すべてのものが「雑貨」と称され、消費されていく過程を、著者は「雑貨化」と呼ぶ。前著『すべての雑貨』には、すでに「人々が雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが、雑貨感覚」という、おおまかではあれ、そうと頷くほかない状況認識が示されていたのだが、本書ではさらに一歩深化した視点から、自身の立ち位置が説明されている。同時代の雑貨の流行廃りを消費者の側から眺めてきた私にも、共感するところが多かった。
雑貨本という言い方があるとするなら、本書は従来の雑貨本の枠には入っていない。希少なコレクションの紹介も、経営に関するノウハウもなければ、特定の物に対する偏りのある愛の表明もない。むしろ偏愛という言葉に対する羞恥と忌避が全体をつらぬいていて、すべてを等価値に眺める「雑貨感覚」のなかに美醜を正しく判断しうる眼を保ちうるのか、保ちうるとしたらそれをどのように発揮すべきかについて、自問自答がくりかえされるのみである。「高貴な物から下賤な物まで、なにもかもをひとしく雑貨へと変えて飲みこんでしまう大河」のなかで、威圧的な等価の闇からひと筋の光を引き出し、選別する主体は、自分なのか世の流れなのか。
もちろん、最初にこれはという選ぶ側の直感があり、まだだれも気づいていなかった価値を認めたのは自分だという矜恃はあるだろう。しかしよりどころであったその自恃の領域を、世の中がつぎつぎに侵食してくる。あのひとがあの雑誌のこのページで紹介しているのとまったくおなじ品が欲しいという反応からはじまって、しだいに同等品が大量に流布し、あとから振り返ると区別がつかなくなっている。
厳しいのは、「選別」した先駆者への評価は、他の「選別」された「選別」者によってしか公式に認定されないということだろうか。著者のように、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまうための、高踏的な身ぶり」が、ほかならぬ「じぶん」にもあるという罪悪感に近い冷静な視点があっても、それで世界の「雑貨化」に、結果として加担しているという罪が減じることはない。なぜなら、減じられると考えることじたいに、自らを上においている構造がつきまとうからだ。
どこまで行っても同様の光景が反復されるだけで、それを完全に突き崩しうるなにかが見つからない。にもかかわらず、物は物としてそこにあり、目で見られ、手で触れられ、生活の一部となって、私たちを支えている。しかも今度は、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまう」まぎれもない雑貨をそろえて、その「暮らし」全体を設計しようとする「高踏的な」戦略をそなえた企業があらわれる。
先駆者の位置を確保し、時流におもねらず身を引いたと思い込んでいる古道具屋の夫婦や、選別者の位置を数の論理で保とうとしているイベント企画者、先駆者にも選別者にもなるつもりはなかったのに、気がつくと滑り落ちた集団に入れられていたパン屋や、オリジナルの音楽が批判対象に似ていると評されるうち、自分でもその気になってきたというバンドマンを描くあたりの筆は、苦く切ない。
しかし、信じるべきものはある。世界の「雑貨化」にあらがうのは、ひとりひとりの身体に染みついた記憶であり、積み重ねてきた時間なのだ。売る側であれ消費する側であれ、それは関係ない。他人の物語を受け入れる耳を持ち、自身の物語を人に押しつけず、双方を包む言葉に近づくこと。若き日に陸軍航空部隊にいた祖父の語りに、より正確に言えば祖父の語りを伝える著者の語りに、それはあらわれている。五十も半ばを過ぎてから戦友たちを鎮めるために仏像を彫り始めた祖父は、「死んだら好きなんあげるわ」と孫に言う。仏像ではなく自画像を所望すると、こう返される。
「そやな、仏なんかええんよ。おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから」
仏師が彫るものから素人の手慰みまで、仏像はいくらでもある。けれど、その「雑貨化」に抗するのは、「忘れられへんから」という想いなのだ。
(「波」2020年9月号より転載)
三品輝起×島田潤一郎 「雑貨の地図と断片化する世界」
2020年9月16日(水)に、『雑貨の終わり』刊行記念オンライントークイベント開催!
お相手は、三品さんのデビュー作『すべての雑貨』を世に送り出した夏葉社の島田潤一郎さん。詳しくはこちらから。
この連載が本になりました
『雑貨の終わり』
三品輝起
2020/8/27
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堀江敏幸
ほりえ・としゆき 1964(昭和39)年、岐阜県生れ。1999(平成11)年『おぱらばん』で三島由紀夫賞、2001年「熊の敷石」で芥川賞、2003年「スタンス・ドット」で川端康成文学賞、2004年同作収録の『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞、木山捷平文学賞、2006年『河岸忘日抄』、2010年『正弦曲線』で読売文学賞、2012年『なずな』で伊藤整文学賞、2016年『その姿の消し方』で野間文芸賞、ほか受賞多数。おもな著書に、『郊外へ』『いつか王子駅で』『めぐらし屋』『バン・マリーへの手紙』『アイロンと朝の詩人 回送電車III』『未見坂』『彼女のいる背表紙』『書かれる手』『燃焼のための習作』『音の糸』『曇天記』ほか。
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MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 堀江敏幸
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ほりえ・としゆき 1964(昭和39)年、岐阜県生れ。1999(平成11)年『おぱらばん』で三島由紀夫賞、2001年「熊の敷石」で芥川賞、2003年「スタンス・ドット」で川端康成文学賞、2004年同作収録の『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞、木山捷平文学賞、2006年『河岸忘日抄』、2010年『正弦曲線』で読売文学賞、2012年『なずな』で伊藤整文学賞、2016年『その姿の消し方』で野間文芸賞、ほか受賞多数。おもな著書に、『郊外へ』『いつか王子駅で』『めぐらし屋』『バン・マリーへの手紙』『アイロンと朝の詩人 回送電車III』『未見坂』『彼女のいる背表紙』『書かれる手』『燃焼のための習作』『音の糸』『曇天記』ほか。
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