第3回 「優しさの毒」が全身に回るその前に
著者: 山野井春絵
「LINEが既読スルー」友人からの突然のサインに、「嫌われた? でもなぜ?」と思い悩む。あるいは、仲の良かった友人と「もう会わない」そう決意して、自ら距離を置く――。友人関係をめぐって、そんなほろ苦い経験をしたことはありませんか?
自らも友人との離別に苦しんだ経験のあるライターが、「いつ・どのようにして友達と別れたのか?」その経緯を20~80代の人々にインタビュー。「理由なきフェイドアウト」から「いわくつきの絶交」まで、さまざまなケースを紹介。離別の後悔を晴らすかのごとく、「大人になってからの友情」を見つめ直します。
※本連載は、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています。
実年齢を聞いて、その若々しさに驚いた。艶やかなロングヘアが印象的な百合さんは55歳。現在NPOの仕事で日々忙しくしているが、結婚後は20年近く専業主婦だった。
転機は、緑豊かな地方都市で40代を迎えたころ。そろそろパートでも……と考えていたとき、ローカルラジオ局で番組のパーソナリティーを務める富美さんと出会い、アシスタントとして雇用された。憧れていた地域の有名人と友達のような間柄になり、すっかり心酔していた百合さんだが、突然、一方的に関係を断たれてしまう。
「時間が経つにつれて、あの出来事は何だったのか、彼女はどういう人だったのか、じわじわとわかるようになりました。交流した数年間、最後はとても苦しみましたけれど、私の人生にとってかけがえのない学びだと思っています」。百合さんはすっきりとした表情で話してくれた。
ラジオから流れてきた、あの人の優しい声
2歳年上の夫と知り合ったのは、都内の大学の英語劇サークルです。先に就職して地方勤務になった夫とは遠距離恋愛の後、私が卒業してすぐに結婚しました。結婚生活は人並みに、山あり谷ありですが、2人の娘にも恵まれましたし、幸せですね。後悔があるといえば、やっぱり新卒で就職をしなかったこと。いわゆる就職氷河期のはじめだったので、同級生たちからは「逃げ切って(=結婚して)よかったよ」なんて言われましたが、「私だってバリバリ働けたかも」という気持ちが、ずっと燻っていました。
夫の転勤で、何度か引っ越しをしました。甲信越地方のA市に住んだのは、私がちょうど40歳になった年です。自然豊かなA市は独特の文化もあって、とても暮らしやすい街でした。ここなら働けるかも、と思いながら、長女と次女がそれぞれ受験を控えており、なかなかタイミングが掴めずにいました。
受験勉強にはげむ娘たちに刺激され、私は近くの行政センターで開講されていた英会話サークルに通うことにしました。講師は50代イギリス人マダムのブレンダ。生徒は、ご主人が海外駐在されていた奥様や、外資系にお勤めだった方など、英会話が達者な年上の方ばかりです。最初はノートにあらかじめ作文しておくなど準備をしながら臨んでいましたが、だんだんぶっつけ本番で会話を楽しめるようになっていきました。
A市での暮らしは充実していました。家事の合間に洋書を読んでメモをとったり、ブログを書いたり。キッチンではいつもラジオを流して、毎週楽しみにしているローカル番組がありました。それはA市とロンドンの二拠点生活をしているフローラル富美さんという女性が、暮らしに役立つあれこれを優しい口調で語りかけてくれるという内容でした。
80年代のUKロックが大好きな私にとってロンドンは、ずっと憧れの街。富美先生(多くの人が彼女をそう呼んでいました)がセレクトする音楽は、ロンドンの風景、文化などのお話とぴったりマッチしていて、聴いているだけで現地に旅をしているような気持ちになったものです。先生はまた、地元の新聞やフリーペーパーなどにエッセイを寄稿することもあり、その文章も魅力的でした。先生のラジオを聴くときは、紅茶を淹れたり、スコーンを焼いてみるなどして、1人で英国気分を盛り上げていました。私は、“A市の文化人、フローラル富美”の大ファンだったのです。
「リリー」と呼ばれてその気になって
ある日、講師のブレンダがサークル仲間たちを自宅のガーデンパーティーに誘ってくれました。そこで、私は憧れの富美先生に出会ったのです。先生はシンプルな紬の着物を着て、山葡萄のカゴバッグを持ち、颯爽と現れました。山野草を生かした庭にしっくりと似合うその姿に、私はうっとりしました。サークルの先輩たちに取り囲まれる先生を少し離れた場所から眺めていたところ、「こちら、サークルの平均年齢を一気に引き下げてくれた百合さん。富美さんの大ファンで、いつもあなたのラジオを執念深くチェックしているそうだよ」と、ブレンダのご主人が冗談交じりに私を紹介してくださいました。
先生は優しい笑みを浮かべて、
「まあ、ユリさん。ユリはお花のユリかしら。リリーとお呼びしてもいい?」
先生に誘われ、東屋のベンチに2人で腰かけました。私は先生のラジオやエッセイにどれだけ影響されているかなど、熱く語りました。
「リリーは、何かお仕事はしているの?」
「恥ずかしながら、私は働いたことがないんです。今では娘たちの受験もひと段落したので、何かやってみたいという気持ちはあるんですが、なかなか一歩が踏み出せなくて」
すると先生は言いました。
「ねえ、パソコンはできる? たまに私の事務所で、お手伝いをしてくださらない? さほど高額なお給料はお約束できないけれど。英語ができるアシスタントさんをちょうど探していたところなの。あなたとなら、きっと楽しくやれそう!」
英語で仕事なんてとんでもない、とはじめは恐縮したものの、内心は飛び上がりたいほどうれしい気持ちでした。
「じゃあ、決まりね。いいご縁をいただいたわ。リリー、私はあなたよりずいぶん年上だけれど、今日からは本当のお友達よ。仕事でもプライベートでも、心を許し合って、仲良くやりましょうね」
サークルの先輩たちからは、「え〜っ、ずるい!」と声が上がりました。みんな先生とお近づきになりたくて、うずうずしていたのです。
憧れの人と「親友」になれた喜び
私は週に2度ほど先生の自宅兼事務所へと通いました。先生は大学やあちこちのサロンでイギリスの食文化に関する講座やテーブルコーディネートのレッスンを開催し、地元ラジオ、テレビ番組への出演、広告や行政のイベントなど、たくさんの仕事を抱えていました。長年秘書を務めているのは、親戚関係だという50代の二宮さん。40代にもなって初めての事務作業、電話対応の基本も知らない私を、二宮さんははじめ白い目で見ているようで、とても怖かったのですが、近眼で目つきが悪いだけでした。
通っているうちに、仕事のほとんどを取りまとめているのは二宮さんだということがわかってきました。エッセイも、先生が口頭でつらつらと話すことを書き取り、きちんと文章に整えていたのは二宮さんです。それを知って、はじめは驚きましたが、「有名人の仕事とはそういうものなのだ、私もフローラル富美というブランドを支えるチームの一員になれたのだ」と前向きに捉えていました。
3人でおしゃべりをするランチタイムが、私の楽しみでした。二宮さんは、見た目はむっつりした毒舌キャラですが、悪い人ではありません。なんともいえないユーモアがあって、私は好きでした。
そのころ私は、英会話サークルで仲良くしていた女性から急に冷たくされて悩んでいました。彼女は富美先生のファンで、私に嫉妬していたのだと思います。ランチタイムにそんな話をふと漏らしてしまい、少し後悔していたその夜、先生から着信がありました。
「リリー、今日のお昼に話してくれたこと、私もあれから色々考えたわ。でも、あなたには何も非はないと思う。うまくいかない相手のことは気にしないことよ。私、嫌いな人ってこの世に1人もいないの。心を整えていれば、嫌な感情は湧かないわ。これからも、私になんでも相談して。私たちは親友なのだから、ね」
私は、わざわざ電話をかけて慰めてくださった先生の優しさに感動しました。ニヤニヤしていると、長女が言いました。
「最近のママは、すっかり富美先生に夢中だね。ちょっと心配になるくらい」
先生とは買い物や美術館に出かけるなど、本当に友達のように仲良くしていただきました。休みの日に長電話をして、家庭の悩みごとを打ち明けたこともあります。憧れの人と友達になれた喜びに、私はずっと浮かれて過ごしていました。
初めての「打ち上げ」でチヤホヤされた夜
ある日、高熱を出した二宮さんの代わりに私があるイベントに随行することになり、その夜には打ち上げの会食が開かれました。東京から来たPR会社の方2人と企業の偉い方2人、先生と私というメンバーです。PR会社のKさんは30代、なかなかのイケメンで、先生のお気に入りでした。私も何度か事務所で顔を合わせるうちに、気軽に話すようになっていました。
その夜、初めて打ち上げに参加した私を、男性4人が質問攻めにしてきました。緊張のあまりついお酒を飲みすぎた私は、いつもより饒舌にもなっていたと思います。
「いや〜、まさかリリーさんが40代とは。僕、てっきり同い歳くらいだと思ってました。富美先生、これからイベント担当はリリーさんにしてくださいよ。こんなこと言ったらアレだけど、二宮さんじゃここまで盛り上がらないからなあ。いつもギロッと睨まれちゃって」
Kさんがそう言うと、先生は吹き出しました。
「まあ、そんな言い方だめよ、二宮がかわいそうじゃない。……でもそうね、こういう場にはリリーみたいな人を連れてきた方が、盛り上がるかしらね。二宮は、飲めないしねえ」
謙遜して俯く私に、先生はどんどん日本酒を注いでくれました。私は日本酒があまり得意ではありません。このままではまずいと思いながらも、断れず飲み続け、ようやくお開きになりました。
帰り際に先生が言いました。
「リリー、疲れたでしょう。今夜はゆっくりお休みしてね。明日、二日酔いだったら、遅刻したって構わないから、無理なく、ね」
翌日、先生の予言通り私は見事に二日酔いになり、午前中は使い物にならない状態でした。息も絶えだえに先生に電話をすると、「気にしないで! 遅刻してもいいと言ったでしょう? 私は遅刻には寛容なんだから。とにかくお砂糖水を飲んで体を労ってね」。お言葉に甘えて、事務所に着いたのは13時を回っていました。
すみません! と謝りながら入っていくと、いつもの席に二宮さんがいるではありませんか。先生は打ち合わせで外に出ているとのことでした。二宮さんはぐったりとして、頬が紅潮していました。
「二宮さん、まだお熱があるんですよね? 私がいますから、帰ってください」
二宮さんは「まだやることがあるから」と1時間ほどパソコンに向かうと、机に突っ伏してしまいました。自身の二日酔い用に持参したポカリスエットを二宮さんに飲ませ、なんとか帰宅してもらったのでした。
夕方、事務所に戻った先生にこの顛末を話すと、眉をひそめて言いました。
「来なくていいって言ったのに、あなたが遅れると知ったらどうしても出てくるって聞かなかったの。もう、ああやって無理してしまう人なのよ。リリーにも心配させてしまったわね。ごめんなさい」
帰路、二宮さんを心配しつつ、私はもう一つ何かモヤモヤしたものを抱えていました。その日の事務所の雰囲気に、何か不自然なものを感じた気がしたのです。二宮さんの体調が悪かったからだろう、と思い直し、気持ちを振り払うように近所の温泉施設に立ち寄りました。
「さてはクビになったかな?」の呪い
それから2、3回事務所へ行きましたが、特に変わった様子もなく、やはり私の気のせいだったのかとほっとしました。まもなく先生は渡英し、1ヶ月ほどロンドンで過ごすとのことで、しばらく私の業務はお休みになりました。
二宮さんからは「次の仕事のスケジュールは、帰国したら本人からご連絡します」というメールをもらっていたので、私は先生の帰りを待ちながら、のんびりした毎日を過ごしていました。
久しぶりに英会話サークルに顔を出すと、古参メンバーの男性が、「おや、珍しい。さては富美先生のところをクビになったかな?」と言い、みんなが笑いました。「ええ、まあ、そんなところです」と私は言いました。ブレンダが心配そうな顔で私を見たので、「冗談ですよ!」と手を振ると、授業がはじまりました。この時にも、なぜか胸がモヤッとしたのを覚えています。
結果的に、「クビになったかな?」という言葉は現実になりました。帰国するはずの1ヶ月以上が経っても、先生から連絡はなかったのです。帰国を延ばしたのだろうかと思っていたある日、ローカルテレビの生放送に出ている先生の姿を見つけた私は、心臓がドキッとしました。帰っているではないか、なぜ連絡をくれないのだろう? 不安でしたが、「本人からご連絡します」という言葉を信じ、しばらく待つことにしました。
連絡が途絶えて2ヶ月ほどが経ったころ、私は思い切って二宮さんにメールを送ってみました。数日後、届いた返事はこうでした。
ご連絡が遅くなって申し訳ありません。仕事のスケジュールですが、しばらくアシスタント業務の予定が立たず、お伝えできない状態です。雇用上の契約もありませんので、ご了承いただけたらと思います。今後とも、フローラル富美のファンとして、変わらぬご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。これまでのご尽力に感謝していると本人も申しておりました。ありがとうございました。 二宮拝
どれほどショックを受けたことでしょう。しばらく食事も喉を通らないくらい、打ちのめされてしまいました。なぜ突然こんなことに……このときは、「二宮さんに嫌われてしまった」からだと思いました。
私の遅刻のせいで無理に出社したあの日のことを根に持ってしまった? ひょっとして、あの日の宴席での男性たちの言葉を、先生から聞いてしまったのか。二宮さんは、自分のポジションを私に取られてしまうと恐れたのではないか。そしてあることないことを先生に言い含め、私をクビにするように持っていったのだろう……とこれが、私の推理でした。
直接お会いして、誤解を解くしかない。そう思った私は、先生に電話をしてみました。ところが、何度かけても出てくれません。二宮さんにも先生にも謝罪のメールをしましたが、返事はありませんでした。
思いがけない力で、先生と引き裂かれてしまった。悲しくて辛くて、なかなか立ち直ることができませんでした。
あの人の優しさは、毒のようなもの
それからは英会話サークルにも行く気が失せてしまい、退会を決めました。するとブレンダから「話したいことがあるから、家に来てほしい」と電話がかかってきたのです。何か、知っているのかもしれない。ぎゅっと胸が痛くなり、電話を持つ手は汗ばんでいました。
その週末、初めて富美先生と出会った庭の東屋で、ブレンダと紅茶を飲みながら話をしました。
サークルで、あなたが事務所をクビになったことが噂になっている、とブレンダは言いました。私は二宮さんに嫌われてしまったようだと、自分の推論を話しました。しばらく黙って聞いていたブレンダは、言いました。
「それは違う。二宮サンにそんな決定権はない。誰を側に置くかを決めているのはすべて富美サンよ。彼女が、あなたとの付き合いをやめることを決めたのだと思う」
え? 驚いている私の膝に、ブレンダは優しく手を置きました。
「私はそうされて傷つく人を、今まで何人も見てきた。富美サンは言葉巧みに人を操って、気に入らなくなったらチョンと切ってしまう。彼女はいつでも自分が一番でなければ気が済まない。あなたのことも心配ではあったけど、私が口を出すことではないからと黙っていたの」
先生の過去に関するさまざまな話を聞きながら、私は震えが止まりませんでした。
「……結局、富美サンと一緒にずっといられるのは、二宮サンしかいない。二宮サンは結婚もせず、すべてを富美サンに捧げてきた。真面目な人を都合よく使う富美サンを見ているのが、ずっと辛かった。だから私はなるべく深く付き合わないようにしてきたの。ロンドンにいるという彼女の家族には誰も会ったことはないし、プロフィールについても私は疑っているわ。彼女はどこか怪しい。でも人を惹きつける魅力があるのは確かね。お金を稼ぐのも上手だし」
聞けば聞くほど、混乱してきます。が、ブレンダの話には真実味がありました。
「あなたは富美サンに切り捨てられた理由を、探す必要はないわ。あの人の優しさは、毒のようなもの。その毒にいつまでも苦しむ必要はないのよ」
ブレンダに「理由を探すな」と言われたのに、その日から私は頭の中で、先生の言動の検証作業を始めてしまいました。
やはりあのイベントの夜が決定的……いやその前から、PR会社のKさんと親しくなっていく私のことが気に入らなかったのかもしれません。さらに、宴席で調子に乗った私のことが許せなかった。だからあえてお酒をたくさん飲ませた。遅刻してもよいと言いながら、実際に私が遅刻することがわかったとたん、二宮さんに連絡をして、無理やり出勤をさせた……。
ブレンダからの情報も手伝って、私の頭の中で先生の黒い一面がどんどんと膨らんでいきます。同時に自分自身を顧みては、苦しくなりました。
いい歳をして浮かれていた自分が、恥ずかしい。飲み過ぎて遅刻をするなど、あってはならなかった。それにしても、本当にあの一件だけが原因? もっとほかにミスをしていたのか。触れてはならない何かに触れてしまったとすれば、いつ、どこで、何に? 私は「無意識にそういうことをしてしまう人間」なのだろうか?
家事をしていても、車に乗っていても、そんなことばかりを考えてしまいます。息苦しさのあまり、私は先生の情報をなるべく受け取らないようにシャットアウトして過ごすようになりました。事務所付近はもちろん、一緒に出かけた場所にすら、近づくのが怖くなりました。
「私たちは親友なのだから」という先生の言葉が虚しく蘇ります。親友どころか、私は先生という人間をまったく知らなかったのです。すっかりのぼせていた自分を恥じ入るとともに、説明もなく人を切り捨てる先生の冷酷さに震えました。せめて私の悪い点をあげつらって目の前で罵ってくれていたら、楽になれたのに、と思いました。
世の中における先生のイメージは虚像かもしれない、などと誰が信じてくれるでしょうか。誰かに話せば、それだけ自分が惨めになります。孤独でした。大好きだったA市の自然すら、私を裏切ったように見えて、すごく辛かったです。
半年くらいそんな日々が続いていたころ、健康診断で早期の乳がんが見つかりました。ますます落ち込みましたが、治療の様子を記録しようと、久々にブログを書くことにしました。書くことで自分自身と向き合っている間に、「先生の仕事が終わったのも、治療に専念しろということだったのかな」などと前向きに考えられるようになりました。
それでも先生に感謝をする理由
そんなある日、携帯電話が鳴りました。画面に先生の名前を見て、全身の血が泡立つように感じました。恐る恐る出ると、あの優しい声です。
「リリー、すっかりごぶさたしちゃって。お仕事の件、なんだか申し訳なかったわね。私はリリーに続けてもらいたかったのだけど、ね……ごめんなさいね。ところで、あなたの最近のブログを拝読したの。お体、大丈夫? 心配しているのよ」
しどろもどろに、また折り返すと伝え、急いで電話を切りました。
ゾッとしました。心配なんて絶対嘘に決まっている。先生は、がんになった私を憐れみたいだけ、私が苦しんでいる様子を知りたいがために電話をかけてきたのだと、直感的にわかりました。「あの人の優しさは、毒のようなもの」。ブレンダの言葉が響きます。
その気づきと同時に、腹の底から強い気持ちが湧いてきました。「絶対にがんを完治させて、先生より楽しく、長生きしてみせる!」。治療を頑張り、彼女の毒に侵された心までも解毒して、私は生まれ変わる。そして本当にやりたいことを見つけて、有意義な人生を送るのだ。そう決意したのです。
折り返しの電話はしませんでしたし、その後、連絡もありませんでした。先生の声を聞いたのは、あれが最後です。
おかげさまで、体はすっかり元気になりました。
A市にはその後1年ほどいましたが、夫の転勤で関東に戻りました。引っ越すときは、「先生との思い出ごと、この街を捨ててやった!」となんだかせいせいした気分でしたね。
現在は友達が立ち上げたNPOで理事をしています。ほとんどボランティアですし、大変なことも多いですが、やりがいを感じています。「相手にも、自分にも嘘をつかない」が、仕事をする上での信条です。
風の便りに、二宮さんもずいぶん前に事務所を辞めたと聞きました。先生も、今は後期高齢者。最近はほとんど活動をされていないようです。
先生は私を思い出すこともないのでしょう。いろいろな思いはありますが、でもやはり私にとって先生は、あのとき必要な人でした。仕事の第一歩を踏み出すきっかけを作ってくれたこと。先生に負けないという思いで治療も頑張ることができましたし、何より、人付き合いをする上で大きな学びをくれたことに、感謝しています。あの苦い経験がなければ、今の私はない。若かったな、“リリー”はバカだったなと振り返りながら、いつか娘たちとまたA市に行ってみたいと思えるようにもなりました。
ロンドンには、いまだに一度も行けていません。あんなに憧れた街ですが、縁がなかったんだろうと思います。
(※本連載は、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています)
-
-
山野井春絵
1973年生まれ、愛知県出身。ライター、インタビュアー。同志社女子大学卒業、金城学院大学大学院修士課程修了。広告代理店、編集プロダクション、広報職を経てフリーに。WEBメディアや雑誌でタレント・文化人から政治家・ビジネスパーソンまで、多数の人物インタビュー記事を執筆。湘南と信州で二拠点生活。ペットはインコと柴犬。(撮影:殿村誠士)
この記事をシェアする
「山野井春絵「友達になって後悔してる」」の最新記事
ランキング
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール

ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら