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#タナカヒロカズを探して

2023年7月19日 #タナカヒロカズを探して

7.近代国家は「氏名」からはじまった

著者: 田中宏和

江戸時代のネーミングに二大派閥があった

 これまでわたしたちの同姓同名運動の歴史を振り返ってきた。自分が「田中宏和」という名前で生きてきた原点を探ると、明治時代のはじまりに行き当たる。このタイミングで現在の「氏名」フォーマットで人名を示す制度が導入されたからである。そう、今に続く現在の戸籍だ。

 まず現代の日本人の「氏名」の二つの構成要素と規則を確認しておこう。「氏」は姓、苗字(名字)などとも言われる家の名、ファミリーネームである。もう一つの「名」は個人名、ファーストネームであり、この「上の名前」と「下の名前」を組み合わせてフルネームとなる。「氏名」のことを「姓名」と言うこともある。戸籍に登録された「氏名」が「本名」として原則一生ついてまわる。これが現代の日本人にとっては常識である。

 しかし江戸時代は、幼名、成人名(元服名)、当主名、隠居名の4種類の改名を人生の節目で行うのが当たり前だった。むしろ一生同じ名前を名乗る者はいない時代だ。例えば徳川家康は、松平広忠の子として生まれ、幼名は竹千代。元服し次郎三郎(もと)(のぶ)と名乗り、16歳で(もと)(やす)と改名、結婚。18歳で正室・築山殿の叔父にあたる今川義元の「元」の字を敵対関係になったため返上し、家康と改めた。その後、朝廷から(じゅ)()()()三河守に叙任され、松平から徳川に改姓している。

 成人名にある「次郎三郎」は、家康の先祖が松平家の次男・信光(次郎家)の三男・親忠(次郎三郎家)の末裔であることから代々受け継いでいるミドルネーム「()(みょう)」であり、「通称」である。特に武家においては、実の「名」を呼ぶことを遠慮し、この「通称」やのちに天皇から任命された「三河守」のような位や職種を示す「官名」で呼ばれることが多かったと言う。階級社会においての名前は、地位や権力を示す記号だったのだ。秀吉の場合、羽柴の「姓」の後は天皇から与えられた「官名」として平(たいら)に続き藤原の「姓」を得て、最終的には「豊臣」を名乗るのだが、「苗字」は羽柴のままであった。「苗字」は「苗字帯刀」が特権であった武家においてさえも軽んじられており、百姓や町人にいたってはなおさら。江戸時代の「人の名」は「通称」=「下の名前」だけで十分だったのであり、あくまで「苗字」は修飾的なものに過ぎなかったらしい。だから、弥次さん喜多さん熊さん八つぁんの江戸時代には田中宏和運動は起こりえなかったと言える。たとえ「宏和」が同じでも、「鍛冶屋の宏和」「雷門の宏和」などと呼び分け、「田中」が一緒と気づくことは無かったはずだ。

 そのような江戸時代であっても天皇を戴く京都の朝廷社会において、武家が「苗字」と呼んでいるものを「称号」と呼び習わし重要視した。近衛、九条、二条のような名は、やんごとなき位の高さを示す記号として逆に重宝されたのである。

 一方、古代豪族の蘇我氏や物部氏が名乗っていたのは「(うじ)」である。「氏」は、中臣氏は祭祀関係の職掌、出雲氏は当時の地名からというように、職掌か国名と結びついていた。大和朝廷は、天皇の下に集まった氏族連合政権であったのだ。「(せい)」は、(みなもと)(たいら)のように天皇家から分家した一族に与えて臣下とし、各氏族と同列に置くための記号だった。実のところ中世以前の人名となると、藤原道長、源義経のように「姓+名」であった。藤原姓でも自らの邸宅の場所を取り「()(ごう)」を名乗り、同姓の中での差別化を図った。京の三条に屋敷がある藤原姓の貴族は「三条」と号する「苗字(名字)」をつけたのだ。武士においては支配する地名を「苗字(名字)」とした。

 つまり貴族、武家いずれの場合も、「姓」は天皇から与えられた公的なもの、「苗字(名字)」は自ら名乗った私的なものである。

 名前を与えた天皇家自らは「氏」も「姓」も「苗字(名字)」も現在に至るまで無い。一方、徳川家康の一時期のフルネームは、「苗字(名字)」+「仮名」+「氏姓」+「実名」の順で、「(とく)(がわ)()(ろう)(さぶ)(ろう)(みなもとの)()(そん)(いえ)(やす)」だった。この時代、とてもじゃないがフルネームが同じでは何人も集まれない。

 ともあれ江戸時代は、「下の名前」だけで暮らす社会と「上と下の名前」で暮らす社会の二つの常識があった。その江戸期の体制が大政奉還によって終焉となり、近代国家を始動する明治政府にとっては国民の人名フォーマットの統合が必要になった。新たな行政組織と職位への再編とともに中央、府県職員の名簿作成にあっては、江戸時代の「官名」は通用しなくなる。むしろこの移行期にあって「吉原大参事」のような「苗字」+「官名」の同姓同官名が多発する問題が生じたと言う。いつの時代も同じ人名は管理の難敵なのだ。

 「同姓同官」が二人出た時は、二人目の「官名」に「新」をつけて区別、「同姓同官」が三名以上いる場合、一・二・三・四・甲・乙・丙・丁などの字をつけて区別して乗り切ろうとしたそうなのだとか。結局、そもそも「苗字」+「官名」の名簿管理に無理があると判断された。そこで、人名管理においても武家社会から朝廷社会へ、古代からの「姓+名」を人名利用する王政復古の論理が優先され、現在に連なる「氏名」に統一されたのである。以前、わたしの同姓同名収集活動を「貴族の遊び」と揶揄した友人がいたが、それは歴史的には正しかったのである。

「田中」を選んだご先祖様ありがとう

 1870年(明治3年)には政府は突如「()(こん)(へい)(みん)(みょう)()被差許(さしゆるされ)(そうろう)(こと)」という、わずか十一文字の布告文を発した。俗に「平民苗字許可令」、ないしは「苗字自由令」と称される。この突然の布告に真っ先に政府に問い合わせたのは、朝廷社会を抱える京都府だったそうだ。このお触れは「本来名乗るべきものではないが、申請があれば別段に審議してから許可する」という意味なのかと。これに対して政府は「従前禁じられていたから、このたび許したのだ」と回答。これを受け、京都府は「平民は等しく苗字を名乗れ」と追加の説明を公にした。

 ちょうどその頃の我が家の先祖を辿ってみる。江戸時代末期、石川県江沼郡河南村字別所で庄屋を営んでいた向家の三男庄吉は、京都の木屋町三条上ル(二条下ル)で「八百藤」の名で八百屋、駕籠屋としては商号「鱒藤」の名で手広く商いをしていた藤助の家に「藤兵衛」と改名して婿養子に入っていた。同じく養女として滋賀県の坂本から来たぎんと結婚する持ち寄り養子で、明治時代を迎え、「田中」の苗字を名乗っている。まさにここまで見てきた人名の歴史的変遷の流れに沿っていたことがわかる。せっかくの「苗字を名乗れ」に便乗し、住所からのネーミングで「二条藤兵衛」とでも名乗っておけば、わたしは平安貴族の末裔風として今日いかがわしく存在していたと思うが、それでは同姓同名運動の楽しみを味わうことはできなかった。以前の苗字にもこだわることなく、「まぁ田中にしといたらええんちゃうか」の英断をしてくれた藤兵衛さんには感謝である。

 ちなみに田中藤兵衛は、その後「鱒藤」の屋号で人力車帳場をはじめ、1890年(明治23年)に自宅至近に開業した京都初の本格的なホテルである常盤ホテル(現「京都ホテルグループ」のホテルオークラ京都)の宿泊客を乗せていたそうだ。翌年に宿泊したロシアのニコライ皇太子ご一行をお乗せしての琵琶湖観光からの帰りに起きた大津事件で、藤兵衛の店の二人の車夫が皇太子の身を守って叙勲を受けた。この一件で幅広い信頼を得た藤兵衛の三男の辰之助は、某財閥からの資金援助でアメリカから輸入された自動車を横浜で購入、商号「マスト自動車」として京都で初めてのハイヤー業に転身する。当時のアメリカの自動車、パッカードやT型フォードが車庫に並び、それを継いだ我が祖父勇太郎は戦前の昭和天皇陛下上洛時の宮内省御用達のドライバーにまで相成った。この駕籠、人力車、自動車の人類の移動手段のハイテク化には目ざとく便乗、家業にしてきた末裔にあって、わたしは自家用飛行機やヘリコプターはおろか、スペースシャトルやロケットも今のところ保有していないのは不甲斐なく、ご先祖に申し訳なく思えてくる。

人力車帳場の「鱒藤」
曾祖父・辰之助が起業した「マスト自動車」

管理社会を痙攣させる同姓同名

 さて、先祖が「田中」になった明治初期、1871年(明治4年)には戸籍法が制定され、個人を「氏名」で一元管理しはじめるようになった。徴税、徴兵制の基盤にするためだ。1875年(明治8)年には苗字を名乗ることを義務化する「(へい)(みん)(みょう)()(ひっ)(しょう)()()(れい)」が出される。そして、この同じ時期に復命禁止令に続き改名禁止令も布告された。苗字・名・屋号の改称を全面的に禁止したのだ。しかし、その但書には、同姓同名によりやむをえない支障がある者に限り、唯一改称が認められる可能性に触れている。

 近代国家とは個人一人一人をデータ化し、管理することからはじまる。「氏名」に基づく管理の隙間をつくような同姓同名問題は、国家が統治する管理社会を痙攣させるようで、もはや痛快だ。

 事実、田中宏和の会でも意図せざる混乱を呼び寄せた。2007年、社会保険庁から「基礎年金番号の照合」の手紙がわたしに届いた。当時話題となった「消えた年金」問題を受けてである。氏名、生年月日、性別の3条件でのデータを統一する「名寄せ」で、わたしと同じ人物がいるというのだ。その後、社保庁に委託された業者から自宅に電話がかかってきて確認を受けた。

 「わたしと名前と生年月日が同じ人がいるとは知っているのですが、わたし含め二人ですか?」

 「こちらで確認すると、もう一人いらっしゃいます」

 「あ、そうなんですね」

 何を付け加えることもなく、真っ白な頭で受話器を置いた。

 つまり、わたしは、国家管理のデータ上で3人の存在。同じ生年月日の同姓同名の存在でシステムバグを露呈させてしまう。愉快だが自分の年金は心配だ。

 現在「マイナ保険証」ことマイナンバーカード保険証の発行でも同様の問題が取り沙汰されている。その誤登録の原因の一つとなっているのが、同姓同名の別人の存在のようなのだ。やはり国家にとって同姓同名は人民管理の難敵なのである。

 個人のデータ管理を人名で行うこと自体の困難は、きっと張偉さんが30万人いると言われている同姓同名大国の中国ではもっと大変なはずだ。WBCの中国チームに陳晨(チェン・チェン)選手が二人いて、年上「陳晨(大)」、年下「陳晨(小)」と表記分けしていたのは記憶に新しい。日常生活で同姓同名のレストラン予約での重複による混乱など社会的コストが大きくなり、中国政府は下の名を2文字の名づけにするよう奨励したため最近では同姓同名が減ってきているとは聞く。しかし、管理社会のさらに上を行く「監視社会」とも言われる中国では、個人のデータ管理は名前でなく、マイナンバーでもなく、生体情報によるものに変わってきているのではないか。

 実は2019年に田中宏和の会はNECの「Bio-IDiom(バイオイディオム)」という生体認証ブランドのラジオCMのオファーをいただいた。顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、⽿⾳響の6つの認証技術を組み合わせて個⼈を特定するもので、渋谷の田中宏和さん、WEBの田中宏和さん、豪商の田中宏和さんとわたしの4人で出演し、わたしは誰かを声で当ててもらうという演出企画だった。2023年の今では、家の近所の東京都渋谷区のYahoo!マートで顔認証決済もはじまった。生体情報による国民の管理も現実的な時代になっている。

 意外と国家が人名で個人を管理する時代は200年も続かないのかもしれない。

同姓同名家族の現在形

 さて、現行の1947年(昭和22年)の戸籍法によると、「出生の届出は、十四日以内(国外で出生があつたときは、三箇月以内)に」せねばならず、「第五十条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」とある。現時点では法律による人名の規定は以上のみなのである。実は、親が子にまったく同じ名前をつけることを制約することは法律で明文化されていない。しかし、娘に母親と同じ「表記」(読みは異なる)の名前をつけようとして、「同じ戸籍に同じ名が存在することの不便から」拒否された判例は存在する。

 1963年(昭和38年)に名古屋高裁では、父親がその妻「(のぶ)()」との間に生まれた長女の出生届に「(しん)()」と命名した場合に「同じ戸籍に同じ名が存在することの不便から」この出生届を違法としている。妻が好きなあまり娘にも同じ名前「伸子」を名づけたかったのか、妻が自分と同じ名前の子を育てたかったのか。しかし、役所の窓口でごねられ、読みは「しんこ」ですと言い張って裁判に臨んだのではないか。これは現行の戸籍法で氏名の読みを登録できないことから生じる問題である。

 ともあれ、あくまで名前の漢字表記が問題とされ、父「()(ろう)」と子「()(ろう)」は法律的には問題無いと解釈されている。法務省・法務局内の山口地方法務局のホームページでは、「(よし)(かず)」と「(よし)(かず)」は問題無く、「(よし)(かず)」と「()(いち)」はだめ、とある。

 ちなみに夫が「薫」、妻が「薫」の同姓同名の結婚は問題がないようだ。それを法律違反とすると、名前による婚姻の自由の人権侵害となりかねない。しかし、いざ当事者となると結婚をためらう「保」「優」「翼」「光」同士などのカップルは想像がつく。とりあえず家に届く封書は原則全公開で、保有するクレジットカードの会社は別にし請求明細は各人管理、お互いに何と呼び合うのかの逡巡は、落語のごとく「おい」「お前さん」で解決か。

 同じ家系に同姓同名は、近代国家以前から続く伝統芸能や老舗の世界では現実にある。子が父の芸名や当主名を継ぐのである。わたしの父の宏直はブラウン管のテレビにその姿を確認するたびに目を細め、「おばあちゃんは、子役で出てきた勘九郎が好きやったなぁ」と自らの母みねを述懐したものだ。当の五代目勘九郎は、歌舞伎発祥期からの道化役「猿若」を得意とし、猿若座を立ち上げ、のちに中村座と名前を変えた初代の伝統を受け継ぎ、平成中村座を立ち上げた。その後、中村屋の名跡十八代目勘三郎を襲名するも57歳で惜しまれながら鬼籍に入ってしまった。しかし長男が六代目勘九郎として、今その名を生きている。名とともに芸を継承し、その芸を愛でる人々の家族の歴史とも共にあるからこそ、伝統は続くのだろう。わたしの子供や孫には、六代目古今亭志ん生に爆笑する日が訪れることを願う。

 我がご先祖の田中藤兵衛の次女ますが嫁いだ本家尾張屋の稲岡家は、応仁の乱の2年前、1465年に菓子屋として創業した家柄であった。江戸時代中期に蕎麦屋もはじめ、以後代々伝左衛門を当主とする名前は十五代まで続き、現十六代目は初の女性当主として本名の稲岡亜里子で務めていらっしゃる。ジェンダーレスの現在にあっても、名前の持つ男性らしさと女性らしさのイメージは固定的だ。こと名前においてはジェンダーフリーとは言い難い。「名は体を表す」が故に襲名を重んじる世界であっても、名の重圧から自由であって良いのではないか。

 

<参考文献>

伊東ひとみ『キラキラネームの大研究』(新潮社、2015年)

奥富敬之『名字の歴史学』(角川書店、2004年)

尾脇秀和『氏名の誕生―江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(筑摩書房、2021年)

紀田順一郎『名前の日本史』(文藝春秋、2002年)

森岡浩『名字でわかる あなたのルーツ』(小学館、2017年)

 

次回に続く

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
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