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歴史むし探偵

2023年6月27日 歴史むし探偵

台湾で見つけた、標本ラベルの謎(前篇)

著者: 養老孟司

 養老孟司さんといえば、今では誰もが知る稀代の虫好きだ。中でもライフワークはゾウムシの分類で、日本はもとより世界中を飛びまわってこの小さな六本脚を採集して研究している。そんな養老さんが今回、台湾を訪れた。いつものように山へ直行して昆虫採集かと思いきや、向かったのは台湾の中部にある農業試験所と大学の昆虫標本室。台湾には戦前の日本人昆虫学者が集めた謎多き虫の標本が大量に保管されているのだという。ちょっとマニアックな謎解きの旅のリポート!

3月の下旬に台湾へ行った

「久しぶりにしがらみ無しで何も考えずに台湾でも行きませんか?」

 そう誘ってくれたのは虫仲間の新里達也さんだった。環境調査会社の社長を最近引退して夢の隠居生活を送り始めているらしい。カミキリムシの専門家だ。

 ここ数年、どこかへ虫採りに行くにもテレビや雑誌などの取材が付いて来ることが多い。普通、取材の人は虫オタクではないのは当たり前だし、撮影や取材に時間を合わせなければいけないことも多いから、こんな私でも何かと気を使ったりすることもある。その点、気心の知れた虫屋との旅は気楽である。ひたすら虫の話だけしていればよい。

 台湾ではレンタカーで移動しようということで、運転手役にやはり虫屋でヒマそうな伊藤弥寿彦を招集する。新里君と伊藤君とは以前にも度々台湾やコスタリカなどへ一緒に虫採りに行っているから勝手知ったる仲。もう一人、意外にも虫採りの素質がありそうな新潮社の足立さんも参加することになった。目的地は台湾の中部の町、台中(タイチユン)埔里(プーリー)。日程は5泊6日とあまり長くないが、さてどんな旅になりますやら。

台湾の昆虫相はすごい

 台湾の自然の多様性にはつくづく驚かされる。

 九州本島と同じくらいの大きさの島の中に3000メートルを超える山がなんと269座もある。そういえば、戦前の日本最高峰は富士山ではなく、標高3952メートルの新高山(にいたかやま)(現在の名は玉山(ユイシヤン))だった。昭和16年(1941)の日本軍が開戦時に打電した歴史的暗号電報が「ニイタカヤマノボレ 一二〇八(ヒトフタマルハチ)」だったのを最近の人はもう知らないかもしれませんな。とにかく、台湾には海岸の熱帯地域から高山の寒帯まであらゆる気候帯があり、その分生態系も多様だから虫の種類も極めて多い。以前にどこかに書いたが、日本の面積は台湾の約10倍、北海道から沖縄まで含めて生息する蝶の種類は230種ほどだ。一方の台湾は、10分の1の面積なのに400種を越える。カミキリムシの例でいうと、愛好者が多い日本ではほぼ調べ尽くされていて約770種、台湾では今も毎年のように新種が見つかっており、おそらく1000種を越えるだろうといわれる(2020年時点で868種)。私が調べているゾウムシは日本で約1300種、当然台湾ではそれ以上であろうが、今も調査不足というのは歴然で、正確な数字は全くわからない。台湾の昆虫相は豊かなのである。

 ついでに伝えると、日本の山並みに比べて台湾のそれは峻険だ。地形をそのまま表す地図があって、クシャクシャを引き伸ばしたら、すごく広くなる気がする。

虫を調べる面白さ

 虫を採る意味を説明する必要なんかない。人生の意味を説明する意味がないのと同じだ。楽しいんだから仕方がないではないか。まぁしいていえば「虫探し」は「宝探し」のようなもので、地形や季節、植生などをあれこれ考えながら、この時期にこの場所へ行けばこんな虫がいるだろうと予測を立てて、それが的中したときの喜びは虫屋なら誰しもが知っている。同時にフィールドでは時に予想だにしない未知の発見をすることもある。だから虫採りはやめられないんです。

 採った虫は、家に持ち帰って標本にする。昆虫はあまりにも種類が多いから一人で全てを網羅して調べるには限界がある。だからほとんどの虫屋はおのずと自分の好きな分野に特化していく。私の場合は甲虫だが、甲虫にもオサムシ、コガネムシ、クワガタムシ、テントウムシ、カミキリムシなどいろいろあって、その総数は日本だけで1万種を越えてしまう。寿命がいくらあっても調べきれない。結局、その中のゾウムシを集めているのだが、それでも日本に1000種以上いる。私は、見つけた甲虫はゾウムシ以外でも何でも採って、できるだけ全て標本にする。ゾウムシ以外の標本はその道の研究者や愛好家が抜いていく。代わりに私はその人たちからゾウムシをもらう。虫屋同士の付き合いには、ちゃんとギブ&テイクが成り立っているわけ。 

 標本づくりは第二の楽しみで、私が採る甲虫のほとんどは体の大きさは1センチから5ミリほどの小さなものだから、実体顕微鏡を覗きながら脚と触角を左右対称にそろえていく。顕微鏡の下では肉眼では全く見えなかった細部が見える。そこで種の持つ特性を発見したり、各部位の機能的役割に気づいたりすることもある。神は細部に宿っている。似た種類を細かく比較することで、同じ種類と思われていたものが、複数に分けられたり、2種類と思われていたものが実は同種であったりすることもある。こんな発見が又、虫いじりの醍醐味である。

 標本を作る上で一番大切なことはラベルを付け、データ化、つまり「情報」にすることだ。小さな紙に採集地・日付・採集者の名を書いたラベルをつける。一番重要なのは「採集場所」で、その蓄積がその土地のファウナ(動物相)やフローラ(植物相)を知ることにもなる。

重要なのは産地の書かれたラベル

 このような「情報」を積み重ねることで、分類が成り立つのだ。他人の標本でもラベルを見ればいろいろな想像や妄想が膨らんでくる。

台湾の昆虫研究史

 台湾の虫には子供のころから親しみがあった。当時の画期的な図鑑として名高い、平山修次郎氏による「原色千種昆蟲(こんちゆう)圖譜(ずふ)」(三省堂、昭和8年(1933)初版)「原色甲蟲(こうちゆう)圖譜(ずふ)」(昭和15年(1940年)初版)は愛読書で、そこには内地にはいない、台湾産の巨大なテナガコガネやフトオアゲハなどが堂々と図示されていた。

 台湾の昆虫研究がスタートしたのは、明治28年(1895)の下関条約の締結直後である。清国の全権大使・()鴻章(こうしよう)と日本全権大使・伊藤博文、陸奥宗光らとの間で交わされた日清戦争講和調印によって、日本は清から遼東(りようとう)半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の割譲などを勝ち取った。驚くべきは、もうその年には「臺灣(たいわん)總督府(そうとくふ)農事試験場」が台北に開設され、「昆蟲部」ができていることだ。

 以後、昭和20年(1945)までの50年間、日本本土からあまたの昆虫学者が渡台し研究を行った。豊かな昆虫相を持つ熱帯にも属する台湾は、研究者にとっては憧れの地だったのである。以前、台北の本屋で入手した朱耀沂著「台湾昆蟲學(こんちゆうがく)史話」(玉山社)には、前記の平山修次郎、素木得一(しらきとくいち)、松村松年(しようねん)、中條道夫、加藤正世(まさよ))、三輪勇四郎、鹿野(かの)忠雄など多くの日本人が紹介されていて、素木得一にいたっては、日本統治時代の「台湾昆虫界的霊魂人物」などと書かれていた。つまりは身も心も台湾の昆虫研究に捧げた「魂の人」ということか。

旅の初日は新幹線に乗る

 旅の日程は、新里君が全てアレンジしてくれた。彼は1970年代から台湾に入り浸りで右も左も知っている猛者だから、こちらは万事お任せである。今回の旅は少し趣向を変えて、虫採りをするだけでなく、いくつかの研究施設にある歴史的な標本を調べようという。滅多にない機会だから、もちろんこちらは全面的に賛成。事前に標本閲覧許可を取ってくれたのは、台中にある「行政院農業委員会農業試験所」と「国立中興(ちゆうこう)大学」である。新里君は数日前に台湾入りして別の用事を済ませ、台中のホテルでお待ちしています、とのこと。

 羽田発午前10時50分の飛行機に乗ってしまえば、現地時間13時30分(時差が1時間あるので日本時間14時30分)にはもう台北(タイペイ)松山(ソンシヤン)空港に着く。飛行機を降りると、一瞬むっとする熱気が体にまとわりつき「あぁ南へ来たな」という実感がわいて気分が高まっていく。

 松山空港からタクシーで高鐵(ガオティエ)台北駅へ向かう。

台中駅にて一休み

「高鐵」とは高速鉄道、つまりは新幹線のことで、ほとんど日本の新幹線そのものが北部の南港駅から南部の高雄(カオシユン)近くの左営(ズオイン)駅まで348.5キロを結んでいる。台北から台中まではわずか40分! 約160キロだから、東京から静岡といったところか。それにしても台湾の発展と変貌ぶりには目を見張るものがある。実は台湾には1960年代、医学部の助手だった20代の頃、割と頻繁に年に1度か2度くらい来ていた。台北ではYMCAが定宿で、そこから列車に乗って5時間ほどかけて南部の高雄へ行き、養鶏場の周りにたくさんいるジャコウネズミを捕っていたのだ。ジャコウネズミは、ネズミといってもネズミではなく、実はモグラの仲間。特殊な唾液腺をもっていて、それを調べていたのである。大学で仕事をしていた時は虫採りをする時間がなく、台湾で初めて虫採りをしたのは、大学を辞めてから13年も経つ2008年であった。

 台湾中部から東部には険しい山岳地帯が連なっているが、高速鉄道が走る台湾の西側は平野で、田んぼが広がっている。窓の外を眺めながら伊藤君が「なんか日本みたいですねぇ」などと言うから、私は「ご存じないと思いますが、『日本』だったんです」と答える。

 あっという間に台中に着いて駅でレンタカーを借り、待ち合わせ場所のホテルへ。車が右側通行だから、運転手の伊藤君はいつになく緊張している。足立さんが助手席に座って、スマホのグーグルマップで伊藤君をナビゲートする。大丈夫なのか? 万事お任せとはいえ、ちょっと心細くなってくるが、夕方5時過ぎになんとかホテルに到着。新里君とも合流できて、夜は4人で火鍋を食べに行く。

私が見たい標本とは

 翌日は朝9時に宿を出て、農業試験所へ向かう。なぜ、台中の農業試験所なのか?

実は、明治28年(1895)に開設した台北の「臺灣總督府農事試験場」は、第二次大戦後「行政院農業委員会農業試験所」と名を変え、昭和52年(1977)に台北から台中市郊外の霧峰(ウーフォン)という場所に移転していたのだった。

 さて、昭和20年(1945)の敗戦と共に日本人研究者は、膨大な標本を残したまま本土に引き上げた。その標本が集積された中心だったのが農事試験場(旧称)であり、つまり戦前に収集された貴重な昆虫標本が今も残されているはずなのだ。

 今回見たい標本は、大まかに分けて3種類ある。一つ目は「模式(もしき)標本(ひようほん)」。「タイプ標本」ともいう。新種の生きものを記載する時、その種の特徴を記し、種を特定する基準となる「タイプ標本」を指定する。種の命名には国際的に定められた細かいルールがあるが、詳しくは述べない。とにかく分類をしている者にとって、タイプ標本は極めて重要である。新里君は、今回カミキリのタイプ標本とそのデータラベルを全て写真に撮るという意気込みだ。

 見たいものの二つ目は、以前から私が調べているクチブトゾウムシの仲間。できれば持っていないものを探し出したい。そして三つ目が「素木(しらき)標本(ひようほん)」なる戦中戦後の台湾の昆虫研究に大混乱を巻き起こした謎の標本群である。それをこの目で見たい。素木は、台湾昆虫界の「霊魂人物」と前述したが、台湾の昆虫界に多大なる貢献をしたと同時に、理解不能といえる「ある工作」を行った。相当数の標本のデータラベルの付け替え、なんと「産地偽造」をしたというのである。

問題の地、農業試験所へ

 目的地の一つ、農業試験所では、応用動物組・昆虫分類研究室の李奇峰さんがにこやかに出迎えてくれた。

台湾郊外にある農業試験所

 李さんはまだ若い研究者だが、名古屋女子大学の教授だった昆虫学者の佐藤正孝さん(故人)のお弟子さんで、日本との縁も深いようだ。さっそく、建物の中へ誘われて3階まで上ると、壁一面が虫の写真で飾られていた。李さんが今はまっている(研究している)という台湾産ハムシの写真だ。同じ階に陳列室(展示室)があり、さらに廊下の一番奥に標本室があった。ちなみに陳列室の見学は予約制で、小中学校の課外学習などに使われているらしい。

陳列室を見学

 展示は、農業試験所の役割(第一には当然、農作物の害虫や天敵などの研究)、昆虫全般の大まかな各グループの説明の他、李さんの趣味なのだろう、珍奇な姿をした甲虫や、熱帯の虫、博物画などが飾られていて、なんとか虫に興味を持ってもらおうという気持ちがうかがえる。

 最後のコーナーにこの試験場で昆虫研究に従事した人たちを紹介するパネルがあった。台湾人研究者の他に4人の日本人、髙橋良一(1898-1963)・中條道夫(1908-2004)・三輪勇四郎(1903-1999)・素木得一(1882-1970)が紹介されている。

陳列室の人物紹介コーナー

 髙橋は、カイガラムシ、アブラムシの数万枚のプレパラート標本を残した人。中條は、ハナノミやマメゾウムシ、ハムシ等、三輪は、クワガタ、タマムシ、シデムシ等の甲虫の分類で活躍した人、とある。

 一方、素木の紹介は分類の話ではなく、米の大害虫だったイッテンオオメイガという蛾の駆除と、柑橘類栽培の大敵であるイセリアカイガラムシ駆除のために天敵となるベダリアテントウをオーストラリアから導入したという業績、さらに明治42年(1909)に農事試験場(旧称)に昆虫館を設立し、彼のリーダーシップで標本が集められたという功績が称えられていた。

 陳列室を一通り見て、いよいよ標本館に足を踏み入れる。二つの部屋に分かれており、手前の小ぶりの部屋が「模式標本室」で、2052種のタイプ標本が鍵のかかったキャビネットの中に厳重に保管されている。

模式標本室の奥の部屋へ

 結論を言うと、ここにゾウムシのタイプ標本は無かった。しかし実は、二頭が重なった状態で台紙に貼られた黒い甲虫があって、これが一見、ゾウムシに見えた。ラベルにT.Shirakiと書いてある。これが素木標本か? とりあえず伊藤君が写真を撮る。ラベルにはHyberis wallacei Pascoeという種名と素木の名が記されているだけで、産地が書かれていない。よくよく見たら、なんだゾウムシじゃないじゃないか。後で調べたらこのHyberis wallaceiは、タイやスラウェシ、ボルネオなどに分布するコブゴミムシダマシ科の虫だった。産地が書かれていないのは、標本として最低限の情報が無いということで、これは「産地偽造」はされていないけれど、困ったタイプ標本だ。

お目当てのゾウムシはどこに?

 奥の広い標本室に移動する。防虫剤の臭いが充満していて、長居をすると気分が悪くなってくる。標本を食べる虫もいるため、その防虫のためのナフタリンを標本箱に入れるのだが、箱の密閉度が低いのである。ここに保管された標本は1800万点あるそうで、とてもじゃないが全部見る時間は無い。

 そう言いながらも、仲間の協力を得て、ゾウムシは、30箱ほど確認できた。一箱ずつ運び出して、李さんが用意してくれた標本室のとなりにある応接室へ持って行く。昔、誰かが使っていた研究室なのだろう。重厚な本棚に昆虫関係の書物が並び、大きな仕事机に座り心地の良い椅子が備わっている。そこに偉そうにどっかりと座って標本をチェックさせてもらった。ルーペで丹念に標本を見ていくと甲虫屋なら誰しも一度は聞いたことのある有名な日本人昆虫学者の名が記されたラベルのついたものが多い。新里君はといえば、お目当てのカミキリの標本を抜き出して写真撮影を始めている。

標本チェックにいそしむ

問題の「素木標本」を発見

 何箱か見ていくうちに、緑に黄色いストライプのある20ミリほどの大型ゾウムシを見つけた。

Astycus flavovittatusとされる標本と付けられていたラベル。埔里社産と書かれているが、実はビルマ(ミャンマー)産?

Astycus flavovittatus Pasc.」という種名ラベルと「Horisha, Col.T.Shiraki」という二つのラベルが付いている。産地のHorishaとは「埔里社」のことであり、これは台湾中部の地名である。

 しかし一目見て断言できる。こんなゾウムシは台湾にいるはずがない。帰国後、これは実はビルマ(ミャンマー)で記録されている「Lepropus flavovittatus」であることが判明した。つまりラベルが正しくない。

 採集地がArisan(阿里山)のラベルが付いた地味なゾウムシもあった。これも怪しい。インドのゾウムシのように思える。

 私が好きなミツギリゾウムシの箱には「Kotosho」という産地が書かれた「素木標本」があった。

Diurus sphacelatusとされる標本と付けられていたラベル。紅頭嶼産とあるが、実はボルネオ産?

 「Kotosho」とは「紅頭嶼(こうとうしよ)」のことで、現在は「蘭嶼(ランユィ)」(日本語読みでは、らんしょ)と呼ばれる台湾南東部に浮かぶ島である。蘭嶼は、台湾本土とは昆虫相が大きく異なっていてフィリピン系の昆虫が多いが、これは明らかに違う。こんなミツギリゾウは蘭嶼にはいない。これも帰国後に調べたところ、インドシナとボルネオ、ジャワ島などに分布するCeocephalus antennatusという種であることがわかった。

 話には聞いていたが、確かにこれは滅茶苦茶である。ラベルは、素木の名が活字で印刷されていて、地名は肉筆で書かれている。虫屋のモラルとしてあり得ない採集地の偽装? 手間暇かけてこんなことをしていったい何の得があるのか? なぜこの様な出鱈目なデータラベルが付けられたのだろうか?

 (後篇に続く

(構成/写真:伊藤弥寿彦)

逆立ち日本論

2007/05/25発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

養老孟司

1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。著書に『唯脳論』『バカの壁』『手入れという思想』『遺言。』『ヒトの壁』など多数。池田清彦との共著に『ほんとうの環境問題』『正義で地球は救えない』など。

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