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黒川創×行司千絵 「性」をどうやって生きてきたか

2023年3月15日

黒川創×行司千絵 「性」をどうやって生きてきたか

前篇 「フリーセックス」という時代の合言葉

著者: 黒川創 , 行司千絵

「フリーセックス」の空気が漂う70年代の京都から、好景気のなか「自立」が謳われた80年代の東京、そして#MeToo運動に世界が揺れる2020年代の現在まで――。 「性」が人生にもたらすものを歳月とともに描きだす長篇小説『彼女のことを知っている』をめぐって、京都新聞記者の行司千絵さんと作者の黒川創さんが語りあいます。

「フリーセックス」というものがあった

黒川 京都新聞文化部の記者、行司千絵さんにお相手いただき、僕の新しい小説『彼女のことを知っている』について、お話しすることになりました。こうやって行司さんとお目にかかるのは、9年ぶりかな?

 行司さんは、手づくりの服の作り手としても知られていて、『おうちのふく』、『服のはなし』という著作もお持ちです。今度の自分の小説について、行司さんにお相手をしていただいてはどうかと、とっさに思いついて、お願いしてしまいました。

行司 9年前、当時私は文芸担当でしたので、黒川さんの『京都』という小説の取材に伺ったのですね。黒川さんは博覧強記の方で、私では太刀打ちできないと思いまして、きょうは著者インタビュー公開版という形でお許しください。

 さて、主人公は1961年生まれの小暮ミツオという人です。京都生まれで、左京区界隈に住んでいて、ひとつ、小説の核となるのが「ロシナンテ」という喫茶店です。そこは、いろんな仲間たちのたまり場、緩衝地帯になっている。1970年代、ヒッピーたちが集まって、この店で過ごした青春時代、というのが第1章です。

 これは京都の方が読むと、なんとなく、ベトナム反戦運動やカウンターカルチャーの拠点になった同志社大学近くの喫茶店「ほんやら洞」のことかな、という感じですね。アメリカで1960年代から始まった性革命という概念が、そのころ、日本の若者文化にも入ってきまして、ロシナンテに集う人たちの様々な性をめぐる人間模様が描かれる。

 黒川さんは今回、なぜ「性」をテーマにこの小説をお書きになろうとしたのでしょうか?

黒川 「性」を主題にした小説は、ずっと書きたいと思いながら、なかなか書けなかった。モチーフとの距離感みたいなものが、僕には難しくて。だけど、やっと、そろそろ書けるんじゃないかな、と思った。一歩一歩、ここまで歩いてきたという感じです。

 小説を書く前に、編集者には、こういうテーマで書きたいと相談します。今回は、性について自分の生きた同時代、若いころに経験してきたことをモチーフにしたいと言いました。編集者に宣言してしまうと、僕もそれをど真ん中に置いて書くほかない。そうやって、最初に逃げ道を自分で封じて、「性」というリングの上で闘う、という感じでしたね(笑)。

行司 最初に「距離感」とおっしゃいましたが、それはどういうことでしょうか?

黒川 こっちが歳を取ってきたっていうこともあるんじゃないかな。もう男女問題を盛んに起こす年齢でもないし、自分が過去に繰りひろげてきたことが、マンガみたいに見えたりするでしょ。渦中にあると、そうやって距離を取って眺めるのは、なかなか難しいじゃないですか。

 太鼓持ちという職業がありますね。花柳界のお座敷やなんかの取り持ち役。その一人に、悠玄亭玉介さんといって、もう亡くなったけど、屏風芸が得意な人がいた。屏風芸というのは、一人でする芸だけど、屏風があって、男がその後ろに誘い込まれ、引っ張り込まれて、屏風のむこうでどうやら性行為をしている、というような芸で、一人で男同士とか男女の二役をする。卑猥といえば卑猥、そういうお座敷芸です。なんでそれを嫌味なくできるか。悠玄亭玉介さんへのインタビュー本があって、そのなかで「この歳になったから、こういう芸をやっても嫌味じゃないでしょう」ということを言っている。30年ぐらい前に読んで、それが印象に残っています。距離感って、自分の歴史に生じるものでもある。これは、若いころにはなかったものなんじゃないかな。

行司 今回描かれているのは、「ロシナンテ」という喫茶店に集う人たちです。そこでは、添加物を入れず、体にいい食材を用意して一から料理をつくる。今の時代とぴったりくるような暮らし方、考え方ですね。そこにフリーセックスという概念、いわば、自分の意志で自由にセックスできるという考えが入ってきている。けれども、自分たちの親は、昔からの性的な道徳に縛られながら生きている。例えば、婚前交渉をしないとか、離婚はありえないとか。そういう気持ちのブレとか、そこからこぼれ落ちるものを、黒川さんは小説のなかですくい上げていると思ったんです。

黒川 行司さんは1970年生まれですね。僕は61年生まれだから、9つ違う。この小説を読んでくださって、引っかかったとか、印象に残ったとか、一つ二つ挙げていただくと、どういうところですか?

行司 時代によって、性的なありようとか関係は変わっていくということに気づかされました。私の10代後半から20代のころは、まだ「25歳神話」みたいなものがあり、クリスマスケーキみたいに25歳までに結婚しなくちゃいけないとか、早く性的関係を持った方がいいとか静かな圧力のようなものを感じてました。ユーミンの曲やトレンディドラマが流行っていたこともあり、とにかく「恋をしなくちゃ」みたいなのがあって、セックスがらみの関係を持たなければならない、という呪縛、しんどさが時代を覆っていたようにも思います。

 いまはSNSが流行る時代になって、出会い系のアプリが利用されていますが、その人たちはどういう風に感じながら、相手との関係性を持っているのか。そう考えると、同じ時代には生きてはいるけれども、自分が10代、20代のころと、今の10代、20代の人では全然違っていて、皮膚感覚ではなかなか分かり合えないのかなということも感じました。

黒川 行司さんが書かれた『服のはなし』の中には、「働き始めた当時付き合ってた恋人は」というふうに、割とプライベートな男女関係がでてくる。新聞記者でそういうことを書くって、珍しいと思ったんですよ。それ自体が、僕よりずいぶん若い世代の感覚だなと感じたんですけど。

行司 9年で違いがありますか。

黒川 そうですね。行司さんの場合、高校から大学生時代がバブル景気の時期にあたるんですね。ユーミンの曲が、そのB G Mで(笑)。

 僕の場合は、働きだしてからの世間が、バブル景気だった。だから、僕みたいにフリーライターで世を渡っていこうなんて気楽なことは、行司さんよりちょっと後の世代だと、もはや考えにくいことになっていくわけですよね。

 「フリーセックス」という言い方には、1970年代くらいの時代に、いろんなことを大雑把に仮託していたんじゃないかと思うんです。僕は当事者の世代じゃないけどね。いわゆる団塊の世代、1948年前後ぐらいの生まれの人たちが、70年安保の学生運動のあと、社会のなかに身を置きながら、差しかかっていく時代に。

 僕はたまたま、子どもみたいなころから、親に連れていかれるというかたちで、喫茶店「ほんやら洞」の周囲に混ぜてもらって、垣間見ていただけだけど。当時は、大学といえば、まずは東京や京都だった。大きな都市の大学に各地から出てきて、たいがいの学生は下宿生活を送る。彼らも、田舎の実家では三世代同居したりしながら、昔ながらの道徳観念の親たちによって、育てられてきている。だからこそ、都会の大学に行って、もっと自由に生きたい。でも、いきなりこれでは、それまでの暮らしと、あまりにギャップがあるよね。その点、政治運動というのは、まだしも抽象論だから、若い学生たちでもなんとかなる(笑)。でも、ウーマンリブとか、性的自立というテーマになると、もっと実経験に照らして問題意識も生じてくるわけだから、もうちょっと社会生活を重ねた年ごろの若者たちの生き方に、関わってくる事柄だったと思うんです。

 いまから思うと、当時は、日本の社会が戦後の高度経済成長を続けてきて、オイルショックにはぶつかるけど、まだ余裕があった時代なんですよね。だから、大学を途中でやめちゃって、会社に勤めたりしなくても、なんとかなった。大工仕事の手伝いみたいなことをしながら、テント芝居の役者になろうとか。女性なら、一度は親元から離れて銀行みたいな堅いところに就職するけど、そこを辞めて、喫茶店とかスナックでアルバイトしながらボーイフレンドと暮らしはじめて、リブの集まりなんかにも顔を出すとか。「ほんやら洞」という喫茶店も、そういう若者たちが建物から自分らでつくって、そこを根城にしながら仲間たちと食べていきたいなと思って、始まる。男たちはヒゲを生やして長髪、女たちはTシャツの下にブラジャーをつけるのをやめたりして、「ヒッピー」とか呼ばれながら。そのうち、カップルのあいだには子どももできる。そうすると、もうちょっとお金も必要だからと、ほかの仕事に移ったりね。でも、ときどきはお客として遊びにきて、コーヒーを飲みながらだべっていくとか。

 「フリーセックス」というのは、そういう時代になんとなく流通した、合言葉みたいなものですね。性的自由、というのが、当事者の若者たち自身の意識には近いんだろうけど、それがジャーナリズムなんかには面白おかしく扱われて、「あいつらは誰とでも簡単に寝るらしい」とか、やっかみ半分に語られているうちにできた言葉、というか(笑)。だからと言って、誰かが、その解釈は間違っている、と抗議するようなものでもないしね。

 フリーセックスって、そもそも、なんのことかよく分からないでしょう? ただ、これには、「コミュニケーション」への願望が含まれていたんじゃないかな。一緒に寝ることで、相手とのコミュニケーションが図れるんじゃないか、とか。いまから思うと、これには、セックスというものへの過大評価があったのかもしれない。でも、お見合いして結婚するような男女関係ではなく、家父長制的な家庭を築くためでもなく、もっと違った「関係」の持ち方ができないか、という、その願望はわかるよね。アメリカ映画やフランス映画には、それまでの日本とは違った男女のつきあいかたがいっぱいあって、そういうものを参考に、新しい生き方を求めていた、というか。

行司 それが今回の創作の種になったということですか?

黒川 違います(笑)。書きたかったのは、社会状況じゃないんです。僕のような少年が、時代のなかで経験してきたのはどういうことだったのか、ということなんです。やがて少年も、20代なかばにもなったら、他人と一緒に暮らしたり、結婚したり、その生活に失敗したりする。そこから、さらに中高年期に向かっていく。人生のなかでの「性」のはたらきについて、内側から書き進んでいきたい、ということですね。

スローガンと実際の生き方のあいだ

行司 第1章に、サルトルとボーヴォワールのことをお書きになっています。サルトルは「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要があるよ」とボーヴォワールに言い、彼女のほうは「嘘をつかないという以外に、互いに隠しだてはしない」という約束を交わしたと言っています。これを読んだとき、本当に嘘も隠しだてもない男女関係を築くことなんてできるのかな、と疑問に思いました。嘘をつきたくないし、全部さらけ出すことって、本当にできればいいけど…。

黒川 それが実現することはないでしょうね(笑)。僕の両親は1950年代に学生生活を送った世代で、お袋が家の書棚に何冊もボーヴォワールの著書を並べていたり、親父がサルトルを読んでたりした。子どもからすると、こういうのって、なんか、うっとうしいものなんです(笑)。現実の夫婦としての生活では、ケンカしたり、別居したりで、この種の教養が実用的に役立ってる様子はない。

 アルバイトで置いてもらった「ほんやら洞」で、毎日の仕事はごく普通のことなんです。ちゃんとした飲み物や料理を出したい、お店の経理もあるし、掃除もしないといけない。ジーンズに洗いざらしのシャツやタンクトップの男女が、そうやって働いているだけで。

 無農薬の自然食にしようとか、合成洗剤をやめて石鹸洗剤にしようとか、大型ゴミにだされている家具をリサイクルして使おうとか、あるいは、原子力発電には反対だとか。「ほんやら洞」の若者たちが考えていたことは、21世紀の今となっては、市民社会のごく常識的な考え方になっている。でも、そういう主張が、1970年代の高度経済成長をつづける世の中では、「ヒッピー」の思想として、危険視された。たぶん、それは、モーレツ社会を支えるインスタント食品、自動車社会、さらには、資本主義の競争原理を否定するものとして、直感的に受け止められたからでしょう。たしかに、そうなんだけど(笑)。

 21世紀の成長をやめた日本社会では、むしろ、普通の市民生活のほうが、そういうものになりましたよね。男がヒゲや髪を伸ばしたり、女がTシャツの下にブラジャーをつけるのをやめたりしたとしても、あ、そうなの? と、誰も見とがめたりはしないでしょう。

 でも、当時は、今みたいに、学校でコンドームの使い方を教えてくれるような時代じゃなかった。だから、「ほんやら洞」では、自分たちで自分の体をコントロールしようと、コンドームとかペッサリーの使い方をミニコミに書いて出したり、そういうことはしていた。当時としては、こういうのも、風俗壊乱というのか、かなりに挑戦的、挑発的な行動に受け取られた。テント芝居やコンサートのチケット、ウーマンリブや公害問題なんかのミニコミを預かって売っていたりね。喫茶店という場所は、そうやって人が集まり、情報が行き交う「広場」の役目もはたしていたということでしょうね。

行司 当時、性的自立、性の解放、性革命、性をめぐる自己決定権という言葉もあった。でも、性革命って…。

黒川 何だったんだろうな、って思うんですよ。

 ヴィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』という本が当時訳されて、英語題がThe Sexual Revolution 、「性革命」なんです。これなんかが、時代のシンボルを担った。ライヒは、ガリツィア(現在のウクライナ南西部)出身のユダヤ人の心理学者で、フロイト左派って言われるような人です。だけど、読むと、ずいぶん強迫的で、僕はいい感じがしないわけ(笑)。

 あるとき、お袋は小学1年生の僕を連れて家を出て、母子2人で小さなアパートに住むようになった。共同便所のアパートです。共同便所って、めいめいの部屋から、自分で落とし紙を持って便所に行く。便所掃除の当番がときどきまわってくる。電話も共同のピンク電話でした。廊下で電話が鳴ると、誰か気が向いた人が出て、その住人の部屋まで行って、コンコンとドアをノックして「松本さん電話ですよ」と呼んであげる。住民もいろいろで、女友だち二人で暮らしてる部屋もあり、子持ちのタクシー運転手さんがいつも夫婦喧嘩してる部屋もある。壁越しに、いろんな部屋からの声が、いつも聞こえてくる。

 まあ、そういう社会。僕自身の同時代史としては、そこに「性的自立」や「フリーセックス」も置かれる(笑)。うまく言えないけど、スローガンと実際に自分の生きてる家族とか男女関係というのは、ちぐはぐなものですよね。

 僕が育った町は京都大学のすぐ近所でしたから、学生が大きなデモをするという日は、小学校も早退けで集団下校になる(笑)。日が暮れると投光器が道路を照らす下で、学生と機動隊が衝突する。それをお袋といっしょに見物に行く。催涙ガスで涙を流しながら、近所の人たちも道端からそれを見ている。そのころは、街が今よりにぎやかだった。京大前の東一条通には、手芸品店があり、化粧品屋さんがあり、喫茶店が何軒もあった。子どもの靴なんか買うにも、けっこう遅い時間まで靴屋だって開いている。アジア的な生活というか、晩飯食ってから界隈の街に出ていたわけです。住まいが粗末なぶん、外に出たくなるんだね。風呂も銭湯だったし。

 それでも、昔のほうが良かったと、単純には言えない。

 特に性の周辺には、今から考えると、口にできないことがいっぱいあったと思うんですよ。今でこそ「セクシャルハラスメント」なんて言うけど、そんな言葉がないころの男女の関わりの持ち方って、今よりずっと怖いものだったんじゃないかな。会社でも、夜に残業や忘年会なんかあると、同僚の男の人が女の人に対して、どんな態度に出るか。そういうことも含めて、自分が少年から青年になる時代、あるいは中年から高年になっていく時代は、どういうふうに過ぎてきたんだろう。僕自身も年齢を重ねていく時代を、一つの伝記みたいに描けないものか、とか。

行司 私は1993年に新聞社に入社しました。そのころもまだ、夜の取材などをしていると、普段は気にしない自分の性別に直面してしまい、緊張感を持つことがありました。小説に話を戻しますが、1980年代に入ると、「性の解放」ということを言わなくなり、流行は「不倫」になっていく、と指摘されています。たしかにそうだったなと、調べてみると、「金曜日の妻たちへ」が1983年、パート3が1985年。あの嘘をつきまくり、隠し立てをするどろどろの関係性のほうに心がビビッとなって、私もまだ中・高生でしたけど、夢中になってみていました。

黒川 僕は学生のころ、季節遅れの市民運動みたいなことにかかりきって、家にはろくに帰らなかったし、テレビもあまりみなかった。働きだしてからも、テレビを持っていないし、スマホもないし(笑)。 

 このあいだ、『彼女のことを知っている』をめぐって、韓国文学の翻訳者、斎藤真理子さんと対談したんです。斎藤さんは僕より一つ年上の、ほぼ同世代。彼女は、70年代の「フリーセックス」というスローガンは、今となると、女にとっては、「もっと話をしたい」という意味ではなかったかと言っていた。これには、なるほど、そうだったんだろうな、と腑に落ちるところがあった。つまり、時代のなかで、スローガンには言い落としが含まれている。だから、それら全体をとらえるには、あとに続く時間が必要になる。

日本文学にみる「性」の表現

黒川 半年ほど前、ここ、恵文社一乗寺店で山田稔さん(小説家、フランス文学者)と対談をさせてもらったんです。山田さんは92歳になられるけど、先ごろ自選作品集を全3冊出されて、おめでたいので、お祝いをしましょうという話を恵文社のスタッフにした。すると、「山田さんはもうじき、さらに新刊を出されますよ」というわけ。それが、映画の話の書き下ろしだった(『某月某日 シネマのある日常』)。では、その本もふくめて僕が聞き手になってお話をうかがいましょう、と。そのときの対談はいま小冊子になって恵文社の店頭に出ています(『思い出す、書き残す』、恵文社一乗寺店)。

 山田さんは、僕が『鶴見俊輔伝』とか『旅する少年』とか、ノンフィクション調のものを書くとほめてくださるけど、小説を書いたらいつも叱られるわけ(笑)。とくに最近の小説は、性的な場面について「なんで君はそんなことばっかり書くんや」と。今回の小説も「今度は『旅する少年』みたいにほめるわけにはいかない」とハガキをくださった。性的なものの露骨さというかね、こういうのは未成熟というか、こなれていないと。生のまま、このように書くのはいかがなものか、ということだと思うんです。

 もう一人、海老坂武さん(フランス文学者)は、今年89歳ですけど、サルトルなどを訳してこられた。海老坂さんは、今度の小説をおもしろかったと言ってくださった。構成がおもしろくて、第4章は自分も気になるフレーズがいっぱいあった、とか。海老坂さん自身、『シングル・ライフ』など、プライベートな個人史も書いてきた人で、男女関係について、おのずとそういう観点が入ってくるのかもしれません。

 山田稔さんは、性的なことを書くなとおっしゃっているわけではないと思うんです。日本文学の伝統にも、そんなものはいっぱいある。永井荷風にもある。荷風を尊敬している野口冨士男も、戦争がきらいで、彼の性的なものに根を置いた抵抗に信頼を寄せている。鶴見俊輔さんは、こうした心情を「セックス・ヴァーサス・ステイト(国家に対立するものとしての性)」と述べています。これをよすがに生きた作家たちは、そのあとの野口冨士男、古山高麗雄から、ずっと降って中上健次あたりにも続いていく。

 野口冨士男は、岩波文庫の『永井荷風随筆集』の編者にもなっています。野口自身の作品では、『なぎの葉考』がよく知られている。中上健次らしい年下の作家に紀州の新宮を案内してもらうと、神社にご神木のなぎの木がある。その葉を指で割いて、「ほら、女性器みたいでしょう」って、その男が示してみせる。先輩格の野口は、この言葉から若いころ恩を受けた娼婦のことを思い出す。その女性を鏡にして、自分の卑小さというか、卑小なものへのこだわりを映す。単なるセクシズムとはいえない、日本文学独特の掘り下げ方が、そういうところにあるわけですね。

 成熟した日本の近代文学における性って、考えてみれば、娼婦などいわゆる水商売の玄人の女をめぐる世界に、男である自分が入っていき、それを直視する、みたいな伝統が一つ。もう一つは、たとえば谷崎潤一郎には、あまり玄人の女性というのは出てこなくて、むしろ素人の女性との深み。奥さんになる松子さんとかね。『陰影礼賛』を書いた人だから、そこに筆をつくして、独特の、あからさまじゃない、淫靡な、性的な雰囲気を描く。

 さっきのフリーセックスと何がちがうのかというと、この二つの範疇の日本文学の伝統は、男女の対等の性とは隔たった世界なんです。そういうものではない。谷崎の場合、これがマゾヒズムに結びついているわけですけど、どちらも、男女のあいだにある不均衡なもの、そこから描いているわけですね。ポリティカリー・コレクトで対等なものを書いたらいいというものではないにしても、そういう性的意識の視点から書こうとした作品は、日本の近代文学の始まりから1970年代ぐらいまで、ほとんどなかったんじゃないかと思う。

 ことさら性というのではなく、日常記録をモチーフとしたような小説のなかには対等なものもあると思うんだけど、でもそうすると、ふつうの小説になるんだよね(笑)。家庭を持って、見たところ平和に過ごしているのに、なかなかうまくいかない、とか。つまり、ここでは、「小説」という屋台骨の地下に「性」というモメントは埋設されていて、そこから地上の世界に見えざる磁場を及ぼす、というような構造になっている。だから、「性」そのものは、生身の姿を現わさない。これが作品としての成熟だという見方を取るなら、たしかにそうでしょう。ただし、じゃあ、「性」という主題は、もっと真正面から小説で扱いようがないのか。こういう課題が、1970年代以後、日本でも新しく浮上してくる。女性の作家で言うなら、富岡多恵子とか、そのあとの世代の津島佑子なんかが登場してきて、それまでの「女流作家」とは明らかに異なる、「女性作家」の時代になることとも、照応していたんじゃないかな。

行司 対等でありつづけようとしながらも零れ落ちる悲しみ、気持ちとかを、今回の『彼女のことを知っている』で、すくいとられたのかなというふうに感じたんです。文章で書かれていたのは「革命、反革命、カタストロフがある。だが、その先に希望を見るか、悲観、絶望と無関心に帰結するかーー。これを分けているのは、結局、それらの報道に各人が接するときの、社会の景気次第なのではないか」と書いていらっしゃって、そこがひとつの肝かなと思いました。性のありようも、色濃く社会の影響を受けている。ただそれに気づき、俯瞰して見つめるというのは、ある程度の歳月が必要で、リアルタイムでいま生きていてもわからない。いま、黒川さんは60代でいらっしゃいますが、10年、20年経ったところから当時を見つめられたことで、社会とのかかわりが見えてくるのかなとも思いました。

彼女のことを知っている

黒川創/著

2022/12/21発売

公式HPはこちら

(「後篇 若いころの「無為の時間」こそ今の財産」につづく)

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

日米交換船

2007/05/25発売

行司千絵

1970年生まれ。同志社女子大学学芸学部英文学科卒業。京都新聞文化部記者。独学で洋裁を習得し、自身や母など家族、友人・知人の服を縫う。これまで3~93歳の約80人に290着の服を製作。著書に『服のはなし―着たり、縫ったり、考えたり』『おうちのふく―世界で1着の服』『京都のシェフに習う お料理教室』。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

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1970年生まれ。同志社女子大学学芸学部英文学科卒業。京都新聞文化部記者。独学で洋裁を習得し、自身や母など家族、友人・知人の服を縫う。これまで3~93歳の約80人に290着の服を製作。著書に『服のはなし―着たり、縫ったり、考えたり』『おうちのふく―世界で1着の服』『京都のシェフに習う お料理教室』。


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