今年の大学入試センター試験に、本居宣長の「石上私淑言」(いそのかみのささめごと)が出た。前回、読者にもその問題文を読んでもらい、受験生諸君には、春、晴れて大学生となった暁には、この「石上私淑言」の全文を読んでほしいと言った。なぜかと言えば、「石上私淑言」には、小林先生が言っていた「学問」の姿がくっきりと見えている、それを伝えたかったからである。
大学は、学問をするところである。ところが、学問をするとはどういうことか、そこがいまは確と見据えられていない、小林先生はしきりにそのことを言っていた。ちなみに辞書を引いてみると、まず『広辞苑』は、①勉学すること、学芸を修めること、また、そうして得られた知識、②一定の理論に基づいて体系化された知識と方法……、と言う。『大辞林』は、①一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語、②勉強をすること、知識を得るために学ぶこと、また、それによって得た知識……、と言う。『日本国語大辞典』は、①先生についたり、また、書物を読むことなどによって学芸を身につけること、またその習得した知識、学識、②一定の原理に従って、体系的に組織化された知識や方法……、と言う。
だが、小林先生は、まったく違うことを言っていた。
――学問とは、人生いかに生きるべきかをとことん考えることだ、そのために、誰もが知っていることをより深く、より精しく知ることから始める、それが学問というものだ……。
これは、自然科学にあっても変りはない。自然科学は、人類の生活向上に大きく貢献してきた半面、人格の尊厳を踏みつけ、蔑ろにすることもしばしばだった。こうなったのは、科学者たちが研究方法の開拓とその成果に目がくらみ、人間を見失っていたからだ、真の科学者は、人間を、自分を見失うことはない、人生いかに生きるべきかを常に頭において研究対象に向っている、先生はそうも言っていた。
この、小林先生の言う「学問」のあるべきありようが、本居宣長の「石上私淑言」から具体的に読み取れるのである。特に、和歌の世界で恋の歌が多いのはどうしてかという問いを設け、「恋はよろずのあわれにすぐれて深く人の心にしみて、いみじく堪えがたきわざなるゆえなり。されば、すぐれてあわれなるすじは常に恋の歌に多かることなり」と答えているくだり、すなわち、今年のセンター試験に出たくだりなどはその典型なのである。誰もが知っていることをより深く、より精しく知るとはどういうことか、「石上私淑言」を読めばたちどころに合点できるのである。
私たちは、みな心というものを持っている。その心によってその場その場の舵取りをして生きている。もう何年もそうやってきている。だから、人間の心というものはわかっている、ましてや自分の心は自分がいちばんよく知っている、誰もがそう思っている。だが、そうか、ほんとうにそうか……。
恋をした経験は誰にもあるだろう、誰かに恋して、その恋心の切なさ、やるせなさに耐えきれず、自分で自分を見失わんばかりになったことがあるだろう。それほどまでに恋は心に深く染み入ってくる、そういう恋の切なさ、やるせなさをどうにかしようとして歌が生まれる、和歌の世界に恋の歌がぬきんでて多いのは、この、恋が一番身に染みるという誰にも等しい心のありようによるのである。「心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり」、その心の深さをさらに宣長はのぞきこむ。質問者に、重ねてこういう問いを出させる。
――人間が最も強く願うことは、恋の成就よりも立身出世であり、財をなすことである、こういう願いこそがどうにも抑えがたいものと思われるのに、どうしてこの方面のことは歌に詠まれないのか……。
宣長はただちに答えて言う。心の動きには情と欲とがある、人が心に思うことはみな情だが、そのなかで、こうありたい、ああありたいと何かを求める思いは欲というものである、欲も情のひとつであるが、欲はひとえに何かを求めるだけで身にしむような濃やかなものではない、歌は人をあわれと思ったり悲しいと思ったりつらいと思ったりする情から生まれるが、欲はそういう「もののあはれ」の方面に感じることがないため歌となっては出てこない……。
こうして宣長の学問は、ここで見てもらった「心」のように、誰もがよく知っていると思っていることをまず見つめ、そこをあらためて掘り下げて、誰もが驚き納得するような発見に行き着く、そしてそういう学問の積み重ねで、七〇〇年にもわたって誤読されていた「源氏物語」を読み改め、一〇〇〇年にもわたって誰にも読めなかった「古事記」を一代で読み解いたのだと小林先生は言うのである。
だが、もし宣長が、そうではなく、「学問」を現代の辞書に言われているような、すなわち現代の心理学のような、一定の原理に従って知識や方法を体系的に組織化することであるとか、高校の授業と大差のない、知識を得るために学ぶことである、またそうして得た知識のことであるとかと心得ていたとしたら、どうだったか、「源氏物語」も「古事記」も、私たちは未だに読んで楽しむことはできていなかったかも知れないのである。
センター試験の問題文の最後は、こう言われている。情と欲の違いを「答えて云わく」、の続きである。
――さはあれども、情の方は前にいえるように、心弱きを恥ずる後の世のならわしにつつみ忍ぶこと多きゆえに、かえりて欲より浅くも見ゆるなめり。されど、この歌のみは上つ代の心ばえを失わず。人の心のまことのさまをありのままに詠みて、めめしう心弱き方をもさらに恥ずることなければ、後の世に至りて優になまめかしく詠まむとするには、いよいよ物のあわれなる方をのみむねとして、かの欲のすじはひたすらにうとみはてて、詠まむものとも思いたらず。……
人の心というものは、男も女も等しく弱いものなのである、ところが、時代が下るにしたがって、情を恥じ隠し、欲を尊ぶ中国の思想に毒され、特に男は心の弱さを恥じて人に知られまいと内に包み隠すようになった、そのため、情は欲より浅いものと思われるようになった、だが歌は、人本来の情を恥じることなく、めめしく弱い心も詠み続けて欲の方面は詠もうとしなかった……というのだが、この、人の心というものは、男も女と変ることなく弱いものだということも宣長の創見であった。
このことは、「石上私淑言」でさらに精しく言っているが、ここには「石上私淑言」とほとんど同時に書かれた「源氏物語」論の「紫文要領(しぶんようりょう)」から引こう、「紫文要領」ではこう言っている。
――おおかた人のまことの情(こころ)という物は、女童(めのわらわ)のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きっとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうわべをつくろい、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかわる事なし、それをはじて、つつむとつつまぬとのたがいめばかり也。……
宣長は、人の心は男も女も、くだくだしく、めめしく、みだれあい、さだまりがたく、様々に翳を帯びたものであると、「源氏物語」を精読することによって知って感動し、これが宣長の終生変らぬ人間観になったと小林先生は言っている。
さて、ここまで読んできてもらえれば、私が前回、センター試験の問題文を現代仮名づかいにしてまで読んでいただいた気持ちはお察しいただけていると思う。「石上私淑言」の全文を読んでほしいのは、大学生諸君のみではない、すでに学校を出て、二十代から三十代、四十代から五十代、六十代、七十代、八十代、九十代と、人生の盛りにある読者にぜひ読んでほしいのである。私たちは誰もが人生いかに生きるべきかを悩む心をもって生まれている、ゆえに人生いかに生きるべきかの「学問」は、この世に生まれたそのときに始り、死を迎えるそのときまで続くものだからである。
小林先生は、最後の大仕事とされた「本居宣長」を、六十三歳の春から雑誌『新潮』に十一年六か月にわたって連載し、連載終了後、単行本にするにあたってさらに一年、雑誌連載の第一回に遡って全文を徹底推敲した。その推敲の眼目は、自分が読み取った宣長の思想を、現代の読者にもしっかり読み取ってほしい、そこにあった。そういう思いの加筆作業が続いていたある日のことだ、先生が言われた、
――宣長さんは、僕らの心をはじめとして、このうえないほど難しい問題に取り組んだ人だ、だがその文章は、驚くほど平明だ、これが文章の極意なのだ、僕も、すこしでも宣長さんに近づきたいと思って苦心している。……
そして、そういう宣長さんの文章は、「紫文要領」と「石上私淑言」、このふたつから読むのがいちばんいい、と言われた。あの日の先生のあの言葉が、私がいま、「石上私淑言」の通読をと読者に強く勧めるもう一つの理由である。
当時、私は「新潮日本古典集成」の編集にも携わり、『本居宣長集』の係を務めていた。その校訂と注釈にあたられていた日野龍夫氏も、同じ考えだった。こうして「紫文要領」も「石上私淑言」も、「新潮日本古典集成」の『本居宣長集』に入っている。
(第三十五回 了)
★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
小林秀雄をよりよく知る講座
小林秀雄の辞書
3/1(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室
小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなに違った意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。
3月 1日(木) 教養/文化
※18:30~20:30
参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話』を各自ご用意下さい。
4月からも、知る、感じる、常識、経験、学問、科学、謎、魂、独創、模倣、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、個人、集団、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。
小林秀雄と人生を読む夕べ【その7】
美を求める心:「蓄音機」
3/15(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko
平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ>の各6回シリーズが続き、今回、平成29年10月から始まった第7シリーズは<美を求める心>です。
*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻
第1回 10月19日 美を求める心(21) 発表年月:昭和32年2月 54歳
第2回 11月16日 鉄斎II(17) 同23年11月 46歳
第3回 12月21日 雪舟(18) 同25年3月 47歳
第4回 1月18日 表現について(18) 同25年4月 48歳
第5回 2月15日 ヴァイオリニスト(19) 同27年1月 49歳
第6回 3月15日 蓄音機(22) 同33年9月 56歳
☆いずれも各月第3木曜日、時間は18:50~20:30です。
第6回の3月15日は「蓄音機」を読みます。
近年、蓄音機のファンがどんどん増えています。この講座と同じla kaguで昨年から始まった三浦武さんの「蓄音機を聴く」も毎回満員札止めの盛況ですが、実は三浦さんの蓄音機熱も小林氏の「蓄音機」に発しています。
明治40年代、小林氏が小学生の頃、理科系の技術者であり発明家であった父親がアメリカから蓄音機を買ってきました。エジソンが発明したのと大差はなかっただろうという程度の蓄音機、それが氏をレコード少年にし、以来氏はダイヤモンド針、竹針、電蓄、ハイファイと、周りにあおられたりもしながら様々な音と音楽を経験してきました。
今日全盛のCDは、氏の生前はまだほとんど出回っていませんでした。氏の音楽経験は、同じ機械の音とは言ってもはるかに人間的な響きで聴かせてくれる蓄音機とレコードによってもたらされていました。氏の「蓄音機」を読んでレコードを聴けば、よりいっそう手作りの音と音楽の暖かさが感じられます。
◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第7シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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