、青春前期を頭でっかちとして過ごしていたわけである。ところで「チビっ子猛語録」にはさらに過激な「青版」があったと思うが、その内容がネットで見つからない。僕は実はその「青版」を勇気を出して書店で購入して、何度も何度も読んだものだが。「青版」のこと知っている方は教えて下さい。
このように、知識は積み重ねていった訳だが、Yさんからは依然としてイチゴミルクをもらいながら当たり障りのない話をするのが精一杯の僕だったのである。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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