(前回の続き)
では、私がいま考えていることをお話しして、どうしたら変えていけるのか、提言したいと思います。
いま考えていること。買い物もそのひとつですが、ホームの転落事故も様々なことを常に投げかけます。私自身、転落しそうになる「ヒヤリハッと」はいつもあります。つい最近もありました。その都度「怖かったんだ」というようなことは人に話しませんけれど、本当に消耗することなんです。青山一丁目駅での事故のあと、いろんな人が「駅員さんが駅にいればいいのに」と言いました。実は、駅員さんはいたんです。そして落ちそうになった男性を見ていました。あらぬ方向に行くのを見て注意もしました。「危険ですから、お下がりください」。でも男性にしてみたら、自分に言われているのかどうかわからない。そのときもうひとこと、「盲導犬の人、ストップ!」と言ってくれたら良かった。
でも、「駅員さんがいれば良かった」と言われるたびにいつも思うのですが、駅員さんではなくて、なぜそこにいた人、真後ろにいた人が止められなかったのか、ひとこと声をかけられなかったのか、ちょっと手をさしのべてあげられなかったのでしょうか。駅員さんはずっとその人だけを見ているわけではありません。駅員さんにすべての責任があるわけじゃない。
基本的に歩行は自己責任ですが、シーンレスにとって駅のホームは方向を見失いやすいところなので、その自己責任が果たせなくなる事態になります。なぜなら音の反響があって、自分がどこを歩いているのか、どっちを向いているのか、わからなくなってしまうから。たとえばみなさんは、歩きながら無意識に目印を探しているわけですが、そのとき、何色ものレーザー光線がパーッと入るのを想像してください。列車の反響はそんな感じです。そうするとホワイトノイズみたいになって、自分がどこにいるかわからなくなる。そのため勘違いしてあらぬ方向に行くわけです。そのとき、勘違いを直す方法が私たちにはありません。
同じようなことが雨の日にも起こります。たとえば今朝、強い雨が降りました。久しぶりにホワイトノイズ体験をしました。傘を差すと、傘にあたる雨の音で周りの音がぜんぜん聞こえなくなってしまう。すると、やったことのある方がいるかどうかわかりませんが、滝行を思ってください。頭の上に滝が落ちてきて、まわりの音がまったく聞こえない。その状態で後ろから車が来ました。よけられるか? どっちによけるか? よけると道のはじには自転車が止まっていて、私は自転車のハンドルに鞄のヒモをとられて、自転車ごとひっくり返ったことがあります。その足元すれすれのところをゴミの収集車が通っていきました。わたしはそのとき、3秒待ってくれればなぁと思いました。車の人からしたら何でもないかもしれないけれど、もしそのとき私の足が出ていたらつぶれていたかもしれない。そういう状況なのに、車は止まってくれません。それが現実です。こういうと、大変だなと思われるかもしれない。実際、大変なんですけれど、なぜこういう話をするかというと、その根っこにある問題を考えたいから。なぜ声をかけられないか、なぜ関われないか、というと、人に迷惑をかけないことにもつながるのですが、日本では関わらないことが美徳とされているからだと思うのです。
青山の駅員さんも「なぜ声をかけなかったのですか」と言われて、「うちの駅は慣れている人は見守りをしています。声をかけずに見守るようにしています」と言いました。たしかに、慣れている場所ならば声をかけられない方がいいときはあります。ただ、それは私たちが目印をもっているときだけ。本来は声をかけていただける方がずっとありがたいし、そういう場面の方が多いのです。ですから、「慣れている場所では声をかけない方がいいよね」というのは思い込みだと私は思っています。では、どう判断するか? 難しいけれど、基本的には声をかけてくれていいんです。関わらないことを美徳とするあまり、みなさん、お節介をすごく恐れる。「お節介だったんじゃないかしら、と思ったから声をかけるのにすごく勇気がいったのよ」と言われます。でも、勇気はいりません。私、とって喰ったりしませんから(笑)。では、なぜそんなに勇気がいるかというと、「ノー」と言われるのが怖いからだと思うのです。
私は基本的に「お節介」というものはないと思っています。ではなぜお断りすることがあるかというと、「お節介」だからではなくて、自分で目印をみつけた方がいい状況が私の側にあるから。私は手助けしてもらってお節介だと思ったことは一度もないし、むしろお節介してくれてありがとうと思う方がずっと多いです。
ここで、少し介助のデモンストレーションをします。私はあまり杖を前に出さずに歩きますが、杖を斜め前に出すと蹴られて折られることがあります。あるとき、勇気を出して「弁償してください」と言ったら「高すぎる」と断られたことがあります。市場で品物を値切るんじゃあるまいし、他人のものを壊したら弁償する、これは何を壊したかに関わらず基本だと思うのですが……。ましてや、白杖は命に直結する私たちの「体の一部」なのです。
話を戻します。では、声をかけるときどうしたらいいか? よく「大丈夫ですか?」と声をかけられるのですが、「大丈夫か」と言われれば「大丈夫です」か「大丈夫じゃないです」と答えることになり、大丈夫じゃないと答えると「どうしましたか」となって会話がややこしくなってしまいます。いちばん気軽なのは、「ご一緒しましょうか」だと思います。あるいは「お手伝いしましょうか」「なんか困ってますか」。
次に声をかけるタイミング。声は早めにかけてください。まさに電車に乗ろうと足をあげた瞬間に「大丈夫ですか?」と言われてびっくりし、取り乱したりバランスを崩したりすることがよくあります。これでは、本当は大丈夫なのに、声をかけられたために大丈夫じゃなくなってしまう。だからぎりぎりではなく、早めに声をかけてください。その次に、杖を持っていない側の手に肘を触らせ、つかまってもらってください。そして、半歩前を歩く。ゆっくり歩いてください。とくに男性が女性を助ける場合、歩幅が違うので、意識的にゆっくり歩いてください。いちばんやってはいけないのが、手や荷物をつかむ。あるいは抱えてしまう。介護をする人は後ろから腰を抱えてくださるんですけど、それでは逆に体の自由が奪われて動けなくなり、危険が回避できなくなります。ここが介護と介助の違いなんです。もうひとつ避けて欲しいのは、杖を持ってひっぱること。こっちこっち、と。けっこうあるのですが、杖をつかまれてしまうと、いわば受信アンテナをふさがれる状態になって困ります。
もうひとつやってはいけないのは、後ろから背中を押すこと。これもけっこう多い。「はい、どうぞ行ってください」と背中を押してくれる。親切心で、やる側は何気なく押すのだと思いますけど、押される方からするとけっこうびっくりします。自分が電車に乗ろうとした瞬間にリュックを後ろから押されることを想像してみてください。そこが、助ける側から考えるか、自分のこととして考えるかの違いなんだと思います。このように、ヘルプには「やり方」があるので、そこに気をつけないと、どんな善意でも危険な行為になってしまうことがあります。
助け方を憶えておいて、ぜひ周りをみて、困っていたら助けるのではなくて、とりあえず困っているかどうか気軽に声をかけてみてください。すると、すごく助かると思います。
考え方のこつとして、助けてあげようと一生懸命になってしまうとハードルが高くなって、断られて傷つくということにもなるので、自然に考えてください。そもそも、断られて傷つくというのが、健常者と障害者の間のハードルになってしまっている。みなさんだって、何か手伝いましょうかといわれて、いや、大丈夫大丈夫ということは、ふつうの会話としてありますよね。それと同じなんです。ノーサンキューはふつうの会話と思っていただければ嬉しいです。
気持の持ち方としてもうひとつ大切なのは、点字ブロックがあるから大丈夫、盲導犬がいるから大丈夫、駅員さんがいるから大丈夫、と、関わらない理由をみつけるのではなく、誰がいても私がやるという気持ちを持っていただけるといいなと思います。スイスでは、道を歩いているシーンレスがいると、同じ方向に行く人が自然に手を貸すのだそうです。角にさしかかると、違う方向に行く場合はさよならって手を離す。するとまた別の同じ方向に行く人が手を貸して、自然にバトンタッチしていくのだそうです。バスを降りたら同じ方向に行く人が手を貸す。それが当たり前になっているので、スイスで暮らしてきた人が東京のラッシュアワーで、誰かが杖を蹴飛ばして知らん顔で行ってしまったりするような光景に出くわすと、きっとびっくりするだろうと思います。
あるとき、イスラエルから来たダンサーの女の子に助けてもらったことがあります。彼女は当時19歳。イスラエルにいる彼氏がいま視力を失いつつある。シーンレスになりつつある。だから、私は目の見えない人をいっぱい助けるんだ、と話していました。手を引いてもらったけれど、私が英語でしゃべれるということで、彼女も私に話を聞いてもらった形になり、お互い楽しかった。彼女がこう言いました。「あなたはこの道に慣れているようだから助けはいらないかもしれない。だけど、私は助ける。なぜなら一緒の方が速いから」。つまり、困っているから助けるのではなく、困っていようがいまいが、助けられることがあるなら助けるというのが彼女の論理でした。弱い立場にあると、それですごく助かるわけです。たとえ慣れた場所でも、混雑していたり、周りに動きがあったりすれば、誰かが一緒に歩いてくれる方が助かります。手助けがない方がいいのは、自分で目印をみつけたいとき。ただし、目印はみなさんが使っているのとは少し違います。柱や床の継ぎ目や床の傾斜、壁の切れ目や隙間など、ミリ単位でも杖でなでるとわかる。そういう、目で見るのとは違う目印をみんな持っていて、それが機能しないときのために、ほかの目印もいくつかバックアップ的に持っています。ひとつわからないと別の目印、と探っていくわけです。そういうときはむしろ、道をあけて、辿りつかせてくれる方が助かります。あるいは電車に乗るときやエスカレーターに乗るとき。腰を支えられたり、背中を押されるより、自分のペースで行く方がうまくいきます。
よく訊かれることですが、電車やバスの中で席を譲った方がいいか? 私たちは杖を持っていて体のバランスが悪いので、譲っていただけると助かります。ただ、私は譲っていただけるとありがたく座りますが、人によっては、入り口付近に立っている方が周りの様子がわかって安全だということもあります。そういう人は譲られたら「結構です」というかもしれないけれど、それは「ノーサンキュー」であって、譲ったのはお節介ではないのです。お節介だったかしら、と思われたら残念な行き違いですが、それが先に言った「お節介ではない」ということです。「一駅だから譲らない」ではなく、「一駅だから譲ろう」。「誰かがやるだろう」ではなくて「私がやりたい」と思っていただきたい。そういうふうになると社会も変わっていくのではないかなと思います。
(その3へ)
撮影・菅野健児(新潮社写真部)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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