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随筆 小林秀雄

 八月六日、七日と、七夕でにぎわう仙台へ行ってきた。
 毎年この時期、仙台の河合塾では何人かの講師を外から招き、「知の広場」と銘打って、当面の受験には必ずしも直結しない話を塾生に聞かせる場が設けられている。来春、晴れて大学生となった日には、自力で人生や学問を考える態度が養えるようにとの親心からである。そこへ今年も招かれた。併せて今年は、一般市民の方々の会にも招かれた。
 河合塾へ私を招んでくれるのは、現代文講師の三浦武さんである。その三浦さんから今年はお題が与えられた。<「まなぶ」と「まねぶ」>である。三浦さんは小林秀雄の読み手としても指折りの人だが、今年は二月に、三重県松阪市の本居宣長記念館の館長、吉田悦之さんの『宣長にまねぶ』が刊行され(致知出版社刊)、私たちは皆々大きく目をひらかれて寄ると触ると話題にした。この吉田さんの本は、「学ぶことは、真似ることだという。本居宣長をまねてみよう」という言葉で始まっている。今年はこれだ! という直観が、三浦さんに閃いたのである。
 小林先生晩年の大著「本居宣長」は、本居宣長の仕事に即して「学問とは何か」を考えた本とも言っていいのだが、その「本居宣長」の第十一章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収)で、先生はこう言っている。
 ―「學」の字の字義は、象(カタド)り効(ナラ)うであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚にあるとは、学問という言葉が語っている。
 「模傚」は「模倣」に同じ、つまりは「真似」であるが、学問の根本は模倣だって? おかしいじゃないか、学問だって芸術だって、独創こそが命だろう? そういう声がさっそく聞こえてくる気がする。

 今日、「まねび」「まねぶ」はまったく使われないが、この言葉はかつては「まなび」「まなぶ」とともに用いられ、「まねび」「まねぶ」も「学び」「学ぶ」と書いた。辞書にあたってみると、『大辞林』は「まねぶ」と「まなぶ」は同源である、この二つの言葉の根は同じであると言っている。また『広辞苑』は、「まなぶ」は「まねる」と同源、「まねぶ」も「まねる」と同源であると言っている。ということは、「まなぶ」「まねぶ」「まねる」は兄弟姉妹であり、かつての日本人は「まなぶ」と言うときも、語感としては「まねぶ」「まねる」を伴っていたということである。つまり、「まなぶ」とは、何かを模倣することだという意識を誰もが漠然とであれもっていて、そういう意識で「まなんで」いたということである。
 しかし今日、「まなぶ」に「まねぶ」の語感はない。それどころか、私たちにはなんとなくだが「まなぶ」は高尚で、「まねる」は卑俗だという感じがある。これはどこからきたのだろう。ひとつには、「まなぶ」は人間に知恵がついてからの大人の行為、「まねる」は知恵がつく前の子供の行為という、慣用からくる認識差があるようだ。
 そしてもうひとつは、学校で、読書感想文でもお絵かきでも、人真似はいけません、あなた独自のものを出しなさい、大事なのは個性です、独創性ですと、さんざ言われ続けたことがあると思う。これはおそらく、欧米の個性尊重とかをあわただしく輸入し、先生たちが無批判に受売りしたのだろうが、その弊害は大きかった。独創、独創と言われても子供たちは何をどうすれば独創になるのかが皆目わからず、それでとにかく人と違ったことをしておけば恰好がつくとなって、その場かぎりの奇妙奇天烈な花火を誰も彼もが打ち上げた。

 しかし、小林先生はちがった、終始一貫、何事もまず「まねよ」だった。言葉を覚えることは、真似ることから始まる、誰ひとりとしていま使っている日本語を、今日言うところの「学ぶ」すなわち勉強から始めた者はいない。外国語もそうである、それ相応の年齢になってなお、ネイティブを真似ることをしなければ身につかない。芸事も同じ、スポーツも同じだ、絵画や書道における臨写や模写は、ごく当然のこととして誰もが行っている。人間は、祖先からの長い経験で、「まなぶ」は「まねる」だ、「まねる」こそが「まなぶ」だと本能的に知っているからである、人間は、「まなぶ」より先に「まねる」ように造られていると先生は言い、人間生活のあらゆる面で「まねる」が先行することをいくつも示した。
 それを、最も精しく、最も強い口調で言っているのが「モオツァルト」(同第15集所収)である。
 ―彼(モオツァルト)の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。
 今日、教養といえば、たいていの場合、頭の中に蓄積した知識の量を言うが、モーツァルトはそうではなかった。「当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ、もうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する」とは、あらゆる音楽的手法を知識として知り尽しているだけでは一片の価値もない、それらの手法のどれであれ、ただちに真似して目の当たりに再現してみせられる、そこまで行って初めて他人の手法を理解したと言えるのだ、という意味である。
 そして、先生は、間髪を容れず畳みかける。
 ―模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という観念を化物染みたものにして了った。
 「模倣出来ぬもの」とは、すなわち自分の個性である、その個性がどういうものであるかは、他人を模倣してみないでは見つけられない、模倣してみてこそ見つけられる。それは、こういうことである。模倣の対象をどこまでも追って模倣のかぎりを尽くしても、完璧な模倣というものは完成しない。なぜなら、模倣の対象と自分とは、ついには別々の個体だからだ。スポーツに例をとれば、模倣する対象と自分とでは身長がちがう、手足の長さがちがう、筋肉の柔らかさがちがう、視力がちがう…、したがって、対象のフォームやタイミングの取り方を極限まで模倣しても、まったく同じフォームやタイミングにはならない、その、対象との差を詰められないまま残った自分のフォームやタイミング、それこそが自分の個性であり、自分独自のフォームやタイミングは、模倣の極限でおのずと現れる、これこそが独創である。小林先生が、「僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」と言っているところを、比較的経験者の多いスポーツの世界に移し替えて読めばこうなるだろう。
 小林先生の本には、モーツァルトと並んでもう一人現れる、ゴッホである。「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で言っている。
 ―ヌエーネン時代のゴッホを支配した画家は、明らかにミレーである。この頃の彼の手紙には、到る処にミレーの名前が出て来る。「ミレーという山頂」、あとは、デカダンスという下り坂があるだけだ、とさえ言っている。/彼はヌエーネンで、ミレーという絶頂を眺めながら、自分の考えの実験に、真剣に取りかかった。明らかに、彼はミレーを模倣した。但し、確かに彼のものである誠心誠意を以て。
 ミレーは、「晩鐘」や「落穂ひろい」などで知られる画家である。「ヌエーネン」はゴッホの父の在任地で、ゴッホも三十二歳までここに住んだ。その翌年、パリに移り、翌々年春からはアルルに住み、ここで「ゴッホの黄色」が開花する。ゴッホの模写にはもうひとつ、葛飾北斎、歌川広重など日本の浮世絵があることも知られている、が、ここでは、ゴッホもまた模倣の達人であったことを言うに留める。

 私が小林秀雄の文章に初めて接したのは、高校二年の春、図書室で手にした「中原中也の思い出」だった。一読、一度で魅了され、その「中原中也の思い出」が収められた筑摩書房版の「現代日本文学全集 小林秀雄集」を借り出して読みふけった。むろん、難解だった。ほとんど理解できなかった。だが、行く先々で現れる逆説が、いくつも頭に残った。そのうちの一つが、日支事変下の昭和十四年初頭に書かれた「満洲の印象」(同第11集所収)だった。「事変の影響するところ、西洋模倣の行詰りを言い、日本独特の文化の建設を叫ぶ声高い説が沢山現れたが、声高さはいずれ一時のものである」、そう言って、
 ―西洋模倣の行詰りと言うが、模倣が行詰るというのもおかしな事で、模倣の果てには真の理解が現れざるを得ない。
 膝を打った。以来五十余年、私は小林秀雄を模倣してきた。小林秀雄を理解するために、真の理解が現れると小林秀雄の言う模倣の果てまで行こうとしてきた。七十歳を過ぎて、とてももう果てまでどころかとば口に立つのさえもがやっとだが、「モオツァルト」で言われたあの言葉、「僕が他人の歌を模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」は実感として身にこたえている。

(第二十二回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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