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住職はシングルファザー!

2023年10月6日 住職はシングルファザー!

7. 誰が誰を育ててもいい――頼もしい助っ人たち

著者: 池口龍法

最強の助っ人

 私は、このスリル満点の日々をテーマパークのアトラクションに常に乗っているぐらいの前向きさで受け止め、住職とシングルファザーを両立できると言い張っていた。両親に頼りたい気持ちもあったが、結婚するときには反対を押し切った私である。離婚して早々から泣きつくなんてみっともなくてできなかった。

 しかし、いくら強がってみたところで、気持ちだけではどうにもならないこともある。慣れない育児に私の体は悲鳴をあげていたらしい。離婚から2か月ほど経ったころである。寒い冬にお風呂で温まっていたら、足が妙にかゆくてたまらない。見てみると蕁麻疹ができていた。「そのうち治るだろう…」という淡い期待を抱いていたが、治るどころか日に日に腫れはひどくなり、お腹まで広がっていった。「これは病院に行って薬を処方してもらったほうがいいな」と頭では理解できたが、そもそも病院に行けるような時間の余裕などなかった。いや、周囲に相談すれば、病院に行く時間を作ってくれるとわかっていたが、体が悲鳴をあげていることは周囲に知られたくなかった。いったん弱音を吐き始めたらどこまでも弱くなってしまいそうだし、休養すれば迷惑をかけることになるのも嫌だった。蕁麻疹が増え続けるままに身を任せていた。

 そんななか、献身的に助けてくれたのが、母だった。

 母は、物心ついたころから結婚するまでの20年余りを、ここ龍岸寺で過ごしてきた。結婚して以降も、尼崎市のお寺で住職の父を支えながら、私と妹を育てて今日まで生きてきた。

 だから、母は、育児家事だけでなく、住職としての仕事にいたるまでのすべてを理解していた。同時に、たいして家事などやってこなかった私がにわかにシングルファザーをやり始めた無謀さについても、私以上に理解していたはずである。このまま放っておいたら、近いうちに倒れてしまうぐらいに思っていただろう。

 私が何も頼んでいないのに、母は片道1時間以上の移動を文句ひとつ言うこともなく、毎週手伝いに来ると勝手に決めた。むろん、60代後半の母にとって、体力的に楽なことではあるまい。私が「今週は忙しくないから大丈夫だよ」と気遣っても、さらっと右から左へ聞き流して助けに来た。来たら、1泊して丸2日間の育児と家事を引き受けてくれた。

 帰った後の冷蔵庫には、ポテトサラダや、だしを取って野菜を煮込んだ保存容器(味噌をとけば味噌汁になる)が残されていた。次に来るまで栄養が不足しないようにという気遣いである。菓子パンと野菜ジュースをテーブルに並べて立派な朝食だと胸を張っていた私とは、家事力はもう天と地との差。もちろん、母が頻繁に家を空けられたのは、父が快く送り出してくれたからでもある。私は結婚以来、両親と距離を置いてきたにもかかわらず、いちばん苦しい時期に支えてくれたことについては感謝してもしきれない。

 心のなかにあった両親に対するわだかまりが、消えていった。雪解けである。

 「あなたは休んでおきなさい」と私につかの間の休息を与え、ストイックに育児と家事を助け続ける母親の背中を見ながら、親ってありがたいなぁとしみじみ感じた。

 いまどきは「友達のような親子」が理想的な親子関係だと言われることもあるが、私の両親は「親は敬うべきもの」であり「友達感覚なんてありえない」と主張して譲らなかった。私は「同じ人間なんだから、大人になったら対等でいいじゃないか」と思うときもあったが、絶体絶命のピンチのときにこれだけ助けてもらったら、ぐぅの音も出ない。私に代わって育児と家事をひたすら引き受けた母親の背中は、「親は敬うべきもの」と主張してその通り行動するほうが、はるかに覚悟がいることをはっきりと物語っていた。

 同時に、親を拝み、先祖を拝むという日本仏教の風習も、どこかしっくりきた。本来、仏教ではブッダを拝むのだが、日本では「先祖教」と揶揄されるほど、ブッダよりも先祖を拝む。お墓や仏壇に手を合わせていると、親が生前にどんなピンチの時にも助けてくれたように、あの世からなにかしら見えない力を働かせて私たちを守ってくれる。そのような心情が日本人の心に脈々と流れている。だから、檀家さんたちは月命日やお盆や年忌など、ことあるごとに私に供養の読経をしてほしいと依頼する。

 以前の私は、親の言うことを聞かず平気で喧嘩しながら、法事のあとの法話では親を拝むことの大切さを懇々と説いていた。後継ぎとして用意された人生を生きることへの嫌悪感があって親から反発していた事情を差し引いても、ひどいものである。

 母が毎週来てくれていたのは半年ぐらい続いた。知らないうちに私も育児と家事にだいぶ慣れたのだろう。母はいつしか、帰る前に味噌汁のしたごしらえをしなくなった。「したごしらえしなくなったね」と言ったら、「もうできるでしょう」と返ってきた。さすがである。気が付けば、キッチンにいてお皿を洗ったりする片手間に、だしをとったり具材を刻んだりするのはなんともなくなっていた。なんでも見透かされている。蕁麻疹のことは最後まで母にも言わなかったが、母が安心してくれたころにはいつしか収まっていた。

「お寺を開く」メリット

 助けてくれたのは母だけではない。

 たいていの街中のお寺は、住職一家だけで切り盛りしているのに対し、龍岸寺は、檀家以外にも開放してきたことが、まわりまわって私を助けてくれた。

 失礼を承知で言うが、超高齢化社会の日本において、齢を重ねた檀家さんのご当主と住職一家で、この国の宗教文化を担っていくのはどう考えても無謀である。

 私が生まれた1980年は、2020年と比較すると、平均寿命が10歳近く短かった。この10歳の違いは大きく、子供のころはお寺の周りに住んでいた檀家さんがまだまだ元気で、法要のときには幕を張ったり、炊き出しをしたりして盛り上げてくれていた。ここ龍岸寺では、年末にみんなで餅をついてお供えしていた。お寺行事とはわくわく感のあるフェス(祭り)だったといってもいい。しかし、避けられぬ定めとして人間は毎年老いていく。しかも、医学が発達したために、なかなか死ねない。足腰が弱ったり、大病を患ったりされた老齢の檀家さんに無理をお願いすることはできず、次の世代も遠方にいて頼れないとなると、フェスの準備は住職一家に重たくのしかかってくる。

 檀家さんに頼れないなら、炊き出しで作った粗供養のご飯も、みんなでついたお正月の鏡餅も、近所のお店で買って手配するようになる。そうすればなんとか見てくれは整うけれど、どうしても味気ない。フェスのわくわく感はそこにはもうない。しかも、その孤独な努力は檀家さんには伝わらず、檀家さんと言葉を交わす時間も減るから心の距離が開いていく。挙げ句の果てには「お寺は閉ざされている」という批判にさらされていく。これは私のところに限らず、日本全体で広く見られる悲しいすれ違いだと思う。

 しかし、人間は他人とのつながりなくして生きられない。シェアハウスに住む人や、シェアオフィスで働く人が一定数いるのは、賃料を削減したいという理由もあるだろうが、人との出会いに飢えているからという理由も大きいはずである。そうであれば、地域に開かれ人々のつながりを生んできたお寺こそ、シェアされるべきではないか。

 ご年配の檀家さんを半強制的に動員しようとすると不満の嵐に襲われるとしても、若い世代に直接働きかけることができれば正反対の反応があるにちがいない。炊き出しだって、餅つきだって、年末の大掃除だって、かつてのようにワクワク感のなかで楽しくできるはずである。だから私は「お寺を開く」と言い続けてきた。本堂や座敷をライブイベントや企画展示の会場としても開放してきた。「本堂でライブをすると畳が傷む」「仏具の扱い方を知らない人に仏具を触らせないほうがいい」などというご意見はなんどもいただいた。もっともなご指摘であるが、お寺が使われないまま寂れていくほうが、畳が傷むことよりはるかに問題である。それに私だって、子供のころは仏具をたくさん壊して、仏具の扱い方を覚えてきたものである。だから、批判は気にも留めなかった。

 やがて思惑どおり、私のところにはお寺に関わりたいと希望する人たちがどんどん集まるようになった。別れた妻にとってみれば、わずかしかないプライベートをさらに脅かす私のたくらみに恐怖を感じ、怒りの炎を燃やしていただろう。

 しかし、離婚したいま、怒りの炎はもう消えてなくなり、毎日のようにお寺に通い詰めてくれる人がいる。とにかく猫の手でもなんでも借りたい私にしてみれば、お寺に人がいてくれるだけでありがたいことこの上ない。少しでも子供をあやしてくれていたら、そのあいだは私が育児から解放されるからである。お寺に来ている人たちをベビーシッターのごとく扱うことに引け目がなくもなかったが、ひとりで育児も家事も仕事も抱え込んで倒れたら、結局まわりに迷惑がかかる。私は、お寺に出入りする人たちにどんどん甘えようとひそかに画策していた。いや、正確に言えば、そこになんとか救いを求められないかとあがいていた。

お寺アイドルも心の支えに

 なかでも毎週何度も来ていたのが、離婚前年の2016年から4年にわたり、お寺でプロデュースしてきた浄土系アイドルユニットの女性菩薩(「てら*ぱるむす」)だった。

 ―と、さらっと書いたが、この一文、情報量が明らかに過剰なので少し整理して説明しておきたい。

 浄土系アイドルは、ライブハウスなどで活動するアイドルグループと同じように、歌ったり踊ったりというライブパフォーマンスを届けていた。「お寺でアイドルなんて…」という批判はさんざん浴びたが、「アイドル(idol)」という言葉には偶像の意味がそもそも存在する。仏像がそもそもアイドルなのだから、「仏像を祀るお寺でアイドルのプロデュースを手掛けてなにが悪いのか」というのが、私の心情であった。

 経典に記されるところによると、菩薩は繰り返しこの娑婆世界に生まれ出で、衆生を導くために尽力するという。この仏教的な世界観をお寺の本堂で表現する試みに、なんら問題があるはずもない。メンバーの菩薩たちも、観音菩薩や弥勒菩薩の化身として一生懸命にお寺文化を勉強し、学んだことを歌詞に盛り込んだり、衣装に取り入れたりもしていた。

 ただ、誤解は最後までつきまとった。

 私は熱狂的なアイドルオタクだと思われるようになった。実のところは、私はアイドル文化にまったく興味がなく、プロデュース以前にはライブイベントに足を運んだことなどなかった。そうであるにもかかわらず、お寺でのアイドル育成を受け入れたのは、彼女たちなりにお寺文化を表現しようという真摯な態度に動かされたからである。

 しかし、そのような私の純粋な気持ちは世間には伝わらない。池口個人の趣味だろうと理解されていた。離婚前には「愛人」「ハーレム」、離婚後には「奥さん探し」と知人からさえ笑われた。元妻は年上だったから、かなりの年下であることが明らかに見て取れる生身の女性菩薩は、余計にたちが悪かった。夫婦仲が険悪なところに、私がアイドルのプロデュースに精を出すことに良い心象を抱くはずもなかった。

 私が思うに、お寺というのは、土地財産への税金を免除されている以上は社会の公器である。その公器のなかに住職一家のプライベートな生活が存在するから、公私の折り合いをつけるのは簡単ではないが、「夫婦仲が険悪だから」というだけで、若い女性たちが一生懸命に考えて持ってきた提案を断るのは、ありえない話である。

 周囲のお寺を見渡せば、「子供がまだ幼いから」「親の介護で手がかかるから」などと家庭内の事情を盾にとって、お寺をプライベートな場として占有することに平気だったりするのをよく見かける。そんなことだから「お寺の門はくぐりにくい」という印象を抱かれるし、「檀家離れ」という現象も起こるのである。

 さて、アイドルのメンバーたちが練習に来るのは主に平日の夜である。昼間に学校に行けずグズグズ過ごした娘も、夜にアイドルたちが来るのは楽しみにしていた。幼いながらに、れっきとしたアイドルオタクである。彼女たちが練習を重ねるごとにうまくなっていき、オリジナル曲も増えていくという光景は、アイドル文化に興味のない私にも楽しかったから、子供たちには相当な刺激になっていたのだと思う。私が怒ったときには、しれっといなくなってアイドルたちのいる部屋に駆け込んでいたりもしたから、心の逃げ場があったのは本当に助かった。

レゲエ和尚、浄土宗の劇団ひとり、芸大生

 母や菩薩アイドル以外にも、お寺の仕事をサポートしてもらうための有償スタッフが3人いた。もちろん、この3人にも甘えさせてもらった。

 まず期待をしたのは、龍岸寺の先代住職。私の伯父である。

 住職を引退しても、お坊さんには定年がなく、声さえしっかり出せれば読経はつとめられる。80代ぐらいでも「先代さん」「前住さん」として親しまれて第一線で活躍できる。むしろ、お坊さんは年齢を重ねて行くほうがありがたいと思われているから、せっかく次の世代が住職を譲ってもらっても、長年の功績を鑑みればなかなか引導を渡しにくく、「院政政治」のような弊害を招きやすいというのも事実である。ともあれ、先代住職と現在の住職(そしてときには次の住職も)が手を取り合ってお寺を切り盛りしていく、というのはよくある風景である。

 伯父は40年の長きにわたって住職をつとめた。龍岸寺のことは隅々まで知っているし、70歳手前で元気なまま私にバトンタッチしたから、体力もあり余っている。可愛い甥が苦境に立たされているいま、「よし私の出番だ」とお寺の法務を張り切って引き受け、日に陰に陽にサポートしてくれた―という感動的な美談をここに書けたらよかった。

 あいにく伯父は、「レゲエ和尚」としてお寺よりもレゲエ界で名を馳せた奇人。住職引退以降はすっぱりと気持ちを切り替えて、余生を謳歌することに全精力を傾けている。お盆やお彼岸などお寺の忙しい時期こそ予定を空けてくれているが、それ以外の期間はほとんど長期の旅行に出かけている。私が「離婚した」と報告したときも、「いままで通り旅行に行ってもなんとかなるやろ」という伯父らしい言葉で想像通りに期待を裏切った。

 控えめに言っても呆れたけれど、伯父の気質もわかっているし、もともとは私の身から出た錆でしかない。それでも、伯父はお寺にいるときは子供の相手もしてくれたから、感謝している。子育て経験の乏しい伯父なりに、精一杯やってくれたのだろうと思う。

 二人目は、私より一回り年上の浄土宗僧侶、山添真寛(しんかん)さん。滋賀県のお寺に生まれ、大学時代にお坊さんの修行を終えたが、卒業後は劇団に入って芝居の道へと進んだ。40歳で独立して以降は、全国のお寺、幼稚園、保育園などを人形芝居と紙芝居で上演して回っている。

 「ひとりで行って、ひとりで準備して、ひとりで上演して、ひとりで片づける」というスタイルゆえに“浄土宗の劇団ひとり”と自称している。取材で公演を訪ねたときにあまりのクオリティの高さに衝撃を受け、これからのお寺づくりに不可欠な人材だと思い、手伝ってもらうようになった。お芝居の上演が週末を中心に年間百公演ほど入っているので、龍岸寺には主に平日に来てもらっている。全国の子供たちの心をつかんできたシンカンさんに、私の子供たちがなつかないはずはない。小学校や幼稚園から帰ってきてシンカンさんが居ると、顔がほころぶ。

 平日にお寺にいた伯父とシンカンさんには、幼稚園に迎えに行ってもらったことさえあった。幼稚園の先生たちもおそらく「誰が本当のお父さんだろうか?」と思っていたはずだが、子供たちがすっかりなついている様子を見て、大丈夫だと判断したのだろう。私以外が迎えに行っても、いぶかしむことなく子供を引き渡してくれた。

 残るひとりは、お寺で毎年実施しているアートフェスがきっかけとなって知り合った、芸術系大学に通う女子大生。主な出勤日は、大学が休みの土日。「お寺×アート」面でのスキルを期待してスタッフになってもらったが、思いのほかオールラウンドで活躍してくれた。料理の腕は私より抜群にうまく、法事が立て込んで食事の準備ができないときは、「お願い!」というと、冷蔵庫の食材でうまくまかなってくれる。掃除も丁寧にてきぱきこなし、子供の勉強も見てくれる。子供たちにとっては、お母さん的存在で、後々になって聞いたが、娘はときどき「お母さん」と呼んで困らせていたらしい。

「誰もがみほとけの子」―誰が誰を育ててもいい

 通常、離婚して親権を持つというのは、子育ての全責任を自分が負うということを意味する。食事や洗濯などの家事だけでなく、学校行事への参加や習い事の送り迎えに至るまで、すべてに対応していかなければならない。息抜きする時間もなく、会話できる大人も周りにいないと、ストレスがたまってくる。しかし、多くの人々のおかげで運営されているお寺においては、シングルファザーになっても他に親代わりがたくさんいる。私の愚痴だって聞いてもらえる。つくづく贅沢な環境である。嫌味にめげることもなく、多くの人たちとお寺を作ってきたことが実を結んでいると感じた。

 とはいえ、両親以外の親代わりがいない社会状況のほうが、本当は異常なのではないか。

 10年ほど前、あるお寺を訪ねたときに、年老いたお坊さんが「私はお寺に生まれたわけやないんや」「家が貧しかったからお寺に預けられてな」と、初対面の私に生い立ちをつらつらと語ってくれたことがある。お寺で育ててもらっているうちに、いつしか奥さんをもらってお寺の住職になり、子供夫婦にバトンタッチしていまに至るのだという。

 かつて、食べていけない家庭の子供は、お寺に預けられた時代があった。戦後、農地改革によってお寺が所有していた農地もその対象となったが、それ以前は経済的にも豊かだったから、お寺は地域の貧しい子供たちの家となり、住職はその親になっていた。現代でいう「赤ちゃんポスト」(お寺に子供を預けるのは生まれて早々の時期には限らないけれど)が、社会インフラとして広くいきわたっていたといえる。にわかには信じがたい子育て環境かもしれないが、そのお坊さんはありふれた話のように語っていたから、似たような境遇の子供がいくらもいたのだろう。

 もっとも、「赤ちゃんポスト」の設置に関しては、賛否があるに違いない。「子育てに責任を持てないぐらいなら出産をするな」「きちんと避妊をしなさい」という意見も聞こえてきそうである。しかし、お寺に子供を預けるという選択肢を含め、どうしようもなくなったときの逃げ道が世の中に存在したほうが、心に余裕をもって生きられるはずである。子供にとってみても、生みの親と離れてしまっても、心身ともに立派な大人になれたなら、それがなによりではないか。

 かねてから私は、「誰が誰を育ててもいい」ぐらいに鷹揚に考えている。

 そう考えるようになったきっかけは、いくつもある。小学生ぐらいのころから、夏休みにお寺で開かれる子供道場(おつとめなどもあるが、炊き出しやバーベキューもしたりするのでサマーキャンプに近い)に参加したとき、「誰もがみほとけの子」と習った。両親以外にも自分を見てくれる「親」はいるのだと知って、どこか気が楽になった。成長してからは、「自分と他人の区別は意識が生み出した幻想にすぎない」という仏教で説く無我の思想に触れて、自分の子供も他人の子供も等しく可愛がるべきだと理解するようになった。「ブッダはあらゆる衆生をたったひとりのわが子のように愛おしむ」という経典の言葉もある。

 だから、スタッフやらアイドルやらが代わる代わる子供の面倒を見てくれているのを眺めたとき、すごくお寺らしい光景が足元に広がっていると実感した。子供ができて初めて親になるのではなく、また、子育てが終わったらもう育児が終わるのではなく、身近に縁のある大人が子供に目をかけていくというのは、新しい育児スタイルの提案ではないだろうか。やがて子育てをするだろう若い世代にしてみれば、お寺に来てやむをえず「お母さん体験」をしたことが、なにかしらプラスになるのではないか。

 願わくは、私が忙しいときには代わりの「親」が育ててくれているという世界が、再び珍しいものでなくなってほしい。そして、その世界をいくらかでも近しくするためには、たぐいまれなシングルファザー住職である私が、お寺らしい子育てに精一杯奮闘していくべきなのだろうと、おぼろげながらに直感した。

 

*次回は、10月20日金曜日に配信の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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