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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年6月3日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第8回 カイロスと呼べる自分だけの時間

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

ゴロゴロ浜に山頭火を重ねて

 ホテルを出て間もなく、小島と小島の間から朝日が昇りはじめた。朝焼けがしだいに濃くひろがる海を左手に、国道55号を進む。入江で今日も一羽の白鷺が羽を休めている。野根から先20キロは自販機も何もない。

 万葉集の歌碑が建つ「伏越(ふしごえ)ノ鼻」に8時前に着く。伏越とは、立って歩くことはできず這って越えるという意味で、かつての難所であったことが地名でもわかる。

 この辺りから先は波で丸く削られたごろた石(通称ごろごろ石)が転がる浜が続く。黒潮が迫って荒波が打ちつける浜辺は、命がけで越える遍路ころがしだった。

ゴロゴロ石の浜

 

伏越(ふしこえ)ゆ行かましものを守らひに打ち濡らさえぬ波()まずして

(『万葉集』巻七・一三八七)

 

 安芸郡東洋町野根字ゴロゴロ、かつては地名にもなっていたゴロゴロ浜。今日のように天候が良い日でも、波が引くたびにごろごろと大きな音を立て昔の遍路を髣髴とさせる。国道が整備された今はごろた石の浜を歩くことも波に攫われることもないが、太平洋に剥き出しになった一本道は、風雨の日や暑さ寒さの厳しい日は歩くのに難儀だ。

 生涯で二度四国遍路を試みた自由律俳句の種田山頭火も二度目の遍路でここを歩いたことを日記に残す。昭和14年10月6日に松山を発った山頭火がこの辺りを通ったのは11月初旬。甲浦に一宿し、托鉢をしながら佐喜浜まで歩いた。

 

 十一月五日 快晴、行程五里、佐喜浜、樫尾屋

すっきり霽れあがって、昨日の時化は夢のように、四時に起きて六時立つ。

今日の道はよかった、すばらしかった(昨日の道もまた)。

山よ海よ空よと呼かけたいようだった。

波音、小鳥、水、何もかもありがたかった。

太平洋と昇る日!

途中時々行乞。

お遍路さんが日にまし数多くなってくる、よい墓地があり、よい橋があり、よい神社があり、よい岩石があった。

おべんとうはとても景色のよいところでいただいた、松の木のかげで、散松葉の上で、石蕗の花の中で、大海を見おろして。

ごろごろ浜のごろごろ石、まるいまるい、波に磨かれ磨かれた石だ。(略)

(『四国へんろ日記』種田山頭火)

 

 この付近はあちらこちらに「ゴロゴロ」の名が残る。「ゴロゴロ休憩所」で今日初めての休憩をとる。遥か先に重なる濃淡の岬群は室戸岬へと連なる。明日はあの淡く滲む室戸岬の先端に立っている。小さな一歩を重ねることが、遥かな場所へと自分を運ぶ唯一の道だ。今日の道づれは土佐の海だ。水平線が弧を描く群青の海を見ながら一心に歩く。

 

(あざ)ゴロゴロ秋空に波音ゴロゴロ  まどか

 

室戸岬への道

 10時、国道沿いの四阿(あずまや)に転がり込み今日二度目の休憩をとる。左足の中指がひりひりと痛むので、靴を脱いだ。爪の付け根の赤く腫れたところに抗生剤を擦り込む。気が付けば室戸岬が藍色を深めていた。二時間でこんなにも近づいたのかと驚く。歩いてきた道のなんと遥かなことか。

 佐喜浜港では男たちが声を上げながら、クレーンで巨大な漁網を吊り上げていた。こんなに大きな網を見たのは初めてだった。空が果てしない海底になったようだ。

佐喜浜港での風景

 日盛りを無我夢中で歩いているうちに今日の宿「徳増」に到着した。前回の遍路でも二度泊まった宿で、おばあちゃんの手料理が美味しくファンが多い。海が目の前に広がる徳増で中秋の名月を迎えるとはなんという幸運だろう。今夜は月は見えるでしょうかね?と尋ねると、夕方は晴予報だったのでたぶん大丈夫だと思う、と三代目のご主人。部屋は海側だった。リュックを置き休んでいると、窓の隅に小さな蜘蛛を見つけた。

 入浴と洗濯を終えベランダから海を眺める。人気の宿なのでそろそろ賑やかになってもよさそうだが、4時を回っても静まり返っている。夕食の呼び出しがあり食堂へ下りると、誰もいなかった。

 途中で出会ったお遍路さんの何人かが、徳増は満室で予約できなかったと言っていたので、私一人ということはないだろう。狐につままれたような気分で席についた。

月夜に見た俳人としての矜持

 訊けば、地元の漁師の宴会が入ったためそれ以降の予約はすべて断ったという。私は先約だったので泊めてもらえたようだ。

 テーブルには一人分の料理が並んでいた。地魚の刺身、酢の物、魚の煮つけ、野菜のてんぷらなどいつものおばあちゃんの手料理だ。が、何か様子が違う。おばあちゃんの姿がないのだ。「あの、おばあちゃんはお元気ですよね?」ご主人に尋ねると、「それが…」と顔を曇らせた。「亡くなったんですよ、この6月に」。

 厨房で転び骨折するまでは元気で仕事もしていたのだが、入院して流動食になった途端に気力が落ち、二週間程で逝ってしまった。102歳、老衰だった。逆に言えば、寿命が尽きるぎりぎりまで現役で遍路に尽くしたのだ。天晴(あっぱれ)と言うより他ない人生だ。無性に涙が込み上げた。

人気の遍路宿「徳増」の夕食

 少しくしてご主人が息を弾ませて食堂に戻ってきた。「月が出ていますよ! サンダルを持ってきたので、こちらから出てください!」。大急ぎで外に出ると、水平線のすぐ上に夕日と見紛うような赤い月が上がっていた。「きれいですねぇ」ご主人も言葉なく月を眺めていた。

 去年はおばあちゃんも見たはずの月だ。宿も海も月も、すべては去年と同じなのに、おばあちゃんだけがそこにいない。月が美しいほどに、無常観が沸き起こった。

 食事の後、父の遺影と念珠を手に再び浜に出た。漆黒の海に一筋の金色の道を描いて、月は煌々と輝いていた。光の帯は足元から月まで伸び、この世と彼の世を繋いでいた。波音と虫しぐれが交互に押し寄せた。

 部屋に戻っても灯はともさなかった。月は眼前に上がっている。むしろ明かりは必要なかった。月光が部屋を満たし、静寂もまた部屋を満たした。

 

今生の月を見てゐる背中かな  まどか

 

 3年前の今日、父が家に帰った夜、私と妹は車椅子ごと父を二階まで運んだ。どうしても名月を見せたかった。今思えば末期癌の病人にとっては迷惑なことだったかもしれない。五分ほどだが三人で月を愛でた。いや私は月は見ていなかった。月を眺める父の背中をこの目に焼き付けようとただただ見つめ続けた。

 父はたちどころに名月十句を詠み、私と妹を驚かせた。

 

望の月上り切つたる静かさよ
四阿に十六夜の声ほのかなる
立待ちといふ楽しさに月を待つ
おのづから寝待の月となりにけり
月待つもつひの二十日となりにけり

 

 苦しいはずなのに、明るい句を詠んだ。そこはかとないユーモアまで漂う。立つことなど出来なかったのに、こころは自在に旅をし、「生」を積極的に称え、うつろう月を愛でた。残された現世での時間を透徹した眼差しでいとおしみ、慈しむ。俳人としての矜持が父に句を詠み続けさせたのだ。

 父もまた寿命が尽きるぎりぎりまで本分を全うした。そして、その日を予期していたかのように、20日の夜半に帰らぬ人となった。

 酔いが回った漁師たちの哄笑が時折階下から響く。野太い声は船上の雄姿を思わせた。一日前を行く濱嶋さんに十五夜のことを知らせると、程なくして返信が来た。彼女は昨日徳増に宿泊。今日は室戸岬を越えて岬の反対側に宿泊しているので、残念ながら月は見えないということだった。

 私が昨日泊まったホテルは海岸沿いにあったが、方向的に部屋からは月は望めなかった。つまり一日早くても遅くてもこの良夜には出会えなかったのだ。苦楽のすべてが計らいの中にあり、私はいま法悦にある。

 蜘蛛は玻璃に影を落としたままじっと動かない。

 月が遍く照らす宿で私はたった一人、亡き父と語らいながら過ごしている。ギリシャ語で「時」を表す言葉は二つある。「クロノス」と「カイロス」だ。クロノスは過去から未来へと流れる客観的な時間で、カイロスは主観的な時間をさす。今まさにカイロスと呼べる自分だけの時間が流れていた。

 

旅はほろほろ月が出た

こんやはひとり波音につつまれて   山頭火

 

 翌朝5時に目を覚ますと、途轍もなく大きな明けの明星(金星)が燦然と輝いていて、息をのんだ。音が聞こえてきそうなほどぎらぎらと瞬いていた。室戸岬の洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしていた空海の口に飛び込んだという明けの明星だ。金星は虚空蔵菩薩の化身ともされる。通常は黄色く見えるが、ここでは白く、まさに金剛の煌めきだ。

 これまで私は「星が口に飛び込む」というのは何かの比喩だと解釈していた。が、圧倒的な明星を目の当たりにした今、修行中の空海の口に飛び込んでも不思議ではないと確信した。

 前にふれたように、空海が行った虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩の真言を百日間で百万回唱えるというもの。剝き出しの自然に身を投じ、百日の間、山や海に身体を打ち付けてきた空海。金星は大宇宙の表出だった。金星が飛び込むことで、空海は大宇宙とひとつになったのだ。

 遍路行とは、大師のそうした経験に連なるものであるのかもしれない。

「いま、ここ」を生きる命の放光

 水平線の下には熱い日が隠れている。やがて土佐の海に壮大な朝焼けが広がり始めた。今日も暑くなりそうだ。

 紺碧の海を左手に山頭火の句を口ずさみながら歩く。山頭火の句は書斎で読むより旅の道すがら手に取るほうが、俄然活き活きとしてくる。空はすっきりと晴れ上がり、“青幕、天に張る”如しだ。

 大きな青年大師像が前方に見えると、程なく室戸岬に着いた。大師が修行し悟りを開いたとされる「みくろ洞」は、住居として使った御厨人窟(みくろど)と行場として使った神明窟(しんめいくつ)が海に口を開けて並んでいる。落石が多いこの場所は一時立ち入り禁止だったが、落石防護用の鉄製の屋根が新設されて入ることができる。

 神明窟の祠の前には赤い蟹が一匹、ぷくぷくと泡を吐きながら海の方を向いてじっとしていた。深い御厨人窟の奥には大国主を祀る五所神社が鎮座する。

 太平洋に突出した室戸岬の風雨にさらされた洞窟は岩を剥落させながら、ひたすら空と海に対峙する。この地で空海は斗藪(とそう)しつつ、造化に従い、海や山の恵みを得て自給自足で暮らしていたはずだ。隔絶されたこの地では生きることが即ち“行”ではなかったか。「一枝に逍遥し、半粒に自得す」(『三教指帰(さんごうしいき)』)。生きることのすべてが自然の活動と共にあり、空海の感覚器官(六塵)は研ぎ澄まされた。

「五大にみな響あり、十界に言語を具す」(『声字(しょうじ)実相義(じっそうぎ)』)。自然の一部と化した空海。彼とその他を隔てるものはなく、融合していた。洞窟をおとなう蟹のつぶやきは仏のつぶやきそのものだった。彼は蟹に“仏性”を見たに違いない。蟹のつぶやきも、波音も、星の煌めきも、仏の言葉であり、あらゆるものが真理を伝えようとしていた。この隔絶された小さな洞窟には仏の声が(ひし)めいていただろう。

 ここに立って外を見ると、洞窟は額縁となり空と海のみを切り取って大写しにする。朝日も星空も額縁の中で拡大され、水平線の上に輝く金星は、いっそう光彩を強めるだろう。

 「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか…」

 真言を唱え続けることで真空状態になった心身に、明星の光輝が迫りくるのを実感した。

 再び国道を歩きだすと漁業殉職者追慕之塔が数多の地蔵に囲まれて建っていた。この辺りは“大敷”と呼ばれる定置網漁が盛んだ。全長500メートルの巨大な網を使い複数の船で魚を追い込んでいく大敷網漁。室戸の東海岸の地形に適った伝統漁法で、全員の息を合わせての追い込み漁だ。佐喜浜で見た大きな網も大敷だったのだ。供養塔には漁師の名と共に船の名が刻まれていた。

 宴の漁師たちの姿が思い出された。あの底抜けの明るさは、かつては「板子一枚下は地獄」と称されたように、死と隣り合わせの「いま、ここ」を生きる命の放光なのだ。

 二十五番津照寺(しんしょうじ)までは旧道を行く。「昭和九年海嘯襲来地點(点)」の碑がそこここに建つ。室戸台風時、風速六十六メートルもの暴風に煽られ、十数メートルの潮津波が大きな被害をもたらした。道端で目にする碑の一つ一つが、土佐の海の厳しさを旅人に告げていた。

 津照寺は通称“津寺(つでら)”。海で働く漁師のために海上安全と大漁を祈念して空海が開創した。ご本尊は地蔵菩薩で、海難除け地蔵として今も厚い信仰を集めている。

 

*次回は、6月17日月曜日配信の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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