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横田南嶺ほか『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧』試し読み

2021年7月28日

横田南嶺ほか『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧』試し読み

人生に夜があるように

それでも、大切なものは何か――。10人の僧侶が未曾有の難題に挑む!

著者: 横田南嶺

「不要不急の外出」「不要不急のイベント」など、コロナ禍で盛んに喧伝されるようになった「不要不急」の四文字。はたして、何が“要”で、何が“急”なのか? その意味が曖昧なまま言葉は独り歩きし、もはや我々の行動のみならず存在にまで深く突き刺さる状況になっています。はたして、人生において真に大切なものは何か――。この難題に10人の僧侶が挑んだ『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧』(新潮新書)。その中から、臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺師の論考「人生に夜があるように」を公開いたします。

横田南嶺、細川晋輔、藤田一照、阿純章、ネルケ無方、露の団姫、松島靖朗、白川密成、松本紹圭、南直哉不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧

2021/07/19

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「風車風が吹くまで昼寝かな」

 言葉というものは、ある特定の物や、事象を表現するために用いられるのでしょうが、言葉が一人歩きしてしまうこともあります。

「不要不急」という言葉などもそのように思います。何が不要不急なのか、誰にとっての不要不急なのか、同じ人であっても、どのような場合に不要不急なのか、変わってくるはずであります。それを一つの言葉にして論じるのは難しいものです。

 平成の時代が終わりを告げ、令和という新しい年号の幕開けに皆希望を抱いたものです。しかし、令和2年はきっと後世、歴史に残る年として語られるのではないかと思います。

 この年、新型コロナウイルス感染症が蔓延してゆくに随って世の中は急激に変わりました。そんな中で、忙しくなった方と仕事がなくなった方がいらっしゃると思います。
 初めて緊急事態宣言が出された時には、「不要不急の外出は控えてください」との言葉によって、「不要不急」と思われる行事はほとんど行われなくなってしまいました。

 スポーツ、芸能などは、不要不急とされたのでしょう。最初の緊急事態宣言下ではほとんど自粛となってしまいました。

 その反面で、医療関係の方や、流通に携わっておられる方、それに役所の方々は、より一層忙しくなられたのであります。そんな方々には頭の下がる思いがしたのでした。

 私はというと、令和2年の222日に愛媛県伊予郡砥部町にある坂村真民記念館で講演をしたのを最後に、9月まですべての講演、法話、研修会、坐禅会がキャンセル、もしくは翌年に持ち越しになりました。ぎっしりと詰まっていた私の予定表は、すべて空白になりました。「不要不急の催しは控えるように」との一言で、私の予定はすべて消えてしまいました。自分の行ってきたことは、不要不急であったのだと身に沁みました。

 そのときに何を思ったかと言いますとまず「風車風が吹くまで昼寝かな」という廣田弘毅の一句であります。ジタバタしても仕方在りません。外出の必要が無くなりましたので、しばらくは畑を耕していました。禅寺のもともとの暮らしに帰ればいいのだと思っていました。

 しかし、次第にただ畑を耕して自分だけ満足していては申し訳ないと思うようになりました。医療従事者をはじめ行政の方や流通に携わる方や、多くの方々が一所懸命に働いてくださっていることにしみじみと感謝し、このたびの感染症でお亡くなりになった方のご冥福と、感染症の収束と、現場で働いてくださっている方々のご健康を祈ることの大切さを実感したのでした。

 かつては、皆で集まって祈ることができ、その祈ることによって、大きな力を得られたものです。東日本大震災のあとはまさにそうでした。祈りの大切さを学んだのでした。被災地で祈り、或いは鎌倉で祈り、多くの方が集まり、心を一つにして祈ったのでした。

 ところが、今回は集まることができなくなり困りました。そこでやむなく、動画という新しい媒体を利用しながら、祈りの心を届け、加えて毎月の法話などを配信するように努力しました

 私は京都の花園大学の総長も兼任していますので、毎月京都に出講して、月に一度の講義を担当していました。

 これも令和2年前期はオンラインでの授業となりました。各学校でも、オンライン授業という新たな取り組みに、先生方はたいへんなご苦労をなさったようであります。学生さんたちもまた、学校に行けずに毎日パソコンやスマホで講義を受けるという不自由な中を辛抱せざるを得なかったのでした。令和2年に大学に入学した生徒さんは、入学式も無く、キャンパスに入らないまま1年を終えた方も大勢いたのでした。

 寺の坐禅会も当分開催を見込めなくなりました。円覚寺の坐禅会は、大勢の方が集まってくれる人気のあるものでしたが、その人気があって大勢集まることが、今回あだになったのです。そこでついにオンライン坐禅会というものにも挑戦してみました。

 オンラインには、はじめ抵抗がありました。坐禅は、オンラインの電源を切ることから始まるのだと思っていたのです。

 これらの新しい試みは、既に円覚寺に来られていた方のみならず、まだ来たこともない方、私の話を聞いたこともない方、坐禅をしたこともない方も参加されたりしました。そうして、お寺で催していた頃よりも遥かに大勢の皆さんに、新たなご縁を結ぶことができたのでした。

 どんなに思いもかけない状況になったとしても、そこで何ができるかを工夫することは決して無駄ではないと思いました。

 そんな次第で、「不要不急」という言葉にはいろんな事を考えさせられました。「不要不急」という言葉を広辞苑で調べてみますと、「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」と書かれています。急いでする必要もない、どうしても必要というわけでもないという微妙な言い回しであって、まったく要らないといっているわけでもなさそうなのです。

「不要不急」の我が人生

 思えば、私の今日までの歩みは「不要不急」であったと思います。「不要不急」のことに打ちこんできたと言っていいでしょう。幼少の頃に、身内の者の死に遭い、死とはなにかと疑問を持って、坐禅の道に解決を求めました。中学生になってからは、禅問答の修行も正式に始めました。俗に訳の分からぬことを「禅問答のようだ」という、あの禅問答です。中学生の時に始めて、今日に到るまで、四十年以上も行ってきました。中学高校の頃はまわりの仲間たちは、皆受験勉強に熱心でありました。しかし、私は受験勉強や偏差値で人を評価するようなことには疑問を持って、そんな周囲の者たちには一人背を向けて坐禅に打ちこんでいました。受験が急務であるはずの高校生にとっては、全く「不要不急」である坐禅に打ちこんできたのでした。

 大学を出てからは、修行道場に入って雲水修行を十数年行ってきました。学校の友達などは、皆社会で活躍しているというのに、ずっと草鞋を履いて托鉢しては、坐禅するという暮らしをしてきました。

 30代の半ばで、師家という役に就きましたものの、檀家もわずかしか無く、修行僧の頃と同じ暮らしを続けてきたのでした。誰にも顧みられることのない、「不要不急」の暮らしでありました。

 45歳で、円覚寺派の管長に就任してからというもの、少しは世間に関わるようになってまいりました。それまでずっと「死」について考えてきて、誰からも相手にされなかったのが、「死」について講演をして欲しいなどと頼まれるようになってきました。

 とりわけ東日本大震災のあとからは、講演、法話などにも力を入れてきました。おかげで円覚寺には多くの方々が集まって私の話を聞いてくださり、坐禅をしてくださるようになりました。頼まれては外にも講演に出掛けるようになったのでした。

 ところが、そんなことはすべて「不要不急」として無くなってしまったのでした。「不要不急」の我が人生が、少しはお役に立つようになったかと思い始めた頃でした。あたかも、長い間かけて築き上げた砂の山を一気に流されたような思いでした。

「仏法は障子の引きて峰の松」

  この頃、こんな言葉を思い起こし、口ずさんでいました。

「仏法は障子の引きて峰の松火打袋にうぐいすの声」というものです。これは、高校生の頃によく口ずさんでいた歌であります。

 和歌を思い出したものの、どこに書いてあったものなのかは忘れていました。今の時代ですと、すぐに検索するのでしょうが、私の頭の中で、どこで見た言葉なのか気になっていました。しばらく考えている内に、高校生の頃に山田無文老師の本で見たような気がしてきました。更にしばらく考えていると、『碧巌物語』という本にあったように思い出して、書庫から捜してきました。

 山田無文老師の解説を読んでみます。

「『仏法は障子の引きて峰の松火打袋にうぐいすの声』と古人は歌った。障子の引き手は、綺麗に張られた障子の一コマにわざわざキズをつけるのであるが、このキズがないと大いに不自由である。峰の松は何百年来切って用材に使うことのない、いわば無用の長物であるが、この無用の長物のためにどれだけ往来の旅人が慰められ、道を教えられ、勇気づけられたことであろう。

 火打袋は今日のマッチやライターのごとく軽便に行かぬので、はなはだ厄介千万な代物だが、愛煙家にはどうしても欠くべからざるもの、これを忘れた時の淋しさ不自由さは譬えようもないであろう。また鶯がどんな良い声で鳴いたとて、銭もうけにも腹のたしにもならんが、この何にもならぬ鶯の声が、如何ばかり人生を和らげ潤おしてくれることか。

 考えてみれば仏法というものも、所詮障子の引き手のごとく峰の松のごとく、はた火打袋か鶯の声のごとく、無用の長物に過ぎん。しかしこの無用の用こそ人生にとって最も大切なものだというわけである」という解説でした。

 松原泰道先生も『文藝春秋』(20081月号)で当時の東京都知事だった石原慎太郎さんと対談された時にこの和歌を引用されています。松原先生の解説も参照してみましょう。

「仏教は、障子の引き手や峰の松、火打石を入れる袋や鶯の声のように、なくても困らないが、それがあることによって、そのものの動きがよくなる。仏教は生きるための必需品ではないけれど、あればより人生が崇高に価値あるものになる」というものであります。

 私が高校生の頃、この歌に心ひかれたのは、単に世の役に立てばよいという考えに反感を持っていたからでしょう。まわりの者が皆受験勉強に熱をあげている時に、誰にも見向きのされない坐禅に打ちこんでいたのもそのためです。

 老荘思想では、「無用の用」ということが説かれています。一見無用に思われるものが却って役に立つということなのです。

 粘土をこねて器を作りますが、中央のくぼんでいる空間があってこそ、器としての用をなしているのです。戸や窓によって部屋が作られますが、中の空間があってこそ、部屋の用をなしているのです。このように、何かがあって利益がもたらされるのは、何もないところに効用があるからなのだというのです。

 たしかにどんな立派な茶碗でも中が詰まっていれば何にもなりません。一番大事なのは中のカラッポの部分であります。部屋でも建具や柱が大切なのは言うまでもありませんが、中の空間が大事なのであって、有が役に立つのは、無があるからだというのであります。

「有の利を為すは無の用を為す為」

 このように、一見役に立たないものが、却って役に立つことがあるのです。円覚寺の門のところに猫がおります。もともとお寺では、動物を飼ってはいけないという決まりがありました。この頃は犬を飼っているお寺もありますが、お釈迦さまは禁じられました。ただ猫は例外だったと教わっています。ねずみが増えて大蔵経など、大切な宝物をかじって仕方の無いときには、猫を飼ってねずみよけにしてもいいというのでした。この頃の猫は、随分上等な餌をいただいているので、ねずみを捕るようなことは少ないと思います。円覚寺の猫にしても、いつも餌をいただいていますのでねずみは捕っていないと思います。何かの役に立っているのかというと、観光客の人気者、人気猫だというくらいなのです。しかし、あの猫が門のところにいると、それだけでホッとします。緊急事態宣言がはじめて出されて、境内に来る人が誰もいなくなった時などには、いつもと同じようにたたずんでいる猫を見ますと、それだけでホッとしたものです。

 効率のいいもの、生産性の高いものばかりを追い求めていては、心が窮屈になってしまいます。「有の利を為すは無の用を為す為」だということがあるのです。

 夜眠ることなどもそうでしょう。ずっと昼間ばかりで、働き通しで働いて考え通しで考えていたら、人間はおかしくなってしまいます。

 無用というとお花などもそうかもしれません。別段花があろうが無かろうが、食べられるわけではありません。しかし、花が咲いていると心が和みます。仏教では花は大事なものであります。お墓にしてもお仏壇にしてもお花を供えます。お墓にお花を供えても、夏の暑さの中ではすぐに枯れるだけです。無用といえば無用かもしれません。しかし、お花を供える心というものは、決して無くしたくないものです。

 仏教はお花に縁が深い教えです。まずお釈迦様がお生まれになった時に、花が降り注いだといいます。お釈迦様のお生まれになった日を花まつりといってお祝いします。お釈迦様が花を拈じて迦葉尊者に示したのが禅の始まりです。お亡くなりになるときには、沙羅双樹が時ならぬのに花を開いたと言います。

 お互いの人生においても、花を贈ることは多くあります。お墓やお仏壇だけではありません。お祝いに花を贈ります。お見舞いにも花を贈ります。大切な人にも花を贈ります。別にお腹の足しになるわけではありません。たまに講演会などで花束贈呈というものがあります。私などはもらっても後で困るだけなのですが、それでも嬉しいものです。

 大乗仏教の教えは華厳の教えが究極だと言われています。私のいる円覚寺にしても華厳の教えを具現化して建てられたものです。華厳という言葉は「雑華厳飾」といって、さまざまなお花でこの世を飾るという意味なのであります。まさしく無用の用によってこの世を飾るのであります。

 かつてYouTubeの円覚寺のチャンネルで、龍雲寺の細川晋輔老師と対談した折に、「不要不急」について語り合いました。細川老師もまた、坐禅会など自分が力を入れてやっていたことがすべて中止になってしまい、「不要不急」だと落ち込んだらしいのですが、この「不要不急」こそが人生を豊かにするのだと気がついたと仰せになっていました。まさにその通りであります。

「宗教は夜のようなもの」

 令和3年、年が明けると再び11の都府県に緊急事態宣言が発令されました。

 2回目の緊急事態宣言は、1回目の時とは趣が異なり、主に飲食店に関する規制でありましたので、多くの人の受け止め方も変わってきました。

 27日の毎日新聞の「記者のきもち」というコラム記事に「『不要不急』ではない」という題の文章がありました。

「落語なんて不要不急ですからね」と、緊急事態宣言が出たばかりの1月上旬、横浜の高座で噺家が本題に入る前の枕でこぼしたという話から始まります。

 その記者の方は、「正月明けの冬休みに予定していた旅行は、宣言が出てキャンセル。暇を持て余していたところで、以前から興味のあった横浜にぎわい座に行こうと思い立った。代わる代わる繰り広げられる小咄に声を上げて笑った」、そしてこんな笑いによって、「すさんでいた心に明るさが戻った」と書かれていました。

 そして最後に、「落語のような娯楽だったり、気晴らしの酒だったり。コロナ禍の下で『不要不急』とされることが多いけれど、そんなことはない」というのでした。

「不要不急」といい、「無用の長物」といわれるのでしょうが、その無用なものが、毎日の暮らしを支えるもとにもなるのであります。「不要不急」「無用の用」を楽しみ、大切にする暮らしを今一度考え直してみたいと思うのであります。コロナ禍でそんなことも思うようになりました。

 そんなことを山田無文老師は次のように説かれています。

「無用の長物」と題するコラム記事であります。古い新聞の切り抜きで、何新聞でいつのものかも分からなくなってしまっていますが、良い言葉と思って、書き取っていたものです。

「人生に夜のあることはうれしいことである。どんなに仕事の好きな人も、夜は仕事を忘れて眠る。どんなに金もうけの好きな人も、夜はその貪欲をわすれて眠る。どんなに学問の好きな人も、夜は本を書棚におさめて眠る。生命をかけた戦場の勇士も、夜は銃をまくらにしてしばしまどろむであろう。

 宗教の世界も、夜のようなものではなかろうか。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、善き者にも悪しき者にも、神は同じく雨を降らせたもう。世の成功者も、ここではその誇りを忘れて平凡な人の子となり、世の敗残者も、ここではその失意を忘れて、神のふところにいだかれる。

 宗教の世界とは、夜のごとく争いと裁きの憂いのないやすらぎの世界である。

 宿題宿題で先生には鞭うたれる。勉強勉強で家庭では尻をたたかれる。友達は見向きもしてくれない。今ごろの高校生には、心の安まる夜がないようだ。そこで一朝つまづくと、とりかえしのつかんことにもなろう。

 大事な人生に、夜が半分もあるのは、無駄のようである。忙しい今の世の中に、静かにすわる宗教などは無用の長物とも思われよう。しかしその無駄が決して無駄ではないことを忘れてはなるまい」というのであります。

「無分別」に触れる

「不要不急」が無くなってしまっては、人間は疲弊します。夜が無くなって昼だけになったら、疲れ果てるようなものでしょう。

 たとえ「不要不急」と言われようが、やはり人間は穏やかな気持ちになる時が必要です。では、いったいどんな時に穏やかな気持ちになれるのでしょうか。

 静かに大空を仰いだ時、広い公園で大木を見上げた時、清流を見た時、浮かんでは消える雲を眺めている時、花が咲いているのを見た時などいろいろあります。花といっても、枝振りを整えて活けられた花よりも、野に咲く花がいいと思います。

 他にも、赤ん坊を見る時、なんとなく穏やかな気持ちになるものです。人見知りをするようになってからよりも、まだそんな意識もない頃の子どもの表情を見ていると穏やかな気持ちになります。

 子犬や子猫を見る時、これも穏やかな気持ちになれます。これらの時というのは、「不要不急」に入れられることでしょうが、無くては息が詰まるものです。

 そして気がついたのは、この私たちを穏やかな気持ちにしてくれるものというのは、皆「無分別」であることです。

 花が咲くのも無心です。枝を整えようなどという計らいのない無分別がいいのです。赤ん坊も、人見知りをするような分別意識のない無分別であります。子犬も子猫も全く無心そのものであり、無分別です。

 無分別に触れると心が穏やかになるのだと気がつきました。それは、なぜかというと、無分別こそがお互いのふるさとなのだと思うからです。

 人間は、あれこれ分別して生まれてきたのではありません。大自然の大いなるはたらきのままに、即ち無分別のはたらきによってこの世に生まれてきています。

 その無分別に触れた時に、人は穏やかな気持ちになり、笑顔になれるのだと思います。毎日の暮らしに笑顔もないと息が詰まります。

 笑うという言葉の語源について、諸説あるようですが、「笑う」は「割る」から派生した言葉だといいます。根っこに、固く結んだものが割れる、ほころぶという意味が潜むというのです。

 だから顔をほころばせることを笑うというのです。花が咲くことも、笑うといいます。つぼみが割れて開くことになるからでしょう。

 分別意識に固まっている心が、割れて開かれる時に、笑うのでありましょう。ですから、笑うのは無分別であります。

 山田無文老師の説かれた「夜の世界」というものが、「無分別」の世界です。もっとも穏やかな気持ちになれる世界なのです。

「不要不急」という言葉によって、「無用の長物」が排斥されたり、「無分別」が避けられたりして、分別の世界ばかりになってしまうと、穏やかな気持ちから遠ざかってしまいます。ギスギスした世になってしまいます。いじめやハラスメント、更には犯罪も増えることになりかねません。

 夜は何もかも忘れて眠る、時には静かに坐ってみる、空を見上げて微笑む、野に咲く花を見て微笑む、そんな穏やかな気持ちになる時を大切にしたいものです。

 山田無文老師が説かれたように、人生に夜の世界は必要です。今の世に、「不要不急」の僧が集まって、「不要不急」の本を出すという、こんなことも必要なのかもしれません。有り難いことなのだと思うのであります。

(つづきは本書でお楽しみください)

横田南嶺、細川晋輔、藤田一照、阿純章、ネルケ無方、露の団姫、松島靖朗、白川密成、松本紹圭、南直哉不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧

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横田南嶺

臨済宗円覚寺派管長。花園大学総長。一九六四年和歌山県生まれ。大学在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年より円覚寺僧堂で修行し、1999年、円覚寺僧堂師家に就任。2010年、同管長に就任。2017年、花園大学総長に就任。著書に『自分を創る禅の教え』『禅が教える人生の大道』『人生を照らす禅の言葉』『十牛図に学ぶ』(以上、致知出版社)、『仏心のひとしずく』『仏心の中を歩む』(以上、春秋社)などがある。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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