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住職はシングルファザー!

2024年3月29日 住職はシングルファザー!

19. 緊急事態のひとり親家庭

著者: 池口龍法

28歳で結婚。2児の父となったお寺の住職が、いろいろあって離婚。シングルファザーとしての生活が始まった。読経はお手のものだが、料理の腕はからっきし。お釈迦さまも、オネショの処理までは教えてくれない。かくして子育ての不安は募るばかり……。一体どうやって住職と父親を両立すればいいのか!? 「浄土系アイドル」「ドローン仏」などが話題の、京都・龍岸寺の住職によるシングルファザー奮闘記!

コロナ禍の逆風

 離婚から2年余りが経った2020年春。

 生活のリズムはだいぶつかめていた。

 シングルファザーの日々は、たとえていえば、テトリスやぷよぷよのような「落ち物ゲーム」の感覚がある。テトリスだとブロックを横一列きれいに並べれば消えてくれる。ぷよぷよなら落ちて来るぷよを同じ色で四つ組み合わせれば消える。

 これと同じように、私の身には、「お茶を沸かす」「洗濯物をまわす」「お風呂に入れる」「山門を開ける」などのパズルのピースがどんどん降りかかってくる。ため込み過ぎてゲームオーバーにならないように、スピーディーにかつ効率よくこなしていく。お寺は一般の住宅よりも敷地が広いので、移動時間のロスを減らすために、本堂や山門まで行くときには極力手ぶらで動かない。

 うまくやれれば、疲労感なく次の日を迎えられるから、気分よくまたタスクのパズルに挑める。しかし、前日のタスクがたくさん残ったままで、次の日のパズルが始まることもある。「え、このタイミングでお葬式…」みたいなこともある。

 パズルゲームはやり込めばうまくなるように、私もシンパパ育児ゲームの腕は上達していたが、突然、容赦なく恐怖のどん底に突き落とされる事態が訪れた。

 コロナ禍である。

 いや、コロナ禍というと、疫災のようで聞こえはいい。

 ギリギリのところで生活を回している私にとってみれば、ウィルスに感染することよりも、行動制限をかけられることのほうが、致命傷になりかねない。

 子供は新型コロナウィルスにかかりにくいという情報もすでに流れていたが、2020年2月28日、文部科学省から一斉臨時休業のお願いが出された。初めての緊急事態宣言が発令されるより1か月以上前に、子供をとにかく家のなかに閉じ込めようとする不可解な判断だった。あくまでお願いベースで強制力がない通達だったとはいえ、文部科学省の言葉は重く、ほとんどの自治体が小中学校や高校の休校を決めた。

 体中から血の気が引いた。

 当時の安倍首相は、記者会見で休校要請は「断腸の思い」での判断だと言った。でも、その表情は、サラッとしていたように私の目には映った。育児の現場にいる私は、目の前の現実がぐちゃぐちゃにかき回される恐怖におののいているのに、この国のリーダーは平然と言葉を連ねていく。

休校中の生活のことを考えれば考えるほど、怒りが込み上げてきた。

 「え? 子供ってコロナウィルスにかかりにくいはず…」

 「法事の予定も入ってるのに…」

 「昼ごはんの段取りも考えな…」

 恵まれた家庭に育った政治家には、きっとひとり親家庭の苦しみなど眼中にないのだろう。選挙権を持たない子供よりも、一票を自分たちに投じてくれる有権者のほうがきっと大切なのだろう。この国の将来を担う子供たちよりも、半年後に控えたオリンピック(開催は2021年夏に延期)の利権のほうが大事なのだろう。怒りの声が心のなかに響き渡った。

 それでも、多くの自治体が即座に休校を決め、土日をはさんで3月2日から休校措置を取ったのに対し、京都市は「準備期間」を設けて3日遅れの3月5日から休校としてくれた。たかが3日間の猶予であるが、月曜日から水曜日までの3日間、子供が学校に通っているあいだに、スーパーに買い出しに行ったり、仕事のスケジュール調整をしたりと、体制を整えることができた。京都市は、ひとり親家庭にも配慮してくれているようで、嬉しくもあった。

 私はこのときつくづく、もう少し、この社会はもっと子供にやさしくあるべきではないかと思った。

 緊急事態宣言中も大人は、「買い物にいかなあかん」「外せへん仕事やから」と理由をつければ、外出が許された。しかし、いちばん多感な子供は、ずっと家庭にこもりっきりになった。いまでも印象的に覚えているのは、3か月近くに及んだ休校が終わる頃、子供を車に乗せて近所の回転ずしに連れていったら、窓から見えるありふれた街並みに感動していたことだ。

宗教は不要不急?

 とはいえ、新型コロナウィルスに日本社会が委縮していた頃、休校措置に絶望と憤りを感じながらも意外と私自身は萎縮していなかった。シングルファザーという過酷な環境に身を置いてきた私のほうが、おそらくは精神的に余裕があったのではないか。これからどんな未来がやってくるのかを思えば、私だって不安に駆られた。しかし、日常のすべてが不安のなかにあるのは離婚して以来ずっとのことであるから、もう慣れっこになっていた。どんな不可能に思える状況でもなんとか生き抜いてきたから、新型コロナウィルスに対しても「かかってこい」ぐらいの気概があった。

 一方で、周りのお寺の人たちは、みっともないほど打たれ弱かった。

 政府のお願いに従順なのはこの国の人々の特性なのだろうが、そのなかでも特に、お寺の人々は日本的な「空気読み」の精神で動くのを得意にしている。長いものには率先して巻かれようとする。政府が、不要不急の外出を控えるように促すと、宗教法人に対する規制があったわけでもないのに、我先にとあらゆる宗教行事に「不要不急」と自らレッテルを貼って自粛し始めた。飲食店やカラオケ店など、「密」の象徴的な場にいる人たちがなんとか抗ったり、休業補償を要求しようとしたりしたのとは、まるで対照的だった。

 日本中が冷静さを失っていたなかで、春のお彼岸が近づいてきた。春分の日には、真西に夕陽が沈む。そのはるか向こうに西方極楽浄土があり、ご先祖様たちはそこにいらっしゃるらしい。日本人にとってお彼岸は、お盆と並んでもっともご先祖のぬくもりを感じられる日になっている。例年なら、全力をあげて檀家さんたちを迎え入れるために準備をするのだが、今年ばかりはそうもいかない。

 本堂で法要をつとめる日は迫ってきたが、新型コロナウィルスの感染拡大は、収まる気配を見せない。法要をつとめれば、高齢の檀家さんが本堂で「密」になってしまう。クラスターが発生すれば檀家さんは死の危険にさらされるから、ほとんどのお寺が法要を取りやめるか、参拝者を入れずに行うという判断をくだした。周囲のお寺があっけなく新型コロナウィルスに白旗をあげていく状況に、私は唖然とするばかりだった。

 宗教は本当に不要不急なのだろうか。

 むしろ、未知の感染症を前にして、近年まれにみるほど宗教に対する期待感が高まっているのではないか。歴史をさかのぼれば、東大寺の大仏は聖武天皇が天然痘の平癒を願って建立を命じた。祇園祭も平安時代に疫病が流行ったときに神輿を担いで神に祈ったことに由来する。政治の力、ひいていえば、人間の力ではどうしようもできない状況を前にして、私たちはせめて宗教に希望を見出そうとすることは歴史が証明している。

 私は、「こんなときこそ手を合わせたい」という願いになんとか答えたいと思った。

 しかし、どうすれば「密」を避けて、法要を執り行うことができるのか。

 答えなんかどこを探しても書いていない。でも、だからといって、諦める必要はどこにもない。シングルファザー住職の生活を成り立たせるために知恵を絞ってきたことは、私にとって自信になり始めていた。未知の感染症を前にしたときも人間は決して無力ではないと信じられた。

 もし周囲に相談したら、不安が伝播する。「辞めておいた方が…」と促されるのに決まっている。何日もひとりで考え抜いた末に、「風通しのいい庭で法要をやろう」と決め、庭にテントを張って椅子を並べて檀家さんを迎え入れた。この判断は、当時人々の心が闇に包まれていたなかで数少ない希望を感じる話題だったらしく、地元京都新聞の一面に取り上げてもらった。胸のすく思いがした。我ながらたくましくなったもんだなぁと思った。

 お彼岸の法要を境内でつとめたことで、参列された檀家さんの人数は変わらなかった。お墓まいりに来られた方の数も例年並みだった。やはり、仏事は不要不急ではなかったのである。

休校中の静かなお寺時間

 このとき、「庭で法要をつとめる」という奇策を思いついたのは、かねてから大勢の人たちとお寺を作ってきたことが大きい。

 お寺をライブイベントやアート展示の会場に利用したいと訪ねてくる方々は、本堂、座敷、庫裏(くり)、庭などをどう活用すれば、お客さんに最高のパフォーマンスが提供できるかを真剣に考える。照明をどこに設置し、お客さんにどこから見てもらえたらベストなのか。私としても最高のお寺体験を届けたいと思うので、一緒になって考える。毎年変わらない仏事の準備に比べれば何倍も骨が折れるのだが、労をいとわずこういう作業を行ってきたことで、柔らかい頭で「庭で法要をつとめる」という発想ができたのだと思う。

 さて、春のお彼岸が終われば、いつも人の出入りが多くにぎやかな龍岸寺も、さすがに閑散とした。気候のよい春先から夏にかけては、週末を中心に頻繁にイベントが組まれていたが、いくつかをライブ配信のみの無観客で行った以外はすべて中止になった。感染拡大を避けるため、週に何日もお寺に集まって練習していたアイドルたちも、自宅で個人練習を重ねることになった。

 お寺のスタッフも、自宅でできる作業は自宅でお願いするなどして、最少人数で運営する体制をとった。たいていの日は、緊急事態宣言下の休校で自宅待機を命じられた子供2人と、この年の4月から新しく入った女性スタッフと、合計4人で過ごしていた。

 マンションや一戸建てのごく普通の住宅に暮らしていると、家庭のなかは社会と断絶している。プライベートが守られているともいえるが、私たちはつい楽な方へと流される生き物であるから、おうち時間が続くと規律がなくなり、ダラダラした生活をするようになる。仕事も理屈上はリモートでできるかもしれないが、おうちにいると上司や同僚の目がないから、どうしても気が緩む。子供の学校の友達は、家族水入らずの日々を楽しむよりは、ニンテンドースイッチで「どうぶつの森」をとめどなくやり込んだ子が多かった。

 お寺では、家庭の生活も社会のなかに組み込まれている。プライベートが守られていない不自由さはあるが、その分、生活のリズムは乱れにくい。緊急事態宣言中でも、朝は決まった時間に山門を開けなければいけない。檀家さんはお参りにやってくるから、子供だとしても、見苦しくない服装をしていなければならい。電話が鳴るたびに、もしかしたらお葬式の連絡の可能性もあるから、ピリッと空気が引き締まる。休校期間中の家庭に規律をもたらすのに、このありがたい環境を利用しない手はない。

 それになにより私自身が、毎朝、お寺の本堂で手を合わせる静かなひとときを、心の底から欲していることに気づいていた。テレビ、新聞、SNSなど、私たちの目や耳から入ってくる情報は、新型コロナウィルスの話ばかりだった。ニュースソースに接して日々の感染者数を把握したり、感染対策について学んだりすることは必要だとしても、四六時中それが続くと平常心を失っていく。自分ももしかしたら感染して命を落とすかもしれないと恐怖におののく。

 しかし、お寺に暮らしていると、本堂で勤行をしなければいけないから、この時間だけは情報メディアを完全に遮断することができる。1日にわずか20分でも30分でも手を合わせ、心にたまった負の感情をリセットすることで、自分自身を取り戻すことの大切さを身をもって知った。一般家庭でも、仏壇があって手を合わせられる環境があれば、ずいぶんとコロナ禍は乗り越えやすかったのではないか。

 私は、せっかくなので、お寺らしい生活を子供と一緒に過ごすことにした。

 朝、スタッフが出勤してくるのが9時ぐらい。それまでにはご飯を済ませておいて、一緒に経本を片手に本堂に向かい、勤行に励む。それが終わったら、庭掃除をする。

 スタッフもうまくサポートしてくれた。不思議なもので、私が「本堂行くよ!」というと子供はまったく言うことをきかないのに、スタッフが言うと、「一緒に行く!」と嬉しそうに掃除に励む。スタッフが「掃除しよう!」と誘うと、「する!」と返す。親に対してはどうしても照れがあったり、反発があったりする。反発しながら、自分自身のエゴを形成していく。それが自然な成長だろう。私もさんざん両親に反発してきたから、我が子の態度をむげに否定もできない。だが、そこに1人スタッフがいるだけでまるで空気が変わる。お寺という、仕事場と家庭が一体になっていた環境ゆえになしえたことであったが、子育てのあり方を考えさせられる日々であった。

 

*次回は、4月5日金曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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