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住職はシングルファザー!

2023年9月1日 住職はシングルファザー!

5.お寺は「ブラック企業」なのか?

著者: 池口龍法

子供に離婚を打ち明ける恐怖

 規律ある落ち着いた生活を心がけてしばらくすると、子供たちの淀んでいた心は嘘のように元気を取り戻した。ちょうど台風が吹き荒れているときは濁っている川の水も、過ぎ去ればやがて清らかに澄み渡るようにである。仏典の中で、人間の心は本来清らかである(「自性清浄心」)と説かれてきたことが、なるほどと腑に落ちた。

 私がたいして急かさなくても、娘は集団登校に間に合うように朝の準備を終え、学校に出かけていくようになった。これには心底ホッとした。正しい努力はやはり実を結ぶのである。

 「今日も学校に行けなかった」が積み重なっていく後ろめたい日々を抜け出した娘の表情は、目に見えて明るくなった。「今日も学校に行けた」と胸を張れるようになり、「休まずに学校に行く」ことを目標として口にするようになった。

 しかし、まだモヤモヤしたものが、私のなかにはあった。

 離婚したという事実を、まだ子供たちに伝えていなかったのだ。伝えたら、それを子供たちはどう受け止めるだろうかと、ずいぶん思い悩んだ。せっかくリズムをつかみはじめた子供たちの生活を乱してしまうのが怖かった。

 まだ幼稚園児の息子は離婚を伝えてもポカーンと聞いているだけだろうが、小学2年生の娘ぐらいになると離婚という言葉を聞いて知っている。クラスの友達のなかにはひとり親家庭の子もいたり、その子の名字が今度変わるらしいという話も耳にしたりしている。

 そうであれば、離婚への耐性ができているとも考えられるのだが、ひとり親家庭の友達がいたとしても、基本的にお母さんと一緒に住んでいる。お父さんと暮らしている家はない。もし娘に「みんなお母さんと住んでるよ」「私だってお母さんと暮らしたい」と泣きつかれたら、どう答えればいいのだろうか。

 幼い子供にとって、お母さんはかけがえのない存在だ。これはシングルファザーの前に立ちはだかる最大の壁だと思う。

 離婚前、母と娘で激しい喧嘩を繰り広げたあとで、娘をフォローする意味で「お母さんよりもお父さんのほうが好きやろ?」と試すように聞いてみたことがある。私は「お父さんのほうが好き」と言ってくれると信じていたが、娘は悩みながらも「うーん…やっぱりお母さんかなぁ」と答えた。私は、すっかり意気消沈した。

 世間では、男女平等が声高に叫ばれている。職場での仕事だって、家庭での育児や家事だって、男性と女性が互いに助け合いながら暮らしていくのが、まっとうな姿だとされている。しかし、それでも幼い子供はお母さんが好きである。

 やはり、母子間の愛情というのは、どこか絶対的である。お母さんのお腹から生まれてきたり、母乳をもらって育ったりという事情によるものなのかわからないが、ともかくも父親では補えない圧倒的ななにかを感じる。おそらくは、どんなに正当な理由で子供を引き取っていても、世の中のシングルファザーの多くが、罪の意識にさいなまれていることだろうと思う。

 いや、「お母さんと暮らしたい」と泣きつかれるぐらいならまだ良いのかもしれない。もっと最悪のシナリオも想定した。

 「お父さんとお母さんが離婚したのは、私が学校行かないせいだ」

 「お母さんと暮らせないのは、私がいい子にできなかったせいだ」

 と、大好きなお母さんと離れ離れになった責任を娘自身が抱え込んで、後悔の念にさいなまれることも想像できた。そうなると、娘は心に深い傷をかかえて生きていくことになる。

 さんざん自問自答した果てに、しばらくのあいだ離婚の事実は伏せておくのが、選択肢としてベストだろうと思った。離婚なのか別居なのかはうやむやにしたまま、「しばらく別々に住むことになった」と伝え、「ときどき会いに行こうね」と安心させた。

 離婚したら夫婦間の関係は解消されるけれど、離婚しようが別居しようが、子供にとって母親はいつまでも変わらず母親である。だから、夫婦仲がうまくいかなくなっても、子供の健全な成長のためには、定期的に親子を会わせてあげるべきである―と、世間一般には理解されている。日本では、離婚するときに父親か母親かどちらかが親権を持つという「単独親権」を定めているが、国際的にみれば離婚後の「共同親権」が主流であり、日本も「共同親権」を認める方向に世論は流れている。

 私も、どちらが親権を持つかで争うのは無意味で、それよりはできるだけ会わせてやり、元妻の気持ちも子育てに活かしてあげるのが、子供のメンタルを守るために最善の方法だろうと離婚した時点では思っていた。しかし、このときはまだシングルファザーにとって、母親と子供の交流の時間がどれだけ重たいか知らなかった。

お寺には、休日がない

 さて、ひとり親家庭の親が子育てと同じぐらい悩むのが、仕事面だろう。

 子育てには、お金がかかる。食費や習い事の月謝だけではない。子供用の服や靴は大きめのものを買っておけば翌年までは持つが、その次の年にはサイズアウトする。傘はしょっちゅう壊したり、置き忘れたりして帰ってくるから頻繁に買い替えることになる。財布のお金はボロボロボロボロ出ていく。それでも、不自由な思いをさせたくない。そのためには仕事のクオリティを極力キープして稼がなければいけない。でも、子育てに体力も時間も奪われるのに、離婚前と同じクオリティで仕事をするのは途方もなく難しいのである。

 果たして、ひとり親家庭において、子育てと仕事の両立は可能なのだろうか―。

 手がかりを求めてさんざんネット上をさまよった。似たような境遇で、子育てと仕事を両立させている人がいれば、自分だってやれそうな気がしてくるはずである。しかし、他のシングルファザーの体験談を読んでも、どうも最後のところで参考にならない。お寺の住職というのは、サラリーマンの生活スタイルとはかけはなれているからである。

 せっかくなので、お寺の生活がいかに特殊なのかを書いておきたい。

 一番わかりやすい違いは、「休日がない」ことだろう。

 離婚前、お寺の住み心地の悪さに対して、妻は「ブラック企業だ」としきりにため息をついていた。「そこまで言わなくても…」と思ったが、一理あるのも事実だった。

 会社勤めの人たちに比べ、お寺の時間はゆるやかに流れていく。お彼岸やお盆などの「繁忙期」は檀家さんがこぞってお寺に来られるので、朝から晩までずっとその対応に追われることになるが、特に大きな法要などのない時期はわりと暇である。でも、だからといって気を抜いてダラッとできる日は、一日たりと存在しない。

 どんな二日酔いの朝でも、起きたら作務衣に着替えて決まった時間に山門を開け、本堂で勤行をするところから一日が始まる。これはもう365日を通じて変わらない。住職になって以降、私服を着る機会もほとんどなくて、Tシャツとジーパンでふらっと出かけるのは家族旅行の時ぐらいである。

 サラリーマン家庭なら、週末を「おうちでゴロゴロ」して過ごすという魅惑の選択肢があるらしいが、お寺の週末は法事の受入れでピリピリしている。定休日がないどころか、観光寺院と違って街中のお寺は開店時間や閉店時間も決まっていない。世間が長期休暇に入るお盆や正月は繁忙期のピークで、寝正月など夢のはるかまた夢である。

 だから、「ブラック企業だ」と言われれば一理あるのだが、妻にそう言われると私も立つ瀬がない。なにぜ私は、テレビや新聞などの取材に対して「お寺を社会に開きたい」と言ってきた人間だ。

 妻には、「毎朝、お寺の門を開けて、地域の人々の心の扉を開くのだ」「本堂から読経の声や木魚の音を響かせれば、通りがかった人は心に凛としたものを抱く」と言い返し、「こんなに社会の役に立てる仕事はまったくホワイトではないか」とあらがった。でも、お寺の生活の背景にある意味をいくら説明しても、妻は納得してくれなかった。どんな美しいエピソードも、お寺のなかに住んで自分事として引き受ける身になれば綺麗ごとでは済まないという風だった。

お寺には、プライベートがない

 もうひとつ、サラリーマン家庭とお寺との大きな違いは「プライベートが存在しない」ことである。

 お寺は住職一家の所有物ではない。檀家さんたちの寄付によって建立され維持されてきた「みんなの家」であり、住職は住み込みでそこを管理しているにすぎない。

 「みんなの家」だから、檀家さんは近所のカフェやスナック感覚でふらっと訪ねてくる。住職は読経にでかけていたりすることも多いため、檀家さんと話すのはたいてい留守を預かる奥さんのつとめになる。

 でも、奥さんだってお寺にいてダラダラ寝転んでテレビを見てるわけではなく、ほとんどの時間は家事をしたり掃除をしたりしている。ワンルームマンションと違って、広い本堂や庫裏は掃除機をかけるだけでも一仕事である。

 しかも、頻繁に来客や電話が入ってくる。住職が帰ってくるまでにご飯の支度をしておくつもりでも、檀家さんの声がすれば何食わぬ顔で火を止めなければいけない。あと少しで洗濯物を干し終わるところでも、中断して玄関口へ向かわなければいけない。そして、ニコニコと世間話に興じる。話はいつ終わるかわからない。なにげなく「お変わりないですか?」と聞くと、「実はガンを患って…」と打ち明けられ、重たい悩みをひとしきり聞くこともある。帰って行かれたときには鍋はもう冷めている。再び火をかけ、再び冷めた鍋に火をかける。干し切れなかった洗濯物のもとへと向かう。しかしまた、次の檀家さんがやってくる。すぐに終わるはずの家事がいつまでも終わらず、やりきれない思いだけが増幅していく。

 もしそんなタイミングで私が帰宅しようものなら、飛んで火に入る夏の虫である。待ち受けるのは「おかえりなさい」という言葉よりも先に、「私だって自由な時間がほしい」という愚痴である。私からすれば、「みんなの家」に住まわせてもらっている分、家賃も要らないのだから多少我慢したらいいと思うが、そう前向きにとらえられるのは私がお寺の生活に慣れているからに他ならない。サラリーマン家庭で育った妻が戸惑う気持ちもよくわかった。

 

*次回は、9月15日金曜日に配信の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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