第9回 母のこと、父のこと
著者: 黛まどか
俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人」の日々――。
計らいは「がん封じ乃椿」
6年前の遍路でも世話になった安芸の友人宅に泊めてもらい、脚を休ませることにした。翌日は朝から篠突く雨となった。休むにはちょうど良い。母に手紙を書いたり、友人の車で買い出しに行ったりと、久しぶりにゆっくりと過ごす。
翌日はよく晴れ、早朝の空に立待月が白々と残っていた。今日は二十六番金剛頂寺を打つ。金剛頂寺の麓の行当岬には不動岩と呼ばれる窟籠りをする洞窟があり、室戸岬と行当岬をむすぶ道は、密教の「金胎不二」(胎蔵界と金剛界は別々のものではなく、一つのものであるとする)を実践した修行の場であった。
一日休んだことで膝の痛みは少し治まったが、ぶり返しはしないかと気を揉みながら山道に入る。私が今日一番早いお遍路さんだろうと思いきや、男性が下りてきた。「やあ! 女性一人でえらいねぇ!」参拝の後は通常は岬の西側へ下りるが、脚を傷めているので同じ道を下ることにしたという。
「万が一、階段でもあったらえらいことだからね」。山の階段は傷めた脚に応えるのだ。私が膝の痛みと汗疹のトラブルを抱えて困っていると言うと、「サポーターか汗疹か、どっちを取るかみんな悩むんだよね。それが遍路」と笑った。
道も同じだと言う。失敗したなと思う時もある。でも引き返すわけにはいかない。だったらよかった点を探す。自分が選んだ道なのだから。「だから遍路は一人で歩かないといけないんよ」。
金剛頂寺の山門に着いた。今日は母の半年に一度の癌の検査日だ。ご本尊を事前に調べずに来たのは、きっと何かの“計らい”があると信じていたからだ。果たしてご本尊は薬師如来であった。
母のことを祈り、御守を買って大師堂へ廻ると、なんと堂の前に「がん封じ乃椿」があった。古木の一部が祀られていて、撫でるとご利益があるという。遍路で初めて目にする癌封じだ。さらなる“計らい”に感謝する。多くの願いを受けとめてきた御霊木の瘤にそっと触れ、祈った。
膝の具合に気を付けながら岬の西側に出る山道を下り、羽根岬へと海辺の旧道を歩いていると、一台の車が急停止した。「良かったら食べて!」ソフトクリームを手にした高齢の女性が車から降りて来た。麦茶とスナック菓子もくださった。女性のおやつをすべてもらってしまうのではないかと遠慮していると、「ええが、ええが、私のはまた買うたらええだけやき!」と再び車に乗り込んだ。
その日も友人宅に泊めてもらう。膝はなんとか持ちこたえていたが、右足のかかとがひどく痛み出した。その夜は痛みで何度も目が覚めた。痛む部位は日々変わる。通しの歩き遍路では常にあることだ。
二十七番神峯寺の麓には古い街並みが続いていた。地図を開いて道を確認していると、「昔からの道は橋を渡って川を沿うてね……」と通りがかりのおばあさん。急な坂道を上ることしばし。草刈作業の男性たちが、「もう少しですよ。がんばって!」と代わる代わるに励ましてくれる。
駐車場に併設された売店で数人のお遍路さんが休んでいた。金剛頂寺への山道で出会ったあのお遍路さんもいた。「ちょうど今、あなたの話をしてたんよ」そう言うと、リュックから湿布薬を取り出した。昨夜、宿の女将さんにお接待でいただき、よく効いたので新たに買ったそうだ。「あなたにも」と湿布薬をくださった。お接待は遍路同士でも度々し合うが、一枚でも多く自分用に持っていたいはずだ。有難くいただく。
神峯寺は清浄感があり“気”が良いお寺だ。通夜堂を借りて友人が作ってくれた弁当を食べていると、壁に貼られた一文が目に留まった。
「早く歩くか、ゆっくり歩くか。何日で廻るか、何回廻るか。そんなことよりしっかり歩け。そして何かをのこせ」
その通りだ。しかし遍路同士で話していると、一日に何キロ歩くか、何日で結願したか、何回目の遍路か、そんな話題が多くなる。特に日本人は顕著だ。そして競争のように速く歩く。その結果、大事なものを見過ごしている人が多い。
ところでここ数日、この先の宿を取るために電話をかけつづけているが、どこも満室で予約が取れない。三連休が来るのだ。このままだと野宿になってしまう。札所で顔を合わせた通しのお遍路さんは、諦めて一旦家に帰ることにしたと言っていた。区切り遍路の場合はかなり前から予定が立つが、通しの遍路は脚の故障などもあるため、なかなか先の宿まで予約ができないのだ。
弁当を食べ終わると宿のリストを開き片っ端から電話をかける。ようやく一軒の民宿がキャンセル待ちに入れてくれた。
追ひかけて来て接待の柿ひとつ まどか
色変えぬ松の並木が続く琴ヶ浜を過ぎ、岸本の町に入った。「お遍路さ~ん!」呼び止められて振り向くと、庭先で作業をしていた男性が追いかけてきて柿を一つ手のひらに載せてくれた。「お接待です」。鳥肌が立った。
実はこの遍路をはじめる前に、「秋遍路」と題した十句を俳句総合誌に送っていた。前出の柿の句はその中の一つだ。前回の遍路の体験を踏まえて秋の遍路を想像して詠んだ句だったが、俳句の情景を現実の方が後から追いかけている。
男性も歩き遍路の経験があり、別格霊場も打ったそうだ。別格七番出石寺の打ち方と別格霊場のアプリを教えてくださった。「別格は良いお寺が多いですよ。出石寺もそうですが、六番龍光院もなんとも言えず良い雰囲気です」。間もなく区切り遍路を再開すると言う。「どこかで会えますね」「いえ、数日後に三十七番岩本寺からスタートするので、僕の方が先になってしまうはずです」。
ふと白衣を着た彼とばったり出会う景色が浮かんだ。俳句と同様、きっと現実の方が後追いするだろう。「またお会いしましょう」そう言って、柿を手に再び歩きはじめた。
あるゆるものに「声なき声」
今日は母の誕生日だ。89歳。父が亡くなって丸三年、悲しみを乗り越え、幾つもの重い病を抱えながらも今の状態で留まってくれていることを有難く思う。
夕刻、電話をすると、我が家に遠方から私の友人が集ってくれていた。誕生会の料理はお隣さんが作ってくれたそうだ。なんと嬉しいサプライズだろう。「私くらい幸せな年寄りはいない」母の口癖だが、電話口の明るい声を聞き、私も幸せを嚙みしめた。
10月に入って、そこここで田仕舞の煙が上がっている。父がこよなく愛した田園風景だ。そして、彼岸花に代わって秋桜をよく見かけるようになった。母が最も愛する花だ。三十番善楽寺で母の健康祈願の護摩焚きを申し込む。
高知市内への道が二股に分かれた。どちらへ行くべきか。悩んだ末にアプリのGPSマップを使ったのが間違いだった。道なき道を平気で行けという。仕方なくアプリのルートから逸れてバイパスを歩くことにしたが、並行して上に高速道路が通り、騒音と排気ガスが暑さに拍車をかける。完全な失敗だが、自分が選んだ道だ。金剛頂寺への山道で出会った男性の言葉が甦る。「だったらよかった点を探す」。
すると上を走っている高速道路で西日が遮られていることに気が付いた。もしも高速道路がなければ西日をまともに浴び続けて歩くことになる。今日の条件下ではこの道がベストだったのかもしれない。
秋遍路ひとりびとりの夕日かな まどか
遍路道からは少し離れた高知市内のビジネスホテルに、飛び込むようにチェックインした。シャワーを浴びると、洗い髪を乾かす余力もなく、エアコンの利いた部屋で転寝をしてしまった。それですっかり風邪を引いたようだ。ひどい悪寒と吐き気を催し、一晩中眠れなかった。
朝食は抜いてホテルを出たが、身体が重い。多少の不調は皆抱えて歩き続けている。それが遍路だ。
三十一番竹林寺へ向かって街中を歩いているときだった。「足取りが軽いわ! 若いがやねえ!」すれ違いざまにそう言われて、なんだか急に足取りが軽くなった。「ありがとうございます!」と笑顔で応える。見栄も大事だ。
辛いときほど笑顔で……この遍路で心がけていることだが、歩きはじめてしばらくして出会った20代前半の女性のお遍路さんから学んだことだ。
彼女は典型的な今時の若者で、地元の美味しいもの・かわいいものを常にネットで検索し、ゲームをしながら遍路をしていた。しかし、酷暑の中で、急峻な坂道で、彼女はけっして苦しい顔を見せない。むしろそんな時こそ大きな笑みを湛えていた。一度会ったきりだが、今この瞬間もとびきりの笑顔で歩いているに違いない。若い人にも見習うべき点はたくさんある。
遍路道はしばらく牧野富太郎博士を記念した牧野植物園の中を通り抜ける。お遍路さんは入園料無料だ。今日一人目の遍路と見えて、蜘蛛の巣をテープカットのように次々と切って進む。
竹林寺では法師蟬の声に迎えられた。暑くて仕方がないのだが、熱のせいか身体の芯に寒気を感じる。先ほどの空元気はあっという間に失せ、コンビニで買った昼食のおにぎりも、食べる気になれない。
下田川に架かる「遍路橋」を渡って、市街地を進む。やがて溜池の畔に出た。四阿にリュックを置くと、「秋になったねぇ」と先客の散歩の男性。池の周りを赤とんぼが飛んでいる。見知らぬ人としばし池を眺めた。
逝く夏を惜しみ、秋を迎えた感慨が小さな四阿に溢れる。「暑い秋やったけど、もう楽になるね。気を付けて行きや」。
赤とんぼ止まれば空流れ出す 黛 執
あと二週間で父の祥月命日だ。その日をどこで迎えるかずっと気になっていたが、中秋の名月と同様、あえて計算せずにいた。きっと然るべき札所でその日を迎え、供養できるに違いないと思ったからだ。しかしこの調子でいくと、札所と札所の間の移動日に当たりそうだ。
「成行きに任せると決めてきました。そしたらすべてがより素晴らしい方へといくんです!」ふとフィリップの言葉が思い返された。成行きに任せていれば、きっと計らいがあるはずだ。“どこで”過ごすかではなく、“どう”過ごすかが大事なのだ。
10月も半ばになると夜明けが遅くなり、日暮れが早まっているのを実感する。日中は相変わらず暑いが、朝晩は肌寒い日もある。三十三番雪蹊寺門前の宿を早朝に出発して車道を歩いていると、夕食で一緒になったバイクの人が追い抜いていく。「気を付けて!」。今度は自転車の人が追い抜いていった。「がんばって!」。
スマホが鳴った。キャンセル待ちの宿からだ。空きが出たというので二泊押さえた。これで三連休をやり過ごせる。二日目は脚の休息日にすればよい。
春野町に入った。田畑が広がり穏やかで美しい町だ。あちらこちらで小川が音を立てて流れている。どの水もよく澄んでいる。特別な思い入れがあり、この町を歩くのを楽しみにしていた。
父の第一句集が『春野』という書名で、さらに父が創刊主宰した俳句誌の名も「春野」だからだ。前回ここを通った折には嬉しくて父に電話を入れた。「そんな名前の町があるんだぁ」父は感慨深げに言った。
朝の虫がしきりに鳴いている。虫の声も、水のせせらぎも、通りすがりの人の何気ない言葉も、仏性の顕れであり、仏の声だ。
やがて「春野町秋山」という地名が目に飛び込んできた。一足飛びに三十年前にワープする。1994年の夏、私は角川俳句賞奨励賞を受賞した。勤めていた銀行をやめて、履歴書に「家事手伝い」と書いていた頃のことだ。これからどう生きていくべきか思い悩んでいた。
授賞式から間を置かずに初句集『B面の夏』を編み、出版してくれたのが当時「俳句」編集長だった秋山巳之流氏だ。句集は売れないという出版業界の既成概念の中で孤軍奮闘してくださり、初版2万5000部を刷った。句集としては異例のことだった。
9月に句集が刊行されると、続々と仕事の依頼がはいり、その翌月にはレギューラーのテレビやラジオ番組、それに紙誌の連載十一本がはじまった。「家事手伝い」の人生が突然一変したのだ。
「依頼は断っちゃ駄目ですよ。全部受けましょう。まどかさんなら出来る!」秋山さんは、戸惑う私を辛抱強く励ましてくれた。
古い俳句の世界に迎合することはない。俳句の骨法である「型」さえ守っていれば大丈夫だから、若さを大事に大いに冒険してと、父は陰で応援し続けてくれた。
父、そして秋山さんの存在無くしては、俳人黛まどかは誕生しなかった。二人は同時に良き師でもあった。
密教では良き師との出遇いが出発点であり、すべてであるとする。鬼籍に入った二人に因む「春野町秋山」。地名の標識は、エールの横断幕のようだ。あらゆるものに宇宙から発信される“声なき声”が現れているとする空海の教えを思う。
小流れに沿って歩いていくと、三四番種間寺に着いた。
水音に蹤く鈴音や秋遍路 まどか
*次回は、7月1日月曜日配信の予定です。
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黛まどか
俳人。神奈川県生まれ。1994年、「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 黛まどか
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俳人。神奈川県生まれ。1994年、「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)
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