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随筆 小林秀雄

 小林先生の「本居宣長」は、第一章に図版が入っている。今年は単行本の刊行から四十一年になるが、私は毎年、秋風が立ついまごろになると、あの図版の経緯を思い出す。
 昭和五十二年(一九七七)の九月であった。「本居宣長」の単行本制作作業が、十月三十日の発売を控えて大詰めを迎えていた。
 「本居宣長」は、雑誌『新潮』に、昭和四十年の六月号から連載されたが、五十一年十二月号をもってその連載を終了し、先生はただちに単行本化に向けて全面彫琢にかかられた。『新潮』の連載稿は四〇〇字詰原稿用紙で約一五〇〇枚に達していた、それを先生は約一〇〇〇枚に圧縮したのだが、その先生の彫琢作業も、私たち編集部の校正作業も、ようやく麓が見えていたころであった。
 鎌倉のお宅に、本の表紙や外函など、装幀関係の相談に伺った日のことである。ひととおり私の説明に応じられたあとに、先生が突然言われた。「中に、挿絵を入れたいのだがね…、間にあうかい」。
 本文が始ってすぐ、宣長の遺言書を読んだくだりに、宣長自身が遺言書に描いている墓所の図解を入れたいと言われるのである。一枚は、墓碑と墓碑の背後に植えてほしいと言っている山桜の絵、もう一枚はその桜のことを詳しく言って地取図も描いている箇所なんだが…、と聞いて社に戻り、筑摩書房の『本居宣長全集』からコピーをとって、翌日持参し見てもらった。
 ところが―、「ちがう。これではない」。最初の一枚、山桜の絵を見るなり、先生は鋭くそう言って席を立たれた。すぐまた一冊の本を手にして戻り、「これだよ」と示された。
 なるほど、ちがう。絵柄はそっくり同じだが、私が持参したコピーの桜は、筆の穂先で枝々に点々が打たれているだけで、一見いわば葉桜であった。ところが、先生が示された桜には、見事にひらいた五弁の花がしっかりついていた。
 先生がもってこられた本は、昭和十二年に出た『本居宣長全集』であった。私がコピーをとった筑摩書房版は、先生の「本居宣長」の連載開始とほぼ同時期の昭和四十三年に刊行が始まった最新版の宣長全集であった。
 急いで調べますと約してその日は辞し、松阪の本居宣長記念館に確認を乞うた。筑摩版の絵にまちがいはなかった。記念館に蔵されている宣長自筆の遺言書の桜は、筑摩版のとおりの「葉桜」だった。
 それを、先生に伝えた。しかし、絵の真贋を伝えるだけではすまなかった。先生自身の文章にも、「花ざかりの桜の木が描かれている」と書かれているのだ。もしこの「葉桜」を図版で入れるとなれば、文章にもなんらかの手入れが必要となるかも知れない。私はそれを言い添えた。
 先生は、「葉桜」のコピーに見入られた。じっと見入ったまま、人差指でしきりと前髪を巻き上げられた。考え事をするときの先生の癖である。長い時間が過ぎ、やっと顔をあげた先生は、「明日、もういちど来てくれたまえ」と言われた。
 翌日―、先生は、応接間に入ってくるやきのうのコピーを指差し、いきなり言われた。
 「これは、花ざかりの桜だよ。まちがいないね。この点々で、宣長さんは見頃の花を描いているんだ。あれから何度もこの絵をながめ、繰り返し繰り返し、宣長さんの気持ちを思ってみた。そしてはっきり合点がいった。まちがいないね、これは花ざかりの桜だよ…」
 帰路、東京へ向かう横須賀線の車中で、耳にしたばかりの先生の口調が、鉄斎や雪舟について書かれた文章のそこここと交響するのを覚えた。恐らく先生は、鉄斎や雪舟の絵を観たときと同じ気魄で宣長の桜に見入り、宣長の気持ちを読み続けたのだろう。
 それと同時に、先生が新居に植えられた桜が思い合わされた。先生は、前年一月、三十年にわたって住んだ山の上の家から平地に引っ越したが、その新居の庭に、自ら植木屋へ足を運んで選んできた桜の若木を植えた。この桜のことは、先に第十四回「桜との契り」で書いたが、その桜を新しい家の庭に植えた直後の午後、最初の花を待ちながら、若木に向けて目を細められた温顔がしきりに浮かんだ。

 それにしても、昭和十二年の全集で、なぜ桜は五弁の花をつけていたのだろう。あの全集は、宣長の子孫、本居清造が精魂こめた仕事である。その元になったのは、明治三十四年から刊行された『本居全集』で、校訂は、これもやはり宣長の学統と家系を継いだ国学者、本居豊頴(とよかい)である。桜は、この豊頴の『本居全集』で、すでに花をつけていたのである。ただし、私の調べがそこまで遡りえたのは、甚だ心残りではあるが先生が亡くなった後だった。
 早くに、誰か、宣長の気持ちを汲んだ者がいたのだろうか。その誰かが、「葉桜」を黙視していられずに、咲かせたのだろうか。そんなことを思いながらも、以後は他の仕事に追われ続けたこともあってそれ以上のことはわからずじまいになっていた。
 しかし、最近、本居宣長記念館の吉田悦之館長とお会いする機会がふえ、ある日、ふと思い出して尋ねてみた。館長はたちどころに答えられた。宣長の遺言書には写本があり、その写本の桜は五弁の花をつけていて、豊頴の『本居全集』は写本に拠っている、それというのも、宣長の遺品はすべて松阪からの持ち出しが禁じられており、東京に住んで大正天皇の皇太子時代に東宮侍講を務めるなどした豊頴は、松阪に厳重保管されていた遺言書の原本を用いることができなかったという事情も伴っているのだという。
 今日のような複写機はおろか、写真機でさえ日常的ではなかった時代の全集である。豊頴の苦労と苦心は想像してみるだけでも容易でないが、豊頴の手になったこの『本居全集』は、明治三十三年の宣長の百年忌を機に編まれ、そこには宣長だけでなく、長男春庭(はるにわ)、養子大平(おおひら)らの著作も含まれていて、以後の国学史研究の基礎を築いたと吉川弘文館の『国史大辞典』にある。
 本稿は、平成十四年四月、山梨県にある清春芸術村の雑誌『清春』の「小林秀雄生誕百年特別号」に書かせてもらった拙文に基づいている。これは、あれから十数年が経ち、『清春』の拙文を目にする機会のないまま内容を伝え聞いた読者から詳しく聞かせてほしいと言われることが少なくないのと、今回、本居豊頴の『本居全集』について、幸いにも吉田悦之館長のご教示に与れたということがあり、すでに『清春』で読んで下さっていた読者にもこのことをお伝えしたかったからである。
 なおこの連載は、おかげで満二年を迎えることができた。これまでは月に二回のペースで書いてきたが、十月からは月に一回とし、毎月十五日を更新日とすることになった。引き続きご鞭撻を賜りたく願い上げます。

(第四十八回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:
「トルストイ」

9/20(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まった第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

 9月20日の第6回は「トルストイ」です。小林氏は、トルストイに関してはまとまった作家論も作品論も残しませんでした。しかし、トルストイに対する敬意と評価はドストエフスキーに対するそれとまったく変りはなく、ドストエフスキーは矛盾のなかにじっと坐って円熟していった人だが、トルストイは合理的と信じる道を果てまで歩かなければ気のすまなかった人だ、その点、トルストイの方がむしろ偏執狂的であったと言い、「トルストイ」とは別に書いた「トルストイを読み給え」という文章では、今は本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え、文学において、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて、充分に驚くことだけが大事である、と言っています。

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。

小林秀雄の辞書
10/4(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

10月4日(木)解る/熟する
11月1日(木)後悔/告白
12月6日(木)歴史/ 伝統
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、無私、不安、反省、言葉、言霊、思想、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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