シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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雑貨の終わり

 私の店のお客さんでもっとも多い職場は無印良品かもしれない、ということに気づいたのは、同社で働く彼らがファミリーセールという、身内だけの優待セールを知らせる葉書を熱心に配り歩くからにほかならない。その期間がちかづくと私の手もとには茶色い葉書が何枚もたまってきて、次の週には吸いこまれるように無印良品へ買い物に行くことになる。そのせいで、家じゅう同社の品物がふえる一方だ。家電、家具、掃除用品、文房具、なんだかんだ。合理性の美学につらぬかれた物たちのユートピアで散策を楽しんだあと、クラフト紙の袋にモノトーンな商品をたんまりつめこんで帰ってくる。しかしいつも思うのだが、せまい自室にひろがる雑多な物のなかに無印良品の簡素な品をぽんとおいた瞬間の、えもいわれぬもの悲しさはなんであろうか。それは私たちが追いもとめるライフスタイルという言葉のもつ、ある種の空虚さと似ている。
 では、私もさまざまな出自の物にあふれかえる小部屋にたえられなくなったとき、「無印良品でミニマルな暮らし」といった謳い文句の便乗本を読んで、物をもたない生活を消費で解決するという倒錯のなかで生きるしかないのだろうか。シンプルライフ、断捨離、ミニマリスト…いや、それはちがう、と彼らは先回りして答えてくれている。商品カタログにはこんな前書きがついている。「ものに囲まれてくらす。すっきりとした空間ですごす。使い勝手のよい部屋で快適に生活する」。つまり物にうずもれようが、ショールームみたいな部屋で暮らそうが、どんなライフスタイルであろうと、ここちよく使いやすい無印良品を利用する余地があることをしめしている。ゴミ屋敷のおじさんにも、物をもたぬ禅寺の坊さんにも、どんなひとにだって店の扉は開かれている。この全方向にむけた、感じのよい肯定感。なんとしたたかな企業であることか。無印良品は、どうやってもライフスタイルを確立できず、日常にむなしさをかかえこんでしまう自国民の存在さえ見越しているかのようだ。無印良品のファミリーセールにかよいつづけるうちに、私は彼らに畏怖の念さえおぼえはじめている。

 神野さんは美大のデザイン科に入り、デザインがなしうる巨大な夢を頭いっぱいにつめこんだあと、個人のデザイン事務所に就職する。そしてヘッドホンをして、ただひたすらモニターのまえでイラストレーターとフォトショップに隷属させられた日々をおくるうちに体調をくずしていった。最初は視野の狭窄からはじまり、つづいて胃や腸などもろもろの臓器に不調があらわれていき、最後は電車にうまく乗れなくなって三年で退社。いまは地元の無印良品でバイトをしている。彼はデザイン事務所をやめてバイトをはじめるまでのあいだ、夢をとりもどすべくドイツのヴァイマル、デッサウ、ベルリンを順々におとずれ、歴史に翻弄されたバウハウスをめぐる旅をしたそうだ。その旅路で天啓をえたのかどうかわからないが、どうやら彼はバウハウスの意思をグローバルな規模で受けついだのは無印良品だけだと気づいたらしく、歴々のデザイナーたちはなぜあらゆる事象をデザインという枠組みで語りたがるのか、という意地のわるい私の質問にも「他のデザイナーはともかく…」と、さらっとうけながしたあと、無印良品だけは机のうえや頭のなかにだけある夢想じゃなくて、リアルな資本の現場でデザイン理論を実践しているのだと熱く語った。「なるほど。じゃあ、はやく社員になれるといいですね」などと神妙な顔で話をあわせているうちに彼との距離もちぢまり、ときおりファミリーセールの葉書をくれるようになった。
 ある年、ずいぶん痩せこけてミイラのような顔つきになっていたので、それとなくつつくと、母親が骨粗鬆症で三十か所ちかくを骨折したあげく、最後は肺炎になって亡くなったと明かし、「凄絶でした。もうぼくには父親もいなくて…。これから実家でひとりぐらしになるんです」といいながら、いつもとおなじ調子で優待葉書をリュックからとりだした。神野さんはつねにまじめで、まるで無印良品の信仰を広める宣教師のようだった。すでに葉書を何枚かもっている私は、いっぱいあっても意味ないしだれにあげようかと考えながら「ありがとうございます。神野さんのいる店、埼玉でしたっけ? 営業協力しましょうか?」と冗談まじりのお礼をいうと、出会ってはじめて見せた笑顔で「ぜったいこないでしょう。どこの店舗でも優待はつかえますからヤフオクに売っちゃだめですよ。千円くらいだして買うひともいるんで」と釘をさされた。それが彼と会った最後だった。そのあとしばらくしてメルカリが誕生して、彼が後生大事に配り歩いていた特売の許可証が数百円で売り買いされているのを見た。いまもファミリーセールの時期がくると、手渡しで広がる秘教的なお楽しみがずいぶん味気ないものになってしまった世のなかで、彼は伝道をつづけているのだろうか、などと思い出すことがある。

 以前、雑貨界の「地図のどまんなかにそびえたつ無印良品という国民的インフラ」なんて冗談めかして書いたことがあった。店に行けば生活に必要な物がほとんどそろうから、というのもあるけど、なによりもこれほど多様な趣味嗜好で分断された雑貨世界で、国際政治における国連みたく、まるで価値中立を保ち、各方面から好感をもたれているかのように見える小売業を、私は無印良品のほかに知らないからだ。でももちろん、それは錯覚である。相対化がここまで進んだ地平に中立なんてものはありえない。ただ、あらゆる角度からながめて、なんとなく中立的に見える高度なふるまいがあるだけである。とはいえ同時に、想像を絶する知略のたまものであることも認めざるをえない。世界三十か国を股にかける彼らは、どれほど壮大な目標にもとづき、その水面下でどれほど困難なネゴシエーションや、ブランディングの調整をやってのけてきたのか。私のようなせまい価値観のなかで、じぶんの好きな物をちまちまならべて糊口をしのいできた雑貨屋には、考えただけでめまいがする。資本の激流のなかに生まれた、つかのまの奇跡のように思うことさえある。
 一方で、雑貨化がなんたるかをだれかに簡潔に説明したいならば、無印良品のカタログにまさる教科書はないだろう。なぜなら価値中立という彼らの術計によって、おうおうにして、多くのひとが警戒心をといて耳をかたむけるからである。収納家具、寝具、リビングファブリック、テーブル、チェア、キッチン用品、バス、ランドリー、掃除用品、家電、照明、自転車…。カタログの目次をめくるだけで、世の雑貨化の広がりを理路整然と教えてもらえる。そしてその論理をたどっていけば、無印良品がめざすライフスタイルを実現するために集まった簡素で機能的な雑貨の、最終的に夢見る商品がおぼろげながらわかってくる。そう、それは生活そのものが営まれる場所、つまり家である。そしていうまでもなく、銀座の世界旗艦店に行けば値札のついた無印良品の家がみんなを待っているのだ。ひとむかしまえの総合商社のキャッチフレーズに「ラーメンからミサイルまで」というのがあったが、同社はじつに教科書的なまでの雑貨理論でもって、ペンから家までを一直線につないでいる。

 東日本大震災の一年まえ、三十周年を記念してだされた、その名も『MUJI 無印良品』は彼らの思想を強く開陳しためずらしい一冊である。生活アドバイザーや収納名人たちが便乗した実用書や、元社長が書いたビジネス書など関連本はやまほどでているが、純粋なコンセプトブックというのはほとんどなかった。同書の冒頭には、あの二〇〇九年に打ちだされた「水のようでありたい」というキャンペーン用に撮られた写真がいくつか載っている。なんど考えても、空おそろしいメッセージであるが、ニューヨークのセントラルパークのスケートリンク、毛沢東の肖像画が見下ろす天安門広場、ローマのカフェ、イスタンブールのガラタ橋を切りとった、暗く沈んだ写真はとても美しい。じつはこれらは前年にくしくも同時出店した四都市の風景であり、つまり水のように世界の隅々へ、ひとびとの求める場所にどこまでも広がっていくイメージとともに、同社のグローバル化を高らかに宣言するものとなっている。
 二〇一八年、無印良品はライフスタイル雑貨の夢である住宅の先に、もうひとつのフロンティアを手にいれた。ムジ・ホテルである。一月、中国広東省深圳市に姿をあらわし、半年後には北京の天安門広場のそばにもできた。そして翌年、銀座三丁目に逆上陸。彼らはいう。グローバル化が進んだ世界で、旅はもはや日常でしかない、暮らしの一部なのだと。ずいぶん先を見すえすぎていて、私にはよくわからない発言だが、彼らにとってホテルという大実験は、世界中のまだ見ぬ客層にむけたアプローチにもなっているのだろう。無印良品のファミリーセールのときだけ店にやってきて、レジの店員に「この葉書で割引できますか?」といちいち確認しながら買い物する私とは、ぜんぜんちがうだれかにむけて。

 薄い霧が街をすっぽりとおおった、ある春曇りの夕刻。ムーアさんは「今年もファミリーセールの葉書をもってきたよ」と店に入ってくるなりフィドルのケースを床においた。
「まだ無印良品でバイトしてたんですね。練習帰りですか」
「いやこれから。そうそう、もうバイト変えようかなと思ってて。無印良品でレジやってんの、正直つらくなっちゃってさ」
 五十ちかいムーアさんは、たしか東横線沿線のどこかにある無印良品で働いていて、こうやってバンドの練習があるときだけ、スタジオからちかい私の店にくることがあった。ムーアさんの本名は新井といい、百九十センチちかい長身なのと、若いころパンクバンドのくせにジャズマスターを轟音でかき鳴らしていたせいで「水戸のサーストン・ムーア」と呼ばれるようになったんだ、と説明してくれたが、幸か不幸か、人生で一度もその偉大なギタリストの演奏に興味をもったことはないらしい。
「バイト先でなんかあったんですか」
「おれさ、十年くらいアイリッシュの音楽をやってるじゃない。はじめたときからずっとそうだけど、ライブとかやるとさ、かならず『無印良品の音楽みたいですね』っていわれるんだよね。日本中、どこいってもいわれんのよ。さすがに慣れてきたけど、そういうのってボディブローのようにじわじわきいてくるもんでさ。アイリッシュだけじゃないよ、スコットランド音楽やってる仲間もなげいてたし。というかケルト系の音楽はみんないわれちゃってるんじゃないかな」といって口髭を上下になでるしぐさをなんどかくりかえした。SNSでなにかリアクションがあるたびに通知される設定なのだろうか、ムーアさんのスマホから三十秒に一回くらい聞こえるか聞こえないかほどの電子音がピコピロと鳴っている。
「ああ、それはうちの店のBGMでもいっしょですよ。ケルトだけじゃなくて、ヨーロッパの伝統音楽で穏やかなやつはだいたいそう。イタリアで民謡やってるブラスバンドかけても、パリのミュゼット流しても『なんか無印良品みたい』の一言で終了ですから。このあいだなんて古楽器をつかったリコーダー・カルテットでもいわれましたもん」
「もうすでに無印良品の『BGM』シリーズから古楽系もリリースされてるかもしれない。でもおれはさ、あの世界中の良質な音楽を紹介しつづけてきたCDは、とてもこころざしが高い試みだとつねづね感心してたんだ。ただ、おれの思いこみかもしれないけど、ああいうフォークロアな音楽っていうのは、しかるべき隘路をたどったひとの心に棲みつくんであって、年がら年じゅう全国でかかってるとさ、その道に行きつくまえに耳に抗体ができて心が受けつけなくなる気がするんだよね」
「好きになるきっかけは、いまもむかしもいろいろあるんじゃないですか。それより、すそ野というか間口が広がることは、長い目で見ていいことかもしれませんよ。ムーアさんのバンドだって恩恵があるかもしれないし」というと、間髪いれず「ぜんぜん、売れてないから」と返ってきた。ピコピロ、とスマホが鳴く。
「ともかく、おれが一番困っているのは、そこじゃないの。週のうちでバイトしてる時間がバンドの練習時間を超えはじめたころぐらいからかな…わかんないけど、あるときから、じぶんの音楽をじぶんで無印良品の音楽みたいだな、って思いはじめてさ」と急に真顔になった。「最近は店でBGMを聞いてるのも、練習後にバンドの録音聴くのもつらいんだよね」
 あけはなした扉のほうから栗の花の匂いがする。「じっさい、彼らは現地に行ってめちゃくちゃ一流の音楽家あつめて録ってるし、しかも高音質でさ、じぶんたちよりも格段うまい演奏で…」とムーアさんの愚痴はえんえんとつづく。いっこうにファミリーセールの葉書をくれる気配はなく、すっかり夕闇におおわれたバス通りでは、霧をかきわけて帰途をいそぐひとたちの足音がきれぎれに響いていた。

 いま無印良品がもっとも消費社会をフラットに研究している企業のひとつであることに、異論は少ないと思う。経済と文化におけるハイとサブ、あるいはメジャーとマイナー、普遍と特殊、合理と非合理、複雑と簡素、グローバリズムとローカリズム。その分離をどうつなげるのか、その差異を利用してどう新しい消費を生みだせるのかを、彼らは冷徹な目で模索しつづけている。
 たとえば、千葉県のとある自治体において地域活性化のための指定管理者となり、あまり利用されていなかった農産資源などをつかって、どうすればその土地の特産品の価値を上げられるのかという挑戦をする一方で、パリにある欧州旗艦店、ムジ・フォーラム・デ・アルの一周年を記念して、いわゆる日本で「生活工芸」と呼ばれるムーブメントをかたちづくってきた重要な工芸家たちを紹介する企画展をひらく。あるいは成田空港の格安航空会社用ターミナルという、大きな公共空間をデザインしながら、池袋西武店でとるにたらない物やひろった物を収集、展示し、フェティッシュと雑貨感覚の不分明なさかいめを考えるような機会をもうける。またアジアやヨーロッパの現地企業と合弁会社をせっせとつくって店舗拡大を進めるプレスリリースを流したかと思えば、かつてあった有楽町店に若手の現代美術家を呼んで、無印良品の商品をつかったレディメイド的な彫刻作品をつくらせたりする。「ポスト・レディメイド」と呼んでいいのかわからないが、おそらく彼らは、その気鋭の美術家がデュシャンのレディメイドさえもが記号化された地平で創作活動をしていることを、ちゃんと知っていたはずだ。無印良品は日夜、メジャーとマイナーを行き来しながら、メタ的な自己分析と消費者研究をおこなっている。そうやって蓄積された情報は、雑貨化する私たちのあらゆる欲望を、ずっとずっと先まで見通しているだろう。
『MUJI無印良品』のクラフト紙でできた帯には、あのえんじ色のゴシック体で、無印良品が一九八〇年に消費社会へのアンチテーゼとして日本に生まれた旨が書かれてある。強欲な資本に背をむけて、脱雑貨化をめざすような小さな共同体は、いまもむかしもつねに一定数存在してきたし、修行僧みたいになっていったまじめな自営業者もいっぱい知っている。だが、無印良品でもパタゴニアでもいいけれど、消費社会をオルタナティブな消費で、いいかえればべつの正しい雑貨化で書きかえていく、といった良貨で悪貨を駆逐するような考え方を、臆することなくいいはなつ巨大企業の登場をどうとらえるべきなのかについて、われわれはまだ答えをもたない。冷笑すべきか、一抹の希望をたくすべきか。先は見えないけど、どのみちそれは正義の消費をめぐる、まさに地球規模でくりひろげられるパワーゲームのはじまりであることに変わりはない。

この連載が本になりました

雑貨の終わり

三品輝起

2020/8/27

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

三品輝起

みしな・てるおき 1979年京都府生まれ。愛媛県にて育つ。2005年より東京の西荻窪で雑貨店「FALL」を経営。著書に『すべての雑貨』(夏葉社)がある。
Photo © 本多康司

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