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映画の「現在」という名の最先端 ――蓮實重彦ロングインタビュー

2020年5月10日

映画の「現在」という名の最先端 ――蓮實重彦ロングインタビュー

第3回 映画には適切な長さがある

聞き手:ホ・ムニョン 翻訳:イ・ファンミ

著者: 蓮實重彦

韓国のインディペンデント映画誌「FILO」。世界各国のシネフィル(映画通)に直接原稿を依頼するという意欲的な編集方針で知られる同誌には、過去に日本を代表する映画監督である黒沢清氏・諏訪敦彦氏、俳優の加瀬亮氏らも寄稿しています。そして、最新の第13号には、長年国内外の映画批評をリードし続けてきた蓮實重彦氏のメールインタビューが掲載。今回、蓮實氏と「FILO」編集部のご厚意により、「考える人」で特別にその日本語版を公開することになりました。
 
今年84歳を迎えた「映画狂人」は、自らが体験した映画史、さらに最前線を見据えて何を語るのか? 映画時評から離れて久しい蓮實氏が現代の映画監督についても率直な評価を明かしたこのロングインタビュー、聞き手を務めたホ・ムニョン氏による充実した後記とあわせて、ぜひお楽しみください。

第2回はこちら

―先生はマーティン・スコセッシよりスティーブン・スピルバーグの方が優れた監督だと何度かおっしゃった事があります。個人的にはその見解に全面的に同意しますが、まだそれに抵抗するシネフィルも多いため、その見解やその理由についてご説明いただけないでしょうか。

―欧米の様々な映画雑誌では21世紀が始まってから10年間のベスト・リストの最上位にデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』が選ばれ、TVシリーズである彼の『ツイン・ピークス The Return』もやはり2010~2019年のベスト・リストの最上位に選ばれました(『カイエ・デュ・シネマ』は2回ともに1位に挙げました)。リンチに対して批判的な見解を述べてきた先生にとってはやや戸惑いを禁じえない結果だったのではないかと思いますが…。

―『ツイン・ピークス The Return』の例からも分かるように、もはや人々はTVシリーズをシネマの範疇に含めることについてある程度は慣れてきたように見えますが、これに対する先生のご意見を伺えないでしょうか。また、ネットフリックスなどのストリーミング配信サービスが盛んになり、映画を劇場で鑑賞することが、もはや特権的な経験ではないという考えが一般化してきたようにも思えます。このことについてもご意見をお聞かせいただけますか。

蓮實 以上三つの質問は、ほぼひとつの問いに集約されると思われるものですので、まとめてお答えすることになります。それは、フォードをはじめとする古典的な大作家たちが引退を余儀なくされた1970年代以降のアメリカ映画の現実、ならびにそれに対する世界的な評価とわたくしの評価との齟齬をめぐる質問だとも理解できるからです。それは、コッポラCoppola、スピルバーグSpielberg、スコセッシScorseseが活躍し始めた1960~70年代のハリウッドをどう評価するかという問題と考えてもよいでしょう。彼らは、いずれも大学で映画を学んでから映画界と接触を持った最初の世代にあたっており、コッポラはカリフォルニア大学、スピルバーグはカリフォルニア州立大学、スコッセッシはニューヨーク大学を出たり、中退したりしておりますが、その点で、それ以前のハリウッドの監督たちとは知的な水準において大きく異なっているとひとまずいえるかと思います。もちろん、彼らの知的な水準が、フォードやホークス、あるいはウォルシュを初めとする古典的な作家たちのほとんど肉体化された知性とはたしてどちらが真の意味で映画にふさわしいものかは、まったく別の問題なのですが…。
 その中で、個人的な好みをいってしまいますと、わたくし自身はコッポラに一番親近感を覚えていますが、それ以前に解決しておかねばならない問題があります。1960~70年代のハリウッドには、フォードやホークスやヒッチコックに次ぐ世代の監督たち、すなわち1950年代から活躍し始めた優れた監督たち、すなわちドン・シーゲルDon Siegel、ロバート・アルドリッチRobert Aldrich、リチャード・フライシャーRichard Fleicherなどといった才能ある監督たちがまだ映画を撮っていました。合衆国においても、また世界の各国でも、この三人の作家たちに対する評価がどうも一定していません。というより、ほとんどまともに評価されたためしがないといえるかと思います。
 たとえば、アメリカの映画理論家であるデヴィッド・ボードウェールDavid Bordwellとクリスティン・トンプソンKristin Thompsonの『フィルム・アート―映画芸術入門』(Film Art—An Introduction, McGraw-Hill, 2004)は、あたかもそうした作家たちの重要性を無視するかの如く、彼らにはまったく言及していません。また、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズGilles Deleuzeの『シネマI―運動イメージ』(Cinéma I, L’Image-Mouvement, Les Editions de Minuit, 1983)と『シネマII―時間イメージ』(Cinéma II, L’Image-Temps, 1985)にも、彼らへの言及はまったくみられません。しかし、ドン・シーゲルについていうなら、『殺し屋ネルソン』(Baby Face Nelson, 1957)から『白い肌の異常な夜』(The Beguiled, 1971)をへて『アルカトラズからの脱出』(Escape from Alcatraz, 1979)へといたる彼の重要な作品群を無視して、どうしてアメリカ映画を語れるというのでしょうか。また、アルドリッチについていうなら、『キッスで殺せ』(Kiss Me Deadly, 1955)から『甘い抱擁』(The Killing of Sister George, 1968)をへて『傷だらけの挽歌』(The Grissom Gang, 1971)や『カリフォルニア・ドールズ』(…All The Marbles, 1981)へといたる彼の重要な作品群を無視して、どうしてアメリカ映画を語れるというのでしょうか。さらには、リチャード・フライシャーについていうなら、『その女を殺せ』(The Narrow Margin, 1952)から『絞殺魔』(The Boston Strangler, 1968)をへて『アシャンティ』(Ashanti, 1978)へといたる彼の重要な作品群を無視して、どうしてアメリカ映画が語られるのでしょうか。1970年代のアメリカ映画を、コッポラとスピルバーグとスコセッシだけに代表させてしまったら、貧しい構図が見えてくるに決まっているではありませんか。
 現在準備中のものとして、インタビューをもとにわたくしの映画的な体験をふり返り、同時に映画といういかがわしい美学的な非嫡出子を思考するにはどうすればよいか、を論じた『ショットとは何か』(講談社、2020年刊行予定)という書物があります。全編が五章からなるその第一章は、「『殺し屋ネルソン』に導かれて」と題されています。それは、わたくしが高校、大学時代に熱狂した映画の中から、ドン・シーゲルとロバート・アルドリッチとリチャード・フライシャーの作品を選び、彼らの活劇の画面の生々しい現実をどう処理すべきかという問題意識に支えられた書物となるはずです。スコセッシに欠けているのは、まさしくショットの生々しさにほかならず、彼の画面は決まってそれに続く画面への触媒のようなものでしかない。にもかかわらず、1970年代のアメリカ映画というと、コッポラ、スピルバーグ、スコセッシに代表されてしまいます。
 わたくしは、すでに述べたように、その三人の中では、コッポラに強い親しみを覚えています。スコセッシと異なり、彼は自分自身より映画の方を遥かに信頼しており、それ故に、映画によって救われることがあるからです。映画を信頼するとは、同時に、映画には何ができないかに自覚的だということにほかなりません。スコセッシは、間違いなく映画より自分の方を信頼している。だから、映画で何でもできると確信している彼の撮った作品には、映画によって救われることがまずありません。したがって、ごく普通の場面が撮れない。あらゆるショット―構図、被写体との距離、アングル、その動き―が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。
 『タクシードライバー』(Taxi Driver, 1976)におけるマイケル・チャップマンMichael Chapmanのキャメラは、たとえば同時代のアルドリッチの『傷だらけの挽歌』における ジョセフ・バイロックJoesph Birocのキャメラや、コッポラの『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, 1979)のヴィットリオ・ストラーロVittorio Straroのキャメラや、マイケル・チミノMichael Ciminoの『ディア・ハンター』(The Deer Hunter, 1978)やスピルバーグの『未知との遭遇』(Close Encounters of the Third Kind, 1977)などでキャメラを担当したヴィルモス・ジグモンドVilmos Zsigmondに較べると、画質的に遥かに見劣りがします。被写体へのキャメラの位置や距離、あるいはその動きがにわかには正当化されがたいものばかりなので、作品から浮いてしまっている。そして、わたくしには理解しがたいのが、スコセッシがこうしたショットばかりを撮りながら、その画面の連鎖で映画が成立すると思っていることなのです。その後、ミヒャエル・バルハウスMichael Ballhausにキャメラを託すようになってからは、やや画面が落ちつきを取り戻します。『エイジ・オブ・イノセンス―汚れなき情事』(The Age of Innocence, 1993)など決して悪くはなかった。しかし、最近、ロドリゴ・プリエトRodrigo Prietoにキャメラを託してからは、またまともな画面がなくなってしまいました。『沈黙-サイレンス-』(Silence, 2016)など、ほとんどの画面が死んでいるとしか思えませんでした。
 しかし、合衆国には、スコセッシ以上に過大評価されている監督たちが少なからず存在しております。たとえば、『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of Life, 2011)のテレンス・マリックTerrence Malickなどがそれにあたります。画面設計と編集のリズムという点で、彼がマーティン・スコセッシよりも才能がある監督であるのは間違いありません。彼は、ごく普通のショットがごく普通に撮れる監督だからです。しかし、不幸なことに、彼は普通のショットとは異なる画面を撮りたがる。たとえば、『シン・レッド・ライン』(The Thin Red Line, 1998)の戦闘場面はみごとなものだといえますが、兵士の妻たちの挿話がその中に挿入され、いくぶんか非=現実的なその光景がすべてを台無しにしてしまうのです。『ツリー・オブ・ライフ』にも同じことがいえます。一応は現実的な光景と呼ばれるものの中に、ときおり想像的な光景が挿入され、それが作品から画面の緊張感を奪ってしまうのです。わたくしがテレンス・マリックを信用できないのは、むしろそうした想像的な画面の挿入にこそ自分の作品の真価があるかのように錯覚している点によります。
 ある意味で、彼は役者というものを信頼していないのかも知れません。役者への信頼とは、彼ら、彼女らの演技力を信頼することにとどまらず、彼ら、彼女らが画面上でおさまるフィクションとしての存在感に対する信頼にほかなりません。キャメラの被写体としての役者は、しかるべき芸名を持つ職業的な俳優でしかないはずなのに、撮っているうちにフィクションの人物としての枠を超えて、撮られることで未知の存在感を帯びてくる。そうした瞬間がテレンス・マリックの画面からは感じとれないのです。『ツリー・オブ・ライフ』の場合、ブラッド・ピットBrad Pittやショーン・ペンSean Pennがスクリーンで帯びるフィクションとしての否定しがたい現実性よりも、生まれたての赤ん坊の裸足の足の裏を見せることの方に遥かに力を注いでいるように見えてしまう。ちなみに、トッド・ヘインズTodd Haynesの『キャロル』(Carol, 2015)のケイト・ブランシェットCate Blanchettとルーニー・マーラRooney Maraの二人こそ、まさしく監督の役者たちへの信頼によって可能となった最近ではごく稀な例といえるかも知れません。
 フランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』(Cahiers du Cinéma)誌が2011年度のベスト・テンの2位に『ツリー・オブ・ライフ』を選んだとき、わたくしはこの雑誌に対して信頼をおくことをやめてしまいました。もっとも、その年の3位にイエジー・スコリモフスキーJerzy Skolimowskiの『エッセンシャル・キリング』(Essential Killing, 2010)が選ばれているので、まだまだ救いがありましたが、彼ら、もしくは彼女らがデヴィッド・リンチDavid Lynchの『ツイン・ピークス The Return』(Twin Peaks: The return, 2017)を2010 年代のベスト1に選んだことに、もはや驚きはありませんでした。彼らが「例外的」な作品を選びがちなことはすでに集団的に定着していたからです。逆にいえば、わたくしは決して「例外的」ではないごく普通の映画、たとえばジェームズ・キャメロンJames Cameron監督の『アバター』(Avatar, 2009)の方に遥かに親近感を覚えています。SFXを駆使していながらも、被写体である俳優たちへの、そして何よりもまず映画への信頼が画面から感じとれるからです。
 そうした意味では、この時期のアメリカ映画としては、マイケル・マンMichael Mann監督の『コラテラル』(Collateral, 2004)やジェームズ・マンゴールドJames Mangold監督の『ナイト&デイ』(Knight and Day, 2010)、トニー・スコットTony Scott監督の『デジャヴ』(Déjà Vu, 2006)などの方が、遥かに映画であることの困難と正しく向かいあっている作品として貴重なものだと思うからです。
 『カイエ・デュ・シネマ』誌の2010年代のベスト・テンのランキングに戻れば、きわめて評価の高いアラン・ギロディAlain Guiraudie監督の『湖の見知らぬ男』(L’Inconnu du Lac, 2013)が、わたくしはどうしても好きになれませんでした。男たちは確かにしかるべき存在感におさまっていますが、人里離れた湖での殺人という思いつきそのものが頭脳の産物にすぎず、映画に対する信頼があまりに弱いと思うからです。水という素材と映画との関係は複雑きわまりないものがありますが、ストローブとユイレStraub et Huilletの中編の傑作『ジャン・ブリカールの道程』(Itinéraire de Jean Bricard, 2008)でロワー河の水の生々しい存在感を見てしまっている以上、ギロディの湖の図式性を評価することはできません。映画と水との相性のよさを身をもって演じているのは、現代のフランスでは、『女っ気なし』(Un monde sans Femmes, 2011)、『やさしい人』(Tonnerre, 2013)、『宝島』(L'île au trésor, 2018)などのギヨーム・ブラックGuillaume Bracぐらいしか思いつきません。現代のフランスで評価されるべき映画作家は、『ホーリー・モーターズ』(Holy Motors, 2012)のレオス・カラックスLeos Caraxをのぞくと、ギヨーム・ブラックぐらいしか浮かびません。彼は、自分自身より映画の方を遥かに信頼しているように見えるからです。

―先生は映画の上映時間について誰より敏感な方だと思われます。「映画を作るということは上映時間という拘束を受け入れることだ」という主旨のお話をされ、90分という上映時間に対して特別な思いを示したこともありました。私たちは映画において上映時間というのはまだ付随的な問題にすぎないという考えから抜け出せていません。このことに関してもっと詳しいご説明を伺えないでしょうか。

蓮實 リュミエール兄弟Louis et Auguste Lumièreの時代から、映画はすでに時間的な限界体験としてありました。まず、一巻のフィルムの長さに限りがあったことから、撮る側を拘束するものとしてそれが存在していたことはご承知だろうと思います。たとえば、リュミエールの時代は、上映時間は一分弱がその限界でした。ところが、リュミエール兄弟が世界各地に派遣したキャメラマンたちの幾人か、たとえば日本や南米などに派遣されたガブリエル・ヴェールGabriel Veyreなどは、その時間的な限界を充分に意識しながら被写体と向きあっていたので、それぞれのフィルムはみごとに完結しています。彼が撮った作品には、キャメラを廻している途中で終わってしまったという印象がまったくありません。リュミエールが世界各地にキャメラマンを派遣して撮らせたあのごく短い作品がいまなお鑑賞に値するのは、まさしくそのためだったと思っています。
 また、ヒッチコックAlfred Hitchcockが『ロープ』(Rope, 1948)を撮る時期まで、一巻のフィルムはほぼ10分を超えることができませんでした。ですから、全編がワン・シーン・ワン・ショットであるかに見えるこの作品には、さまざまな仕掛けによってそう見せるための細工が施されていました。しかし、今日のデジタル的な撮影方法によれば、こうしたフィルムの材質としての限界を遥かに超えた長さのショットを撮ることが可能となります。たとえば、アレクサンドル・ソクーロフAleksandr Sokurovの『エルミタージュ幻想』(Russian Ark, 2002)のように、非圧縮デジタルで100分ほどを記録できるハードディスクを使えば、全編をほとんどワンシーン・ワンショットで撮ることも可能となったのです。しかし、こうした技術面での進歩に、老齢のわたくしは到底ついて行けておりません。
 そうした撮る側が感受する時間の限界体験とは別に、見せる側からの上映時間の操作というものが、それに特有の時間体験を観客に課することになります。とりわけ、1930代から50年代にかけてのハリウッドでは編集権は製作者の側にあったので、 プロデューサーが上映時間を決めていたケースがほとんどでした。たとえば、フォードの『荒野の決闘』(My Darling Clementine, 1946)など、撮影所長のダリル・F・ザナックDarryl F. Zanuckがほかの監督に撮らせたショットまで加えて編集したもので、フォードはそれを見たことがないとさえいっています。ジョージ・キューカーGeorge Cukor監督の『ボワニー分岐点』(Bhowani Junction, 1956)など、MGMの上層部がさんざん手を入れた結果、監督が納入したフィルムとはまったく異なる編集の作品としてそれは封切られたといわれています。しかし、作品の上映時間をめぐる製作陣のこうした恣意的な介在が、見るものを絶対的に拘束することになるのは間違いありません。この恣意性と絶対性との関係に映画の時間体験が露呈されることになります。どれほど恣意的に決められた上映時間であろうと、結果的には、それが観客を物理的に拘束することになるからです。
 こうした状況を考慮するなら、これから映画を撮ろうとする人びとは、自分がその製作者であるか否かにかかわらず、語るべき物語のためにどれだけの時間が必要かという問いに、たえず敏感であるべきだと思います。自分が撮ろうとしている映画が90分か、120分か、それとも180分かによって、物語の分節の仕方が異なってくるし、ショットの挿入の仕方も、またデクパージュも異なってくるはずだからです。日本の若手の映画作家たちの作品を見せてもらったときにわたくしが最初に指摘するのは、7分長すぎた、9分は削れたはずだということなのです。短すぎる失敗作というものは存在せず、失敗作のほとんどは、きまって長すぎる作品だからなのです。
 実際、クエンティン・タランティーノQuentin Tarantinoの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood, 2019)の上映時間161分は、彼自身が編集権を持っていながら、いくら何でも長すぎます。140分もあれば充分だったでしょう。かりにわたくしがその製作者だったら、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(Death Proof, 2007)の上映時間113分も、語られている内容としては上映時間100分を切れたはずですから、あと15分ほどは短くできたはずだといっていたでしょう。そうすれば、観客に、もっと見ていたいという気持ちを起こさせることができたはずなのですが、最近の作品のほとんどは、そうした期待を起こさせてはくれません。むしろ、いったいいつ終わるのだろうかというきわめて不健康な問いばかりが見ている自分をいらつかせるのです。
 わたくしが映画を見始めた1950年代では、ほとんどの作品が90分で完結していました。さきほど挙げたシーゲルの『殺し屋ネルソン』はまさしく標準的で上映時間は85分。これ以上長くても短くても、作品が異なるものになってしまうというぎりぎりの上映時間でした。他方、フライシャーの『その女を殺せ』は、まさにB級作品にふさわしく71分で呆気なく終わる。この呆気なさがたまらないのです。アルドリッチの『キッスで殺せ』は比較的長いものですが、それでも106分でぴたりと終わっています。この簡潔さを、タランティーノの『デス・プルーフ in グラインドハウス』の弛緩ぶりと較べてみて下さい。これはタランティーノの作品としては比較的短いものでありながら、やはりかったるく思えてなりませんでした。実際、現代においても、まともな映画作家のほとんどは、90分~100分で充分に語りきれる物語を撮っているはずなのです。ゴダールを見てごらんなさい。彼はほとんどの作品を90分で撮りきってみせています。しかし、最近のハリウッドの映画は、ほとんど150分ほどのものばかりです。そんなとき、デヴィッド・ロウリーDavid Loweryは、その『さらば愛しきアウトロー』( The Oldman & the Gun, 2018)を93分でぴたりと語り終えてみせる。さすが、と思います。
 いうまでもなく、その上映時間の途方もない長さが正当化される作品もないではありません。たとえば、ジャン・ユスターシュJean Eustacheの『ママと娼婦』(La Maman et la Putain, 1973)の上映時間220分を長すぎるとはまったく感じませんし、テオ・アンゲロプロスTheo Angelopoulosの『旅芸人の記録』(O Thiassos, 1975)の上映時間230分も長すぎると感じることもありません。また、コッポラの『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, 1979) の特別完全版(2000)の上映時間203分も、決して長いとは感じません。ところが、さっきもいったように、タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の上映時間161分は無駄に長く感じられてしまう。時間的に弛緩しているという印象を免れがたいからです。そのことをだれも指摘しないので、彼は増長してそれでよいと思っているのでしょうが、それは大きな問題だと思います。ですから、新人監督たちにとどまらず、タランティーノに対しても、たとえばアイダ・ルピノIda Lupinoの上映時間71分の『ヒッチ・ハイカー』(The Hitch-Hiker, 1953)を見てから映画を撮れといいたくなってしまいます。少なくとも、大学の映画学科などでは、上映時間に対するより真摯な意識を教えねばなりません。

第4回へつづく

蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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