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黒川創×行司千絵 「性」をどうやって生きてきたか

2023年3月15日

黒川創×行司千絵 「性」をどうやって生きてきたか

後篇 若いころの「無為の時間」こそ今の財産

著者: 黒川創 , 行司千絵

「フリーセックス」の空気が漂う70年代の京都から、好景気のなか「自立」が謳われた80年代の東京、そして#MeToo運動に世界が揺れる2020年代の現在まで――。 「性」が人生にもたらすものを歳月とともに描きだす長篇小説『彼女のことを知っている』をめぐって、京都新聞記者の行司千絵さんと作者の黒川創さんが語りあいます。

「前篇 「フリーセックス」という時代の合言葉」はこちらから

はずかしいけど、実践するのが思想

行司 「♯MeToo運動」のことも今回盛りこんでおられます。女子高生が公衆トイレで赤ちゃんを産み落とし、そのまま殺めて、女性は逮捕されるけど、現行法の枠組みでは相手の男性は罪に問われないというご指摘もありました。たしかに逮捕の記事でも、女性が死体遺棄の疑いで逮捕されたと書きます。死体遺棄は刑法で禁止されているので、それに基づく報道ですが、女子高生の逮捕だけを報じるのではなく、なぜそうなったのかを、相手の男性にも話を聞き、経緯や背景も伝えて、ともに考えることを忘れてはならないと思います。

黒川 ふつう新聞業界は「裏をとれ」ってさんざん言うんだから、どういう経緯でそうなったかは、記事そのものには書かないまでも、記者自身はわかってないと困るところじゃないでしょうか。

 同時に、マスコミという業界それ自体が、相当にマッチョな体質で来てしまっているということもあると思います。伊藤詩織さんの事件みたいな、ああいうことをやりかねないのは、あの男だけじゃないでしょう。似たようなことが、表立たないところで繰り返されてきたんじゃないかと思います。

 とくに新聞記者は夜も仕事するし、お酒も飲む業界だから、女性の記者は厳しい世界を生きなきゃならない。それも含めて行司さんは、自分の社会人として生きてきた経験から、思うところはありませんか?

行司 入社したころ、「ミニスカートをはいてきたら情報を教えてやるよ」「ぼーっとしてないで、早くお酌をせんか」と言われたり、肩を触られたり手を握られたりしました。それは、女性の記者だから、という理由だけで、要求した男性は、日常で出会ういわゆる普通のひとでした。今も心にざらっとした痛みがあります。

黒川 また別の話ですけど、たとえば「フリーセックス」って、一種の文語体だったんじゃないかな、という気もするんです。文字で、スローガンにして、ミニコミに書いたりしたかもしれないけど、日常生活で、たとえば「ほんやら洞」みたいなところでも「フリーセックスについてだけどね…」って、声に出して議論しているのは聞いたことがない(笑)。

 1970年代、「同棲時代」というマンガがはやったけど、一緒に暮らしている男女、夫婦でも、性のことってどんなふうにしゃべっていたんだろう? ボブ・ディランに”Lay,Lady,Lay”という曲がある。「寝よう、レディ、寝よう」だよね。それから「メイク・ラブ」という言葉がある。1960年代のアメリカ映画でも、市民生活のなかで女の子を口説くようなとき、このセリフが出てくる。愛を作ろう、って、これはもう直接に、性交しよう、っていう意味ですよね。それにあたるような言葉として、親父とお袋はどんな言葉でしゃべっていたんだろう(笑)。

 「ほんやら洞」の男女も、なんとなく関係が始まっちゃうだけで、そのことを自分たちでどう話していたか。実は、あんまり口に出しては言わなかったんじゃないかな。

行司 恋人とですか?

黒川 そう。行司さんはたとえば、恋人とどんなふうにしゃべったとか、ある?

行司 えっ!? この場で打ち明けよ、ってことですか?(笑)

黒川 僕はあんまり言わなかったと思うんだよ。

行司 たしかにさまざまなものが辻褄も合わず、偶然に重なり合っていくような…。

黒川 うん。一杯ひっかけて、なんとなくしゃべるとかね。よくないけど、適当にごまかしていたような感じもするわけ。あるいは、雰囲気?

行司 言葉にならないものがなんとなくあって…。そこにえいやーと飛び込むか、飛び込まないかはシチュエーション次第であったり、相手と本人の気持ちとか、すごく繊細なものが幾重にもある。

黒川 こういうことって、それなりに時間かかるよね。

行司 議論をして、ではそうしましょうか、ということではないですね。

黒川 ないけど、一緒に暮らしたりしたら、それを克服しなきゃいけない場合もあるじゃない。考えのずれとか。それはある種、苦労するっていうか、いろんなことを考えなきゃいけない場面だと思うんです。きっと今の時代は、僕なんかが若かったころより、ずっと当たり前のこととして、カップルが自分たちの体やセックスについて、話ができるようになってはきてるんじゃないかな。だとすれば、それは、いい面での変化だね。

 僕は「思想の科学」という雑誌をやっていた。この雑誌をつくった哲学者の鶴見俊輔さんは、1922年生まれなんです。1946年に創刊し、1996年までの50年間、刊行していた。雑誌を続けていくには世代交代も必要だから、僕はずいぶん若いときから編集委員に引き入れてもらって、「上の世代に遠慮しないでいいよ」と、けしかけられて誌面づくりをやっていた。でも、性のことでは、いろいろ衝突があったんです。

 斎藤綾子という小説家がいて、僕が学生時代に『愛より速く』という自伝的な作品で注目された。性行動が自由な人なんだよね。そういうことをずっと小説に書いているけど、父親はずいぶん父権主義的な人だったらしい。だから、父親の生前、彼女は長女として家族の面倒をみたりして、20代で結核になって、結核病棟に入っているんだよ。病棟の中でも、若いし、性をめぐる行動は継続していく(笑)。そういうことを『結核病棟物語』という小説として「思想の科学」で連載してもらった。品切れになっていた『愛より速く』も、思想の科学社から復刊したり。すると、鶴見さんは「安田武が死んでてよかったよ」って、しみじみ言っていた。

 安田武さんは、鶴見さんの古くからの仲間で、伝統的な美意識を大事にする人なんだよね。ところが、あるとき、中尾ハジメという若者が「思想の科学」誌上で「おまんこ」という言葉を書いた。中尾ハジメは、ライヒの『性と文化の革命』の訳者で、「ほんやら洞」の創立メンバーなんだ(笑)。そしたら安田武が「自分は、こんな下品な表現をする雑誌は許せない。おれはやめる」って言ったの。そのとき、安田さんは、きっと鶴見さんが自分を引き留めてくれるだろうと考えていたと思うんだ。旧友だからね。でも、鶴見さんはそういうとき、引き留めない人なんです。だから、思想の科学研究会を安田さんは一回やめた。あとで、それとなく帰ってきてくれたんだけど。

 そういうとき、鶴見さんは古い友情というものに対して、禁欲する人なんです。自分ではよくわからなくても、若い人が「フリーセックス」みたいなことを書いたら、それを抑制させるんじゃなくて、そっちに票を投じるべきだ、という考えに立とうとする。だけど、ご自身は1922年、大正生まれの上品な人だから、自分では「おまんこ」とは書けない。せいぜい「体の一部がもりあがって」っていうふうに書く。どういう意味かと思ったら、勃起のことなんだよね。不自然さは引きずるけど、思想というのはこういうものだ、現代を生きるというのはそういうものだ、ということでしょう。自分のなかにいろんな自己規制のコードがあって、無意識に書かずに済ませてきた問題があるということに、向きあっていこうという態度ですよね。

 鶴見さんは、あるとき、自分がベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)とかの運動に家族中を捲き込んだことで、奥さんに負担をかけて、心臓も悪くさせてしまったことに気がついて、自分も家事をやるべきだと思ったらしい。それで、毎日皿洗いをしながら、もし家族との関係が悪かったら、こうやって皿を洗ったりしていると、自分のなかに黒いものがたまるなと実感した、と。自分は大学を辞めた。でも、妻は大学で働いて家計を支えてくれている。そうしたこともあって、鶴見さんは「思想の科学」に書いた文章の末尾に、肩書を「主夫」って書いてきた。僕はまだ若かったから「鶴見さん、主夫なんて言っても料理つくれるんですか? できないでしょう」とか、冷やかしてしまった。そしたら次の号の肩書は「主夫見習い」にしてきた(笑)。これには凄みがあるよね。

 はずかしいけど、やっぱりやる、ということに思想の問題は宿っている。新聞記者だって、記事では割愛せざるをえない領域についても、自分用の宿題として覚えておく、というのが大事なんじゃないかな。

行司 そうですね。

黒川 僕がお説教みたいなことする問題じゃないけど(笑)。説教じゃなくて、はずかしいことを引きずろうという…。

行司 真摯にうけとめております。

黒川 真摯に?(笑)。こんな対談になるとは思わなかった(笑)。

「オートフィクション」として

行司 京都を舞台に、「ロシナンテ」と「ほんやら洞」を重ねたりされていますが、このさまざまな性の形は、京都だから書きやすいということはありますか?

黒川 それもあるかもしれないけど、小説の仕立ては、そのときそのとき、作品と作者の距離感の取り方によって選ぶものですからね。海老坂武さんは、『彼女のことを知っている』について、「オートフィクション」という言い方をして、そういうものとして読みました、という批評をくれた。〝自伝的な虚構〟あるいは〝私的虚構〟とでも訳せばいいのかな。ふつうは自分と同世代に近い主人公でも、あえていくらか年齢をずらして、それが距離感になったりするけど、今度はわざと誰が見ても黒川本人のことやろっていう設定にして、そこに物語の仕組みを入れていこうと。そうすることで、主題に正対しながら書く、ということですね。僕は10代を実際に京都で過ごした。だから、自分と同寸の着ぐるみをつけて、その街を動いているような感じですね。

行司 私は家が奈良なので、奈良には「ロシナンテ」とか、「ほんやら洞」はない。よく考えたら京都は大学がいくつもあり、独特なんだなと思ったので、あえてうかがいました。

黒川 京都で暮らしていると、急に誰かと、今から会おうかっていうことになっても、徒歩や自転車で出向ける。お酒飲んでも、夜が明ける覚悟があれば、伏見でも歩いて帰れる。東京だったら、街が広すぎて、アポイントメントをとってなければ、簡単には相手と会えない。その点、京都は集いやすいし、大学がいくつもあるから若者も大勢いて、ある種の呑気さがありますね。古い都市なので、互いの距離の取り方には、クールなところもあるし。生まれてから青年時代までずっと過ごすと、どこに行っても同じような顔ぶればかりだという息苦しさがあったけど、いったんこの街を離れて、60歳になって戻ってきてみると、大人になってから暮らすには気楽でいいと思いますね。

行司 服のはなし』という本を書いたんですけど、自分自身の痛みの部分も含めてさらけだすというのはけっこうしんどい。書いているときはそうでもなかったんですけど、その後、しんどかったんやなと気づかされ、回復するのに1年かかりました。今回、性という問題を書かれるというのは、ある種しんどいことではなかったのかなと。虚と実を織り交ぜるとはいえ、消耗するのではないかと思ったのですが、そのあたりはいかがですか?

黒川 まあ、60代になって、ある程度は痛みに鈍くなっているっていうか、ずうずうしくなっていることもあるでしょうね。でも、注意していないと、恣意的になりかねない。相手の女の人について、彼女はこう思っていたとか、こう話したとか、作者は何だって書けます。でも、そこは自制を怠らないように注意しました。ある程度、主人公に対して、冷たい風を送りながら書く、ということかな。主人公の視野には入らない領域が存在している。それを読者に感じさせるように描きたかった。
 僕の場合、若いうちには、この題材で書けなかったと思う。だからこそ、いつか書きたいと思って、これまでの作品でスケッチを重ねてきた。自分にとっては順番があったんだと思います。

行司 必然的な。

黒川 そうですね。そろそろやれるんとちゃうかな、という感じ。

行司 新聞記事って、なにがニュースか結論をまず書きます。逆三角形の形なんですね。本も、おなじ調子で書いていたら、編集者から「先に結論があると、読んでいてもおもしろくない」と指摘を受けて、ハッとしました。それ以降、記事と本の文体を書き分けるようにしています。黒川さんは評伝と小説の両刀使いでおられますけど、事実をいろいろ展開していくという意味で、評伝で書くことと創作というのは、ぜんぜんチャンネルが違うと思うんですが、そのスイッチの加減はどうなっているんですか? 創作脳と評伝脳というのがあるんですか?

黒川 僕は給料がないしね、どうにかこの稼業でやっていこうとすると、常に働いていないといけないんです(笑)。ただ、30代から40代にかけてのころは、それどころじゃない。小説を書けるようになるまで、評伝、評論は禁欲しようと思って、書いていなかった時期があります。小説を書きはじめたけど、うまく書けないから、当面は小説だけをやろうと思って。でも、そんなことはずっとやっていられない。自分の残り時間も、限られてきているからね。

 一本の小説を書ききったら、井戸の水がなくなって、もう小説なんて書きたくない。書く材料もないしカラカラって感じです。だから、また水がたまってくるまでに、別の仕事をしておこう、というふうにして、小説と評論的な仕事、交互に書いている。自分の時間をぎっしりつかって、いつも何か仕事をしているっていう日常ですね。そうやって、評伝などの仕事がなんとか出来上がってきたころには、またもう一度、小説として書きたいことがあるというような気持ちになっているんじゃないでしょうか。いつまで、これでやれるかわからないけど、もう一つ二つやっておきたいという気持ちでやっている。

行司 そんなにすぐ、水ってたまります?

黒川 あまり意識していないけど、日ごろ、なんとなく気になって少しずつ調べていることとか、あれこれ考えていることとか、常にいくつかあるでしょう。そうしたもので、書かずにいられなくなったものから、順次発車させる、という感じでしょうかね。これだって、積み重ねの結果なんじゃないかな。

 干刈あがたさんという小説家が昔いて、40代でガンで亡くなった。彼女は、離婚して男の子が二人いて、そこから本格的に小説を書き始めた人です。もともと彼女は、むしろ民俗学的な仕事をやっていた。ご両親が奄美の沖永良部島の出身なんです。彼女自身は東京生まれで、父親は警察官になってるんだけど、ある季節になると、どこか似たような面立ちの人たちが彼女の家に寄ってきて、よくわからない南のほうの島言葉で話している。この記憶が気になって、やがて親たちの郷里を訪ねて、島唄を採集する初期の仕事が始まるんです。

 でも、小説家としては、『ウホッホ探検隊』とか、自分の離婚後の子育て経験を小説にしている。僕はまだ若かったから、「思想の科学」で彼女にインタビューしたあと、「干刈さん、ほんとうは僕、どうしても自分が書きたいことってないんじゃないかなという気持ちがよぎったりするんだけど、そういう感じはないですか?」って尋ねた。そしたら「若いあなたはそうかもしれない。でも私の場合は、離婚するまでずっと黙っていなければならない暮らしだったから、書きたいことがたまっている。だから、私は書きたいことから逃れられない」って答えてくれた。つまり、彼女の場合、水はまだまだあった。汲みつくす前に亡くなっちゃった。そういう人と話をすると、あだやおろそかにこの仕事をしていられない、という気持ちになるね。

 僕は40代ぐらいまで、小説を書こうと思っても腕がついていかずに、ただ考えて、書いては消し、という時間が長かった。そういう無為の時間が、自分にとっての財産になっているんじゃないかという気もする。勤めないまま、たいした量の仕事もできずにきたことで、長持ちだけはしている、というところなんじゃないか。若いときはもっと散漫に仕事をしていたとも言える。だけど、そうすることで勉強していく、何かを知っていくしかないからね。

行司 専業作家であるということ自体、すごいと思います、この時代に。

黒川 ふふ…ありがとうございます。よく貧乏に耐えますね、って言っているんでしょ(笑)。

行司 いやそういう意味じゃなくって! ネット小説も含めると、今は毎日、あふれるように本が出されていますが、専業作家で食べていけるのはごく限られたかたですし、小説を書くというのは大変ですから。今回、水はつかいきられましたか? このテーマでずっと書きたいと思っておられて。

黒川 ここまで生きててよかったなと思った。一応、これで、今死んでも大丈夫だと(笑)。あとは遊撃戦というか、一個、一個、やっていこうと。失敗するかもしれないけど、ハードルの高さを自分に設定して、やってみるしかしょうがないんじゃないでしょうか。もうちょっとやってみたいと思っています。

キャンプで娘と話されること

行司 お書きになられた直後ですけど、次はなにかご予定は?

黒川 「図書出版みぎわ」という新しい出版社をつくる人がいる。僕の『旅する少年』を担当してくれた編集者ですけど、彼がひとり出版社を作って独立するので、そこの創刊の本を。書き下ろしで、この春に出してもらいます。

行司 すぐに春ですね、もう。

黒川 そうですよね。『世界を文学でどう描けるか』というタイトル。まだ終わってなくてね。

行司 小説ですか?

黒川 一種のメモワール(回想)ですね。紀行と考証というか。20年前にサハリンに行った話と、サハリンに行ったあと、『イカロスの森』という小説を書いたんだけど、うまく書けなくてね。そこから、もう一度、文学というものは何によって成り立っているのか、考えなおしたこと。

 サハリンって、よくわからない場所だった。初めて行く土地だし、ソ連の社会主義体制が壊れて、しかも、資本主義の社会もまだできていないような時期でした。自然環境も、日本とはぜんぜん違う。ああいう北の地方の海べりで、もし大型タンカーみたいなものが座礁して原油が流れ出したら、自然の分解力が微弱だから、致命的な環境破壊になると思う。

 まだやり残していることを、自分に鞭を入れながら、もうちょっと続けていきたいな、と。でも、焦りすぎると、心のこもっていないホンガラ をつくりかねないから、そこは気をつけながら、薄氷を踏みつつ、なんとか渡っていく感じですね。

恵文社 『彼女のことを知っている』の第2章「海辺のキャンプ」のなかに、大学生の娘さんがでてきます。黒川さんの実際の娘さんはまだ小さいけど、実際にその年になったら伝えたいことなのでしょうか。

黒川 そうかもしれないけど、自分用の仮設の問いみたいなものじゃないでしょうか。これから成人していく若い人から、もし何かを問われたら、うまくは答えきれなくても、返事はしないといけない。それは、ここまで生きさせてもらった人間の務めだと思うね。だから、気構えとして、こういうやりとりが、僕のあたまをよぎる。海老坂さんは「自分の娘がその年になったら、と考えながら、楽しみながら書いたな、と思って笑いました」って手紙をくれましたけど(笑)。

 では、あとは、この小説を読んでみてください。ありがとうございました。

(2023年1月20日、京都・恵文社一乗寺店にて)

彼女のことを知っている

黒川創/著

2022/12/21発売

公式HPはこちら

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

日米交換船

2007/05/25発売

行司千絵

1970年生まれ。同志社女子大学学芸学部英文学科卒業。京都新聞文化部記者。独学で洋裁を習得し、自身や母など家族、友人・知人の服を縫う。これまで3~93歳の約80人に290着の服を製作。著書に『服のはなし―着たり、縫ったり、考えたり』『おうちのふく―世界で1着の服』『京都のシェフに習う お料理教室』。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黒川創

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。99年、小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』『彼女のことを知っている』、エッセイに『旅する少年』など。最新刊に『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)。

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1970年生まれ。同志社女子大学学芸学部英文学科卒業。京都新聞文化部記者。独学で洋裁を習得し、自身や母など家族、友人・知人の服を縫う。これまで3~93歳の約80人に290着の服を製作。著書に『服のはなし―着たり、縫ったり、考えたり』『おうちのふく―世界で1着の服』『京都のシェフに習う お料理教室』。


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