コザの名店「チャーリー多幸寿」の勝田さんは、喜界島の出身である。どんなところか、少し案内させていただきたい。
喜界島は奄美大島から東へ30キロ、今なら飛行機で15分、フェリーで2時間の小さな島である。本土の人からすれば、奄美全体は「なんとなく沖縄的」ではないだろうか。少なくとも私はそう感じていた。
しかし奄美は、とりわけ喜界島は、意外と「日本(ヤマト)」に近い。
地理的には鹿児島と沖縄の中ほど、やや沖縄寄り。「琉球弧」と呼ばれる列島で同一文化圏とされるが、行政上は鹿児島県だ。歴史的にも、長く薩摩の直轄地だった。さらに最近の研究では、喜界島は古代から日本と交易し、奄美大島との間のわずか30キロの海が中世「日本」の境界だったと考えられている。
喜界島らしき島が最初に記録されたのは10世紀末、右大臣藤原實資の日記『小右記』。奄美大島から侵入した者が、今で言えば強盗放火および大量拉致事件を起こした知らせに朝廷が大騒ぎになった。そして大宰府が喜界島に奄美大島の討伐を命じた、と『日本紀略』にもある。
平安貴族が愛用した螺鈿(らでん)細工や鼈甲(べっこう)細工には、この喜界島の夜光貝やタイマイが使われた。牛車の屋根をふく枇榔(びろう)、山伏のほら貝も送られた。都の贅沢品の原料を調達する地だったのである。
島流し先としても知られる。一番の有名人は、『平家物語』をはじめ多くの物語や戯曲に登場する俊寛だろう。平氏打倒を企んだ「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者として1177年に流されたのが、鬼の字を書く「鬼界ヶ島」だ。恩赦にもならず島に置き去りにされたと伝わる。
逃亡・潜伏の地でもあったのか。『保元物語』では、伊豆大島で死んだはずの源為朝が「鬼が島」や「鬼海島」に渡ったとする異本があり、喜界島にも為朝伝説がある。壇ノ浦の合戦の年には200人の落人が喜界島に来たとも伝わる。
1227年以来、奄美全体が薩摩の所領だったが、15世紀半ばに琉球に統一王朝ができ、毎年のように来襲。喜界島は奄美大島が降伏しても20年近く抵抗し、ついに敗れた。そして約150年の琉球統治を経て、1609年、島津藩が琉球侵攻して奄美を奪い返す。明治維新で鹿児島県になり、敗戦後は沖縄とともにアメリカ統治下、1953年、沖縄から切り離されて本土復帰した。
つまり、奄美は「日本(やまと)の境界」だった。特に喜界島は、奄美大島とも少し異なる歴史と文化をもつ。そして、チャーリー・勝田さんの意識では、ご自身は当然「日本人」である。
勝田直志さんは、1924年7月、喜界島の志戸桶に生まれた。当時の島の大半と同じで、家は農家。小学校3年の時、父が40歳の若さで病死してからは畑仕事の働き手だった。「体が丈夫なのは、子供の頃から畑をしとったからですよ」と勝田さんは得意そうに胸を張る。86歳で足を骨折する前は、毎日、店まで2キロを歩いて通い、自分で生地の仕込みをしていたほどだ。
高等小学校を出た後、大阪へ働きに出た。鉄道員になるのが夢だった。奄美に鉄道はない。今でいえばパイロットのような存在だろうか。喜界島からの出稼ぎ者が多かった住吉大社の近くに住み、鉄工所でリヤカーを引く配達係などをした。仕事が終わると、夜の10時まで夜学に通ったりもした。
勝田さんのこの進路は、実は当時の喜界島ではごく一般的なものらしい。
日本全体と同じで、喜界島も明治に人口が急増。江戸時代は1万人ほどで推移していた島民数が、明治の末に2万人台へと膨れ上がった。小さな島の人口増加は生活を圧迫する。島外へ出稼ぎにいく人が増え、「大正末頃から阪神方面へ、昭和初期頃から東京方面へと島を離れた。中にはアメリカへ移住した人もいる」と『喜界町誌』にある。
当時の定期船では、大阪や鹿児島への上り便で、喜界島は奄美の島々をめぐった最後に寄った。「奄美でもっとも内地に近い島」だったようだ。
だから、当時の喜界島の子供たちの多くは、小学校を出ると職を求めて本土の商工都市へ旅立ち、青年期を都会で過ごした。昭和の初め頃は、毎年5000人も島を出たそうだ。阪神方面では鉄工所などの工場労働者や船員になる者が多く、東京方面では役所の道路係や土木課などの勤務が多かったというから、この点でも勝田さんは「一般的」だったと分かる。
工場での仕事は楽しかったそうだ。先輩たちから「直志だと下駄の直しみたいだ」と、「ただし」「たーちゃん」の呼び名で可愛がられた、と嬉しそうに話す。休みの日には少し遠出をしたりして、大阪での暮らしを楽しんだ。
大阪で3年働き、徴兵検査に備えて喜界島に帰った。
同じ集落に、20歳の現役入隊を待たずに志願して少尉になった人がいた。兄もすでに出征している。同年代の男性はずいぶん減っていた。いっそ自分もさっさと志願して軍隊で飯を食おうと考えたら、母が止めた。「どうせ必ず行くことになる。なんで今行く? 急がんでもいいじゃないか」。それもそうか、と現役入隊まで待つことにした。それも運だったかもしれない。
小さな喜界島にも戦争の影が濃く落ちていた。
海岸が整備されて海軍不時着飛行場が完成したのは1931年。以来、時おり海軍機が飛来していた。南方の戦局が悪化した1944年5月、飛行場の拡張工事が命じられた。集落ごとに人数が割り当てられ、生徒たちも勤労奉仕した。工事は急速に進み、2本の滑走路がある南西諸島でも有数の大飛行場が完成、9月には飛行場を守る戦闘部隊も駐屯するようになった。
この飛行場ゆえに、沖縄戦が始まってからは毎日のように島も空襲された。米軍が本土上陸の足掛かりとして島を攻略する計画もあったらしい。飛行場は九州から沖縄へ出撃する特攻機の中継基地でもあった。滑走路周辺には今も、九州から持ち込まれたと言われる「特攻花」(とっこうばな)が咲いている。
勝田さんは集落の青年団長を務めた。飛行場の建設工事へ行き、荒れ地を開墾して食糧増産に励む。それ以外にも重要な仕事があった。出征兵士の見送り、英霊の出迎え、慰霊祭の参列である。
集落の男たちを次々に見送った。村葬にもよく参加した。2年先輩の世代はたいてい南方へ行ったきり、戦死公報がきても遺骨は戻らない。そのような戦争であること、自分も征くことは分かっていた。
「召集令状が来た時、どんなことを考えました?」と尋ねてみた。勝田さんは「何も考えないよ。務めだと思っていた」と即答した後、少し考え込んで、「いやだ、とは思ったね」とぽつりと漏らした。
でも、「絶対に死なない」と決めたそうだ。出征する時も、戦場でも、その後の潜伏生活でも、「絶対、死なない。犬死にはしない」と念じ続けた。「名誉の死なんて、戦勝国の話ですよ」と強い口調で断言されたのには少し驚いた。
そして、「絶対死なない、ってね、今でも思ってるよ」といたずらっぽい笑顔で言葉を継いだ。
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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