シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

#タナカヒロカズを探して

2023年8月2日 #タナカヒロカズを探して

8.ビタミン型からスポットライト型へ――日本における赤ちゃん命名の変遷

著者: 田中宏和

 前回は同姓同名が生まれる前夜、国民を管理する戸籍制度から「氏名」の人名表記システムを確立させた明治時代を振り返った。なぜか気になる他人の名前、現在に至るまでの、名前の流行り廃りを見てみよう。

名前が故に結婚できないという悩み

 アメリカのメジャーリーグやジャズ・ミュージシャンの名前でよく眼にする「Jr.(ジュニア)」の表記。日本では子供に親と同じ名(名前表記)を付けることは「名の特定の困難な命名」とされ、戸籍法に違反する。この法律に基づく判決が出た前年の1962年(昭和37年)に発表された井上靖『加芽子の結婚』は、名前と結婚をめぐる悲喜劇だ。加芽子は27歳の女性で、前途有望な好青年との見合い結婚を間近に控え思い悩むことがあった。戸籍名が「かめ」だったからである。小学校時代から幾度もからかわれ嘲笑されてきた本名。しかし、姓名判断的に最善で、明治以前の大名の娘などにこの名前が一番多く付けられてもいるのだから縁起が良いと家長の祖父が主張し、命名してくれた大切な名前でもあった。数年前に結婚を誓い合った最初の青年は、「加芽子」と書くようにアドバイスをくれ、自分の幸せを信じたが、そのフィアンセは間も無く腹膜炎で急逝してしまう。現在の婚約者との挙式が近づくにつれ高まる不安に、「本当の名前はひら仮名で“かめ”ですのよ」と打ち明ける。意外にも相手は、そんなことはどちらでも良い、2代前の祖母が同名で、一族中興の英主として尊敬されていたという話とともに「あなたの名前に家運挽回の望みを賭けているんですから」と思いがけない事実を知る。「かめ」は熱い気持ちとともに「加芽子というのは今日限りやめますわ」と宣言し、「晴々とした気持でいつか瞼を濡らしている涙」とともに小説は大団円を迎える。

 この小説が世に出たすぐ後のこと。新聞の身の上相談欄に「カメ子という名前のために何度も破談となり、働く意欲もなくなった。改名したいが、このような理由で改名が認められるだろうか」という投書が掲載されたという。その回答は「変えることはむずかしいが、日常生活で『香女子』『香芽子』などとなさってはいかがでしょうか」という内容だったそうだ。回答者が井上靖の短編小説を参考にしたのかどうかは不明だ。

 近代の制度としての婚姻の自由が制約されてしまうほど、家父長制の強かった頃の日本では、名前には人生を左右するほどの強い束縛力があったのだということがわかる。

 ところで、女性の名前は江戸時代に2文字スタイルに固まったようである。わたしの先祖を遡ると江戸時代末期の田中ぎんさんにはじまり、きくさん、明治40年(1907年)生まれのみねさんまで確かに女性の名前は、2文字が並ぶ。

 大正時代に人気の高かった「ハル」「ハナ」以降も、実際、昭和30年代までは「ツル」「カメ」「トラ」「クマ」など動物に由来する2文字の名を持つ女性は全国に多かったらしい。江戸時代のネーミングスタイルが、明治へと大きく時代は変わっても百年くらいは続いていたということだ。

結婚当時の祖母みね

現在の同姓同名ランキングの1位は?

 日本における人気の名前の変遷といえば、明治生命保険相互会社のランキングで追うことができる。1912年(大正元年)から保険の加入者ベースで新生児の男女の名前表記の人気順位を公表しており、合併後の明治安田生命になった現在まで続けているデータが非常に参考になる。

 戦前から戦中にかけての男の名前は、戦争を連想させる、勇猛な意味を持つ漢字が人気であった。1926年(昭和元年)には、2位「勇」、9位「進」くらいだったのが、1933年(昭和8年)には「武」が9位のベストテン入り。1937年(昭和12年)には盧溝橋事件で日中戦争に突入すると、6位に「勝」が入り、翌年には1位に躍り出ている。この年には6位に「勲」もランクインで、ベストテンの半分が戦争系の名前を占めるまでになっている。

 翌1939年(昭和14年)から太平洋戦争開戦の1941年(昭和16年)までは「勇」の3年連続トップが続き、1942年(昭和17年)から終戦の1945年(昭和20年)まで1位「勝」が続き、大日本帝国海軍が大敗を喫したミッドウェー海戦の翌年1943年(昭和18年)には10位に「勝利」が登場。その次の年には3位に大躍進、トップ5は、順に「勝」「勇」「勝利」「進」「勲」と大日本帝国国民が兵隊になる男子に向けた突撃アドレナリンの大放出状態となっている。

 この傾向について、命名研究家の牧野恭仁雄は、「戦争に勝てるという自信がともなっていたころよりも、しだいに勝利の見通しが立たなくなり、自信を失ってくるほど勝利にまつわる名前が増える」と状況分析し、「つまり、名前は世相そのものをあらわすのではなく、日本人の欠乏感をあらわしている」と結論づけている。つまり、「ネーミングとはビタミン」説を唱えているわけだ。同じく昭和時代の男の子の名前を見てみると、昭和元年から30年代まで、日本全体が食糧不足の時代だったことを反映し、「茂」「実」「稔」「豊」など、収穫をあらわすような一字名前が男児にさかんにつけられたのだと指摘している。

 現在の同姓同名ランキングの1位は、「田中実」さんで、約5,300人いると言われている。「実」は昭和元年の4位から昭和25年の4位まで太平洋戦争期間とその直前直後を除いて、コンスタントにベストテン入りしている。確かに「田んぼの中で実る」のだから、食いっぱぐれしなそうだ。かたや「田中宏和」は上位200位にも入っていない。先の欠乏感を補う「ネーミングとはビタミン」に従うなら、もっと平和が渇望される時代にならなければ「宏和」の急上昇は無さそうだ。

昭和から令和までの女性の名前の移り変わり

 一方、昭和の女性の名前はどうだろうか。

 まず大きな潮流として明治30年代から大正、昭和にかけて「子」のつく名前へとシフトした。本来、古代の中国では、「孔子」「老子」「荘子」などと男性を尊称する字であった「子」は、古代の日本でも立派な男性を表す名であった。「蘇我馬子」しかり、「小野妹子」しかり。その後、貴族の間で「子」に「子供」「かわいい子」の意味が付加され、女性を表すようになったという。時代は下って上級武士の世界でも「北条政子」「日野富子」などがそれにあたる。

 江戸時代では公家は「子」、大名、上級武士は「姫」をつけ、その他は先述の動物名や「きく」「うめ」の植物名をひらがな2音で表すことが定着した。そして迎えた明治維新、一人一氏名制度が国民に課せられ、まずは皇族の女性に「子」のつく名前がつけられた。続いて明治10年代になると「文明開化」や「女権伸長」といった掛け声とともに、社会的な場に登場する機会と能力を持った女性たちが、好んで「子」のつく名前を名乗るようになったという。

 代表例は、1878年(明治11年)に本名「鳳志やう(ほう・しょう)」として生まれ、与謝野鉄幹と結婚し、ペンネームには名の「しょう」に「晶」の漢字を振り、「子」を付け加えた「与謝野晶子」である。

 この世代が子供を産む明治30年代後半から、新生女児には「子」をつけるケースが急増。明治生命が統計を発表しはじめた1912年(大正元年)には、4位「正子」、9位「静子」のみであったが、1921年(大正10年)にはベストテンを「子」が独占する。1位から「文子」「千代子」「清子」「久子」「芳子」「静子」「幸子」「美代子」「敏子」「愛子」となっている。前年に唯一「子」のつかないトップテンは、9位の「キヨ」だった。この上位10位を「子」が独占する状態は1956年まで続いた。つまり、江戸時代からの歴史ある2文字名前に「子」をまさに拡張子のようにつけさえすれば、皇族風に、しかも今っぽくなるという魔法が「子」ブームの原因だったのだろう。ちなみに1957年に36年間に及びトップテンを占めていた「子」の君臨を打ち破ったのは9位にランクインした「明美」だった。

 さて、この「子」が席巻した女子の名前を「ネーミングとはビタミン」史観で見るとどうなるか。先の牧野は、「子」がベストテンを独占した1921年(大正10年)、7位にランクインした「幸子」が1969年(昭和44年)の10位まで、およそ半世紀トップテンの座にあったことに注目する。この時代は「女性にとっての苦難の時代」であり、「人生、進路、結婚相手などほとんど自分で決められず、今の何倍もの重労働であった家事や農作業を黙々と一生続けなければなりませんでした」と、女性にとって幸福が感じられない欠乏がゆえの名付けと分析しているのだ。

 この昭和女性の物悲しさは終わってはいない。2023年に世界経済フォーラム(WEF)が発表した国別の男女格差を数値化した「ジェンダーギャップ指数」で、日本は世界 146か国中126 位、主要先進7か国(G7)では最下位で、ランキングは低下傾向から抜け出せていない。もし「子」のつく名前が前時代の象徴なのだとしたら、名前の人気変化とともに生じるであろうジェンダーギャップの改善、反転を期待したい。

 事実、昭和の「子」の名前ブームは、昭和50年前後から徐々に失速している。1958年(昭和33年)に「久美子」、1960年(昭和35年)に「由美子」がそれぞれベスト3にランクイン、その間の1959年(昭和34年)には時の皇太子と「美智子」さまのご成婚があり、「美」を入れた名前が急増した。さらに1978年(昭和53年)に初のベストテン入りした「愛」、「愛」のつく名前にも押され、1986年(昭和61年)には「子」離れは完全に定着し、「子」の止め字を使った名前がベストテンから消えてしまう。この時代に「美」や「愛」が足りなかったのかはわからないが、「子」も「美」も、次の平成の世に生まれた「愛」を使って「心愛」(ここあ)、「愛夜姫」(あげは)と名づけるキラキラネームのビッグウェーブ到来に消えてしまったのだ。

キラキラネームの流行と終焉

 時代を席巻したキラキラネームとは、1990年代半ばから増加し、2010年(平成23年)前後に全盛期を迎えた珍奇な難読名のことである。2002年(平成15年)にタレント的場浩司が長女を「宝冠(ティアラ)」と名付けたというニュースにのけぞった人も多いだろう。その後もお笑い芸人、元オセロ松嶋尚美が2013年(平成25年)に出産した長女を「空詩(らら)」と名づけ、同年、モデルの神田笑花(えみか)が第二子次男を「或叶(あると)」と命名している。例を挙げればきりがないが、「富良日(ぷらす)」「八月(おうが)」「清楓(そよか)」「乃樹(ないき)」「苺苺苺(まりなる)」などなどキラキラにクラクラだ。

 2022年11月にリモート初対面した、久留米市の私立高校で教鞭を執られている「数学の田中宏和さん」は、担任のクラスの名簿を「初見でほとんど読めないです」と苦笑嘆息されていた。評論家の呉智英がキラキラネームを「暴走万葉仮名」と呼んでいるが、著書『キラキラネームの大研究』の中で伊東ひとみは、中国から漢字を輸入した日本にとって無理読みは伝統だったと述べている。

 伊東によるとその伝統は脈々と続いており、鎌倉時代末期の吉田兼好は『徒然草』で「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」と批判、江戸時代には本居宣長が『玉勝間』で「近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し」と嘆いているという。その原因に漢字の碩学、白川静の著書を引いて「古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった」「ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった」と、本来のやまとことばの音の響きのまま、文字として表現することで効果を持続させようと、表意文字である漢字の意味を読むがために、音と意味が「せめぎ合い、しばしば大きくズレてしまう」と指摘している。

 戦後、1947年(昭和22年)に公布(翌年施行)された戸籍法によって、「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」と定められ、その文字が「(1)当用漢字表に掲げる漢字」の1850字と「(2)片仮名又は平仮名(変体仮名を除く)」と指定された。この当用漢字の導入は、国民の読み書き能力を向上させるための、漢字の制限、ひいては漢字の廃止まで視野にいれた政策であった。まさに当面用いる「当用漢字」だった訳だ。

 しかし、それまで人名に使えていた「稔」「弘」「之」「也」などはこの中に含まれず、不満噴出、批判の声が渦巻いたという。その世評のあまりの悪さに施行から3年経ち、内閣は追加で「人名用漢字別表」92字を追加する。この中にはわたしの「宏」も含まれているのだから、当時の世論の声を上げてくれた人たちありがとう、である。

 その後、高度成長とともに教育水準や文化水準も向上し、政府の国語審議会の漢字制限・廃止派は弱まり、漢字尊重派が発言力を増していったという。1981年(昭和56年)に内閣は「常に用いる漢字」として「常用漢字表」を告示した。伊東は「当用漢字第一世代(戦前・戦中派)」の孫となる「当用漢字第三世代」=団塊ジュニアにとって、「カジュアルで平易な漢字」=「感字」を使って読みに制限の無い個性的な名づけを行った結果が、キラキラネームの増加につながったと見る。

 では、名前はなぜ個性をキラキラと示す記号となったのか。人類学者の中沢新一は「キラキラネームの孤独」(『今日のミトロジー』所収)というエッセイの中で、かつて人間の子供は共同体に属するものとして「一団の在庫の中から取り出された名前をつけるのがふつうだった」のに「最近の日本人は、自分の子供が共同体に属しているよりさきに、核家族の所有物として、独立した個人のように生まれてくる、と考える傾向」があり、「無意識のうちに、親たちは自分の子供に競走馬のような名前をつけ始めるのである。」と指摘。「キラキラネームを与えられた子供は、生まれたときから共同体的規範をはみ出した、唯一無二(オンリーワン)の存在たれ、と期待されている」という論を展開している。つまり、名づけとは、子供を周りの子供よりもキラキラと照らし出させるためのスポットライトの役割なのだろう。

 もはや「ネーミングとはビタミン」から「ネーミングとはスポットライト」へと名づけの価値観が移り変わったということか。

 しかし、今年の6月、ついにキラキラネームを規制する改正戸籍法が成立した。これまで記載が無かった、氏名の「読み仮名」が必須となったのだ(2024年度施行予定)。法務省の“認められない例”が奮っている。「高(ヒクシ)」は字と意味が逆である。「太郎(ジロウ)」は、読み違いかどうか判然としない。「太郎(マイケル)」は、字から連想できない。「佐藤(スズキ)」は、別人と間違えうる等。これらの例を厳粛な面持ちで長時間討議したであろう学者はじめ法曹界、官僚諸氏など関係者の努力には頭が下がる。この法律により、今さらながら「田中宏和」と書いて「タナカ・ワールドピース」と読むと言い張る、そんな我が名のキラキラネーム化の野望は無くなったわけだが、同姓同名業界にとっては朗報だ。何しろ名前のキラキラが過ぎると、同姓同名が生まれにくい。むしろこの数年は「キラキラネーム」のカウンター勢力として、「シワシワネーム」が注目されている。該当する芸能人を挙げるなら、広瀬すず、神木隆之介あたりか。この動きも「ネーミングは個性を表現」のネタ元として、昭和大正のみならず明治以前の過去の名前から再発見しようということなのだろう。

苦しいなら改名のススメ

 今、気になっているのは、キラキラネーム全盛期に生まれた人のその後だ。思い悩み続けるくらいなら、改名を薦めたい。実費は書類に貼る収入印紙800円のみだ。戸籍と違う名前に変えるためには、家庭裁判所に「名の変更許可申立書」を提出し、審査により改名が許可されたら、審判書の謄本を添付して市区町村の役所・役場へ改名の届けを出せばよい。この提出書類には「申し立ての理由」として8つの選択肢が設けられている。

1 奇妙な名である。 2 むずかしくて正確に読まれない。 3 同姓同名者がいて不便である。 4 異性とまぎらわしい。 5 外国人とまぎらわしい。 6 平成・令和 年 月神官・僧侶となった(やめた)。 7 通称として永年使用した。 8 その他

 これら選択肢を選び、(名の変更を必要とする具体的な事情)を記述する必要がある。

 「3 同姓同名者がいて不便である。」には異議を唱えたくなるが、わたしは1983年に当時12歳の小学生の「田中角栄くん」の改名が認められたニュースを鮮明に覚えている。これを他山の石として、「田中宏和」の名前で存在する身としては、「田中宏和さん」たちには不都合を及ぼさないよう身を引き締めて日々を過ごさねばならない。

 一方で、もしキラキラが過ぎて苦悩の毎日を送る田中姓の方がいらっしゃったら、もちろん改名でタナカヒロカズの会への新規加入は大歓迎だ。

 人名は社会を表す。「ネーミングとはビタミン」にせよ「ネーミングとはスポットライト」にせよ、人名には人生を方向付ける大きな効果がある、と信じられている社会に生きているということなのだろう。

 

<参考文献>

伊東ひとみ『キラキラネームの大研究』(新潮社、2015年)

井上靖「加芽子の結婚」『井上靖全集第6巻』所収(新潮社、1995年)

大野敏明『名前の由来、名付けのいわれ』(実業之日本社、2013年)

紀田順一郎『名前の日本史』(文藝春秋、2002年)

白川静『漢字』(岩波書店、1979年)

中沢新一『今日のミトロジー』(講談社、2023年)

牧野恭仁雄『子供の名前が危ない』(KKベストセラーズ、2012年)

森岡浩『名字でわかる あなたのルーツ』(小学館、2017年)

 

次回に続く

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら