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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年4月29日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第5回 光明は苦海にしか射さない

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行(どうぎょう)二人(ににん)」の日々――。

転んだことにも意味がある?

 血で汚れた服を洗濯し、シャワーで手足や顔の傷口を洗い手当てをする。布団に寝転がり休んでいるといつの間にか土砂降りの雨になっていた。

 なぜ転んだのだろう。なぜ大事にならずに済んだのだろう。母のためにやってきた今回の遍路だ。母の身代わりで転んだのならそれでよいが、転んだことにも何か意味があるに違いない―考えるともなく考え続けている。

 口の中を切り、痛くて生野菜を食べられない私のために、女将さんが濃厚でとびきり美味しいかぼちゃのスープを作ってくれた。「何十年とお遍路さんを見てきたけど、食べられなくなってきたらあと数日で上がりやね」。だから無理をしてでも食べないといけない、と言う。「でも膝はスープでは治せんからね」。結願したいのなら、思い切って早いうちに脚を休ませるか、交通機関を利用するかのどちらかだと言う。おそらく私が“完歩派”であることを見抜いていたのだろう。

 翌朝鏡を見ると口がアヒルのように腫れ上がり、額や鼻が赤紫色になっていた。“お遍路さん”というよりは“負けたボクサー”のようだ。恥ずかしくて俯きがちに宿を出た。遍路五日目にしてこんなに派手に転んでしまった。しかも顔から突っ込むなんてドジもいいところだ…前回はこんなことは一度もなかった。情けない気持ちが込み上げてくる。

 それでも歩き出すと、お遍路を続けられる喜びが徐々に全身に満ちてきた。あと数日で海も見られるだろう。たくさんの素晴らしい出会いも待っているに違いない。打ったところがあちこち痛むが、遍路を中断せず続けることが出来るのも、同行二人、お大師様のご加護だ。

 正午、十七番井戸寺(いどじ)に着く頃には暑さで早くもぐったりとしていた。境内のベンチにリュックを置くと、すだち庵で一緒だった女性二人に会った。一人はオランダ人のスーザンだ。徳島市内のホテルに向かって共に歩き出す。再び複数での遍路となった。「日本の暑さと車道の騒音にはまいっているけど、山の自然の豊かさには魅了されているわ!」とスーザン。オランダには高い山がないのだ。

 公園のベンチでリュックを下ろし、休息をとっていると男性が合掌しながら車から降りてきた。「お遍路さ~ん、これで冷たいものでも買ってください」。千円札だった。礼を言って受け取ると、またその掌を合わせた。四国の人は言う。「祖父母も両親もみなそうやってきたから」。

 「土徳」という仏教の考え方がある。その土地の持つ徳によって人は育てられ恩恵を受ける。お接待は土徳に根差す。

 眉山(びざん)公園の麓で二人と別れ、薬局に飛び込んだ。店主に脚を見せると、汗で擦り傷が化膿しやすいからと、ステロイド剤の他に抗生剤の軟膏、鎮痛剤を薦めてくれた。「靭帯の炎症は休ませるしかないです」。休まなくてはいけない…さまざまな人の口を通して何かが(誰かが)訴えてくる。が、その必要性を誰よりもわかっているのは私自身のはずだ。

 

へんろ道なれや真白きまんじゆさげ   まどか

 

蝉しぐれの眞念道を行く

 翌日は6時半にホテルを出発。二時間ほど歩いたところでコンビニに入り喉を潤していると、刺すような視線を感じた。辺りを見回すと、駐車場と道路を挟んだ家の二階から老女がこちらをじっと見ている。表情は見えなかったが、なぜか粘りつくような眼光だけは感じた。

 地図で道を確認したり、日焼け止めクリームを塗り直したりと二十分程いたが、老女はまだこちらを見ていた。彼女から私は、日々ここを通り過ぎる遍路は、どのように見えるのだろうか。窓辺の椅子から自力で動くことは出来そうにないが、かつてはよく働き、人生を謳歌し、道行く遍路に施しもしただろう。その頃の遍路はもっと疲れ、腹を空かせていたはずだ。コンビニなどなかったのだから。

 こんなにも気になるのは、彼女の中に未来の自分自身を見たからだろうか。彼女もまた、私の中に過去の自分自身を見たかもしれない。思うように身体を動かし、人と出会い、語らい、笑い、泣き、喜怒哀楽に溢れていた日々があった。道行く人を眺めて見つめる現在と、過ぎ去った時間とが交錯する。

 店を出るとき、目が合った。会釈をすると彼女も会釈を返してくれた。相変わらず表情はよく見えなかったが、僅かながら彼女のエネルギーが動くのを感じた。歩きはじめて一週間。さまざまな感覚が開き、感度が上がってきたのがわかる。

 全長300メートル近くもある勝浦川橋を越えたところに、道標があった。旧道への道順を示す矢印(→右へ)が消され、あらたな矢印(まっすぐ↑)が上書きされていた。旧道を歩きたいが、矢印が変更されているのだから何か理由があるに違いない。右に曲がるか真っ直ぐ行くか。迷った末に新しいサインに従うことにしたのだが、これが間違いだった。

 国道55号線は交通量が多く、しかも木蔭がほとんどなかった。前も後ろもお遍路さんの姿はない。みんな「右」へ行ったのだろう。バケツで水を浴びたように全身がびっしょり汗で濡れている。

 そのとき、向こうからやってきた自転車の男性が私を見て止まった。「歩いとるの? 通しで?」慌てて自転車かごに手を突っ込むと、ゼリー飲料を手渡そうとする。でも、おとうさんが飲むために買ったのでしょう? と言うと、「ええんよ、ええんよ。暑いから気ぃつけて。がんばってね!」とエールを送ってくれた。

眞念道の標識

 十九番立江寺(たつえじ)から後は蟬しぐれの眞念(しんねん)道を行く。

 眞念は先述の高野聖で、一般人のための安全な遍路道を推奨し、道標や宿も整備した。眞念道とはその名に由来する。歩いているとあちらこちらで眞念が建立した道標に出会う。

 「ご苦労さまです」。80歳を過ぎているだろうか、草刈の手を止めて高齢の女性が労ってくれた。この炎天下での草刈の方がよほどきついはずなのに。

 畦道にはいつの間にか彼岸花が咲き、家々の庭先で凌霄花(のうぜんかずら)が揺れている。自然は既に秋へと移り変っている。頭上には行合(ゆきあい)の空がひろがっていた。

遍路道を彩る彼岸花

 今日の宿は、廃校になった小学校を地域住民の手で再生した「ふれあいの里さかもと」。料理も美味しくサービスも良いと評判だ。

 勝浦町のどん詰まりにある坂本の集落は、明日参拝する別格霊場三番慈眼寺(じげんじ)に近い。フロント、調理場、清掃など交替制で施設を守る人たちは明るく、良い気が漲っている。スタッフの多くが小学校の卒業生という。郷土愛と母校愛が廃校に新たな命を吹き込み、支えている。

 今日の宿泊者は、60代の男性Oさんと若い女性の濱嶋さん。Oさんは別格霊場だけを参っていて、明日慈眼寺を打つという。フロントの話では慈眼寺を歩いて打った人はここ数日間はいないらしい。道は荒れていないだろうかと心配していると、一緒に登りましょう、と言ってくださった。

 濱嶋さんは、連休や週末を使い「区切り」で歩いている。今回は十八番恩山寺(おんざんじ)から高知の二十六番金剛頂寺(こんごうちょうじ)までの予定だ。前年、車の遍路ツアーに参加し一巡したが、歩かなければ遍路ではないと思い一人で歩きはじめた。Oさんがビールをご馳走してくださり、和やかな夕食会となった。

 こんなに良い出会いがあっても明日になれば離れ離れになる。それが遍路だ。濱嶋さんが洗濯物を乾燥機に入れっぱなしだったことを思い出して、遍路の宴はお開きとなった。

 乾燥機が空くのを待っていた私も共に席を立った。速乾性に優れたウエアのことなど、ランドリー室で女性ならではの話に花が咲く。「膝が痛いのでサポーターをすると、汗疹(あせも)がひどくなるの。どちらを優先させていいかわからないわ」ぼやきながらズボンの裾をまくると、彼女は屈んでまじまじと私の脚を見た。「ひどいですね…。明後日の鶴林寺(かくりんじ)太龍寺(たいりゅうじ)の遍路ころがしには確実にサポーターが必要なので、明日はサポーターはやめて肌を休ませる日にしましょう!」。

 若く都会的な彼女がなぜ遍路を思い立ったのか。「お若いのにどうして歩こうと思ったの?」。彼女が言った。「母を去年亡くしたんです」。

 十年間の闘病の末だったという。「ずっと二人で暮らしてきたんで…、お骨をリュックに入れてきました」彼女の目から涙が溢れた。歩き遍路で何も抱えていない人なんていないと思います…焼山寺を共に登った智恵さんの言葉が甦る。「すみません、こんな話しちゃって」「お母様感謝されていますよ」「だったら嬉しいんですけど…」。

 「それに、あなたを守ってくださっています」自分に言い聞かせるように言っていた。二人が黙ると、乾燥機が回る音が響いた。

 部屋に戻っても彼女の涙が脳裏から消えなかった。外には見せなくても、誰もが悲しみの海を泳いでいる。溺れまいと必死でもがきながら、日々を泳ぎ続ける。いつか果てがあるのでは、と微かな希望を抱いて。陽光は等しく人生の海に注がれるが、光明は苦海にしか差さない。苦海を生きる者には仏が(とな)る。歩みを止めなければ、必ず仏は光を放つ。だから共に歩こう。同行二人、お大師様はいつも一緒だ。

 灯を消して目を瞑ると、壁を隔てた彼女の海と私の海が繋がっていった。自宅へ帰った智恵さんの海とも。この道を歩いた数知れない巡礼者たちの悲しみの海がひとつになる。そして死者の海が広がっていく。父、智恵さんの母、濱嶋さんの母、遍路で命を落とした人々…死者たちの海もまた四国には広がる。

 

曼殊沙華この世の淵に咲きにけり  まどか

 

 

*次回は、5月6日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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