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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年5月6日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第6回 「因」があって「縁」が生まれる

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

「それは自然に逆らっとるわ」

 Oさんに()き、慈眼寺(じげんじ)を目指して宿を出た。小学校の校長をされていたOさんは声が大きく、包み込むような温かさで誰とでも接する。年齢や風貌は異なるが、物腰や雰囲気が父に似ている。まず相手の意見を(うべな)うところも。

 山道への入口は雑草と藪でふさがっていた。「道標はあるけど、まさかここじゃないよね」そう言って二人で引き返すと、農作業の人に呼び止められた。「お遍路さん、そっちじゃないよ!」。

“まさか”の道が遍路道だった。Oさんが藪を掻き分けて先に進む。下草に覆われて見えなくなっていた穴に落ちた時には、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「はい、ここ滑るよ~。気を付けて」折々に私の足取りを確認してくださる。

 春の山菜を採りに、中秋の名月の七草を取りに、幼い頃よく父と山に入った。草の香、秋の声、薄紅葉(うすもみじ)通草(あけび)(くぬぎ)の実、竹の春、山粧(よそほ)ふ、いわし雲、虫の声…いま目に映るもの、耳に鼻に感受するもののほとんどが山の中で或いは俳句を通して父から教わったものだ。

 それらに触れるたびに父を感じ、父の句を口ずさむ。いつしかOさんの背中に父の背中を重ねていた。

 二時間ほどで山門に到着。参拝を終え、同じ道を歩いて宿に戻る。昼食を食べながらこれからの別格霊場について地図と首っ引きで相談する。別格札所と八十八札所は離れているところも多いので、双方を繋げて歩くのは難しい。いろいろと案じる私にOさんは温かく大きな声で言った。「大丈夫です。必ず道は拓けるから」。

 次の別格霊場へと向かうOさんと道の駅で別れ、少し早めにその日の宿に入った。玄関前の縁側で主のおとうさんが私を呼び止めた。「その脚はどうした?」。二日目にして右膝を傷めたこと、転倒したことなどを一気に話した。転ぶ直前に何か考えていたか?とおとうさん。

「引きずっているものがあるから歩きに集中できないんよ。背負ったものがどんどん重くなっているんじゃよ」

“因”があって“縁”が生まれる。それが因縁だ。因があったから、転ぶという縁に繋がった。生まれた時からの因縁、自分でつくった因縁。様々な因縁があるが、その結果人生にどういう片寄りがあるか。自分の知らないもう一人の自分を知り、清算し、浄化する。それが遍路だ。転んだ“因”を見つめることが大事だと。

 夕食後、おとうさんが脚の手当てをしてくれた。「これはひどい…。いきなり歩き出したじゃろ? 脚が怒っとるよ」。脚を休ませたいのだが、宿の予約を先まで入れてあるので当分休めない、と言うと、「それは自然に逆らっとるわ」とおかあさん。

 身体は悲鳴を上げているのに、宿の予約が優先で肝心の自分の身体をないがしろにしている。時間や約束に縛られて、お遍路にあってさえいつも何かに追われるように生きていないか。もっと身体の声に耳を澄まさなければいけない。そう言われた気がした。

 今日は遍路ころがしの二十番鶴林寺(かくりんじ)・二十一番太龍寺(たいりゅうじ)を打ち、その後大根峠を越えて二十二番平等寺(びょうどうじ)を打つ。前回左膝を傷めた場所だ。

 宿を出てすぐに男性のお遍路さんと一緒になった。通常は一日40キロ近く歩くそうだが、今日は宿まで距離が短いのでゆっくり歩くと言う。「こういうところに蜘蛛の巣があるんですよ」杖の先で蜘蛛の巣を払いながら言う。

 お遍路名物の一つ、蜘蛛の巣。朝一番に歩く人はこれを払って歩かなくてはならない。背の高いYさんはよく引っ掛かると見えて蜘蛛が巣を張る場所を心得ていた。「大丈夫ですか? 休みますか?」振り返っては声をかけてくれる。

 Yさんの足取りは軽い。遍路の直前まで、毎週末高尾山を二往復していたそうだ。準備どころか病み上がりの身で出たとこ勝負の私とは違う。

 一時間半ほどで鶴林寺に到着。「彼は歩くのが速いよ」Yさんと昨夜同宿だった台湾人のツァイ君が境内で写真を撮っていた。一旦山を下りた後、太龍寺への山を登る。しばらくは沢音に添って歩く。桜は薄紅葉になっている。木蔭と沢を抜ける風が心地よい。程なく山道は急勾配になった。

 午後1時、汗まみれで太龍寺に到着。ツァイ君は既に弁当を食べ終え、涼しい顔でこれから「舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)」へ行くという。弘法大師が虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐもんじほう)の修行をした地だ。訪れてみたいが今日の私にその余裕はない。

 平等寺道をほぼ下り終えた辺りでツァイ君が追いついた。「速いのね。どうして遍路に来たの?」突然の質問に、彼は困ったように首をすくめた。歩くのが好きなのかと尋ねると、嫌いだと言って笑う。「チャレンジです」。

 西日の差す大根峠を歩く。暑さもあってか、記憶よりずっと長く険しい。私が音を上げていると「大丈夫。必ずゴールはある!」とYさん。5時直前に平等寺に着いた。納経を終えたYさんがユーモアたっぷりに言う。「やあ、ゆっくり歩くのも案外疲れますね。だって今日は十時間歩き続けですもん」。

 同じ宿を取っていたYさん、ツァイ君と夕食を食べていると男性のお遍路さんが遅れて到着した。顔面蒼白だった。太龍寺からの山道で滑落したという。奥からおかあさんが飛び出してきた。腕の切傷から血が滲んでいる。走り根と岩で道幅が狭まっていたところで足を滑らせた。日暮が迫っていたため気が急いていたようだ。「後から来る人はいないと思ったので必死で上がりました…」。

 落石、イノシシとの遭遇、交通事故など、今の時代も遍路には様々な危険がある。この滑落にも何か「因」があるのだろうか。

人それぞれの思いを刻む「俳句の小径」

 星越峠、貝谷峠、由岐坂峠と日和佐への峠道は三つあるが、前回通らなかった旧土佐街道の貝谷峠を行く。展望台からは由岐の町とエメラルドグリーンの海が一望できた。

貝谷峠の展望台より、太平洋を見下ろす

 これほどに海にひらけた風景を見るのは遍路で初めてだ。松坂峠を下り海岸線に出たところでアジア系の若い女性が立ち止まって地図を見ていた。エミリという名の中国系シンガポール人だ。「一緒に歩きましょう」と誘うと、顔をほころばせた。田井の浜の休憩所でオランダ人のスーザンと再会した。ほとんどのお遍路さんが眺めの良いこの休憩所で時間を取る。

田井の浜(徳島県美波町)の休憩所にて

 遍路三日目に車から呼び止められたTさんから一報が入り、私が日和佐を通るのを名田さんが待ってくれていた。これが初対面だった。活動の拠点にされている近所のギャラリーの庭のテーブルには、これまでやりとりした手紙や父の俳句が掲載されている雑誌などが所狭しと並べられていた。名田さんは息子さんの死という深い悲しみを抱えながら、日々やってくるお遍路さんを接待し慰めていた。

 「俳句の小径」は、遍路にちなむ俳句を募集し、入選作数十句を木製の句碑にして白浜から山座峠手前の海岸線の遊歩道に建立したものだ。一句一句に遍路なら誰しも思い当たる光景や思いが詠まれている。

 

暮がての山路を辿る夏遍路    名田みやこ

立春の心にひびく経を読む    名田洋人

 

「俳句の小径」に並んで立つ、名田さん母子の句碑

 名田さん母子の句碑も並んで立つ。自分の余命をわかっていた息子さんはどのような思いで経を読んだのだろうか。もっとゆっくり話をしたかったが、二十三番薬王寺(やくおうじ)まではまだ距離がある。束の間の邂逅を惜しみつつ、ギャラリーを後にした。

 ボランティアで遍路道の整備やガイドをしているTさんが、薬王寺まで案内をしながら共に歩いてくださった。「本当に美しいわ! この海の名称は?」スーザンが誰にともなく尋ねると、エミリが真っ先に答えた。「チャイニーズ・オーシャン!」。私は慌てて否定した。「太平洋よ」「確かにチャイニーズ・オーシャンは日々拡がっているわね」とスーザン。

 そして私に尋ねた。「中国人と日本人は良き友人なの?」「隣人なのだから良き友人でありたいけれど、最近は難しいと感じることが多いわ」「顔はよく似ているけれど、考え方は違うのね?」「ええ、とても違うわ」そう言った時、前を行くエミリとツァイ君、Yさんの背中が目に入った。

 私はすぐに撤回した。「いえ、きっと大した違いはないわ」。スーザンがほほ笑んだ。「みな同じ人間ね」「そう、みな巡礼者」。

 午後2時を過ぎて、凪の浜辺には行き所のない熱が溜まっていた。容赦ない日差しの中を歩き続けていくと、ようやく一台の自販機があった。砂漠でオアシスを見つけたように自販機に走り寄り、順番に飲み物を買っていく。エミリがTさんに何を飲みたいかと尋ねた。「お先にどうぞ、僕は最後でいいから」。エミリは「いえ、私は飲み物は持っています。あなたに何か買いたいんです」と答えた。

 私ははっとした。誰もが暑さで自分のことで精一杯なのに、尊い行為だ。そしてそこまで思いが及ばなかった自分を恥じ入った。

 海を左手に見ながら、岬の森を行く。急に姿が見えなくなったエミリを待っていると、息を切らして追いついてきた。「ありがとう!海があんまりきれいなんで写真を撮っていたんです」。美しいものは誰にとっても美しいのだ。共に歩きはじめると、前方の木蔭でスーザンが待ってくれていた。

 

*次回は、5月20日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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