始まりは1本の電話だった。2012年2月、日本ユニセフ協会の東日本大震災の緊急支援本部のチーフコーディネーターを務めていた菊川穣のもとに電話が届いた。受話器の向こうにいるのは、ペーター・ハウバーというベルリン在住のドイツ人。それまで面識のない人物だった。
「ベルリン・フィルのホルン奏者、ファーガス・マックウィリアムさんから聞きました。日本にエル・システマが誕生し、相馬に子どものオーケストラが作られると。素晴らしいアイデアです。この秋にベルリンで行われるIPPNW(核戦争防止国際医師会議)のチャリティーコンサートは、相馬の子どもたちにすべての寄付金を贈ることに決めました」
菊川は唖然とした。身に覚えのない話ではない。しかし……
話は前年の秋にさかのぼる。2011年11月、福島の原発事故の影響で海外からの多くのアーティストが公演をキャンセルする中、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が来日を果たした。日本との縁の深いベルリン・フィルのメンバーは、東日本を襲った悲劇にとりわけ心を痛め、自分たちにできることはないかと早い段階から動き始めていた。震災18日後の3月29日には、ベルリンでサイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルとダニエル・バレンボイム指揮のシュターツカペレ・ベルリンが合同でコンサートを行い、日本ユニセフ協会を通して2000万円近い寄付金が被災地の子どもたちに届けられた。その関係で、ベルリン・フィルが来日した際、ベルリン・フィル木管五重奏団がユニセフ親善大使として仙台を訪れ、現地の小学校でコンサートを行ったのである。
ユニセフの復興支援の責任者として多忙を極めていた菊川は、その後東京に戻ってきたベルリン・フィルのメンバーにお礼を伝えると共に、ユニセフの日本での活動について彼らに説明する機会を持った。そのときの質疑応答で、五重奏団のホルン奏者だったマックウィリアムが菊川にエル・システマの話を始めた。彼は以前からベネズエラでエル・システマの活動に携わり、2008年には故郷のスコットランドでもエル・システマを設立した。福島の原発事故などで先行きが見えない中、5年後、10年後に子どもたちがどう育っていくのか、菊川自身、大きな不安を抱えていた。「今こそ被災地に音楽が必要なのではないか」と力説するマックウィリアムに心を打たれたのは確かだった。「まだ話足りないから」というマックウィリアムと、その晩菊川はベルリン・フィルの宿舎となっているホテルでもう一度会った。
ベネズエラで始まったエル・システマのことを菊川はもちろん知っていた。グスターボ・ドゥダメル指揮のシモン・ボリバル・ユースオーケストラが、アンコールでほとんど踊りながら演奏する様は衝撃的ですらあった。すべての子どもにチャンスを与えて、オケを通して子どもを育てる、社会を変えていくという深い理念には感動した記憶がある。だが、ベネズエラと日本とではあまりに社会状況が異なる。日本に移植できるとは現実的に思っていなかった。菊川のそんな気持ちを察したのか、マックウィリアムはこんなことを言った。
「エル・システマというのは世界中どこでもその国独自の形があっていいんです。私の故郷のスコットランドでもできたように、日本でもエル・システマのふさわしい形があるはず。それは子どもたちにとって必要なものではありませんか」
そして、コーヒーを飲みながら彼はこうも言った。 「あなたにはハートがあるから大丈夫ですよ」
その1~2週間後、菊川はユニセフの仕事で関わりのあった相馬市役所を訪れ、市の職員にエル・システマの話をした。日本の地方都市の市役所で南米生まれのエル・システマの話をして、ピンとくる職員が果たしてどれだけいるだろう。しかし、偶然にもエル・システマのことをよく知っている職員が農林水産課にいた。話を聞いてみると、相馬の小学校には昔から器楽部や弦楽合奏のクラブがあることがわかってきた。エル・システマを立ち上げるとしたら相馬がまずふさわしいという思いは菊川の中で漠然と芽生えていた。だが、資金をどうするのか、組織としてどう成り立たせるのかという問題は、まったく白紙の状態だった。そんな中での冒頭のハウバーからの電話、そして「コンサートの日程を押さえてしまった」という彼の言葉だったのである。
「ちょっと待ってください! エル・システマはいつか実現したいと思っていますが、まだ話をしている段階です」 電話の向こうで、ハウバーは明らかに困惑している様子だった。 「いや、もうできたと聞いたので、みんなに告知してしまった。それは困ります」 「困ると言われても、ないものはないので……。申し訳ありませんが」 そんなやり取りの後、ハウバーはこう言った。 「今は2月。コンサートは9月だから、まだ半年少しあります。その間に何とかしてくれませんか」
この電話を受けて、菊川は一大決心をする。日本ユニセフ協会を辞めて、エル・システマジャパンを立ち上げようと決めたのである。
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中村真人
フリーライター。1975年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2000年よりベルリン在住。著書に『ベルリンガイドブック 「素顔のベルリン」増補改訂版』『街歩きのドイツ語』がある。ブログ「ベルリン中央駅」http://berlinhbf.com
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 中村真人
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フリーライター。1975年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2000年よりベルリン在住。著書に『ベルリンガイドブック 「素顔のベルリン」増補改訂版』『街歩きのドイツ語』がある。ブログ「ベルリン中央駅」http://berlinhbf.com
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