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分け入っても分け入っても日本語

居眠り・うたた寝

 1973年のヒット曲、アグネス・チャン「草原の輝き」は、私(67年生まれ)と同世代の人ならば、たいてい誰でも歌えるのではないでしょうか。この歌の冒頭は〈い眠りしたのね いつか〉という文句で始まります(作詞・安井かずみ)。少女が、草原でつい〈い眠り〉をしてしまったというのです。
 目覚めたときにはレンゲの花を枕に敷いていたらしいので、歌の中の少女は草に寝転んでいたと考えられます。これが「居眠り」と言えるかどうかは、少々問題です。
「居眠り」の「居」は居ること、つまり座ることです。「居ても立ってもいられない」という場合の「居る」と同じですね。つまり、ことばを分解して考えれば、「居眠り」は座って眠ることです。「草原の輝き」の例は希少例と言えるでしょう。
「居眠り」は、古くは『中華若木詩抄じゃぼくししょう』という書物(原本は16世紀か)に出てきます。日本語学を修めた人にとってはおなじみの本です。中国や日本の漢詩を、当時の一般語を交えて解説したもので、これを読めば、中世の日本語の様子がよく分かります。
 この本には、晩唐の詩人・李群玉りぐんぎょくの「新涼」という詩が載っています。
忽然こつぜんとして坐睡ざすいして夢騰あがり去る〉
 夏の夕暮れ、せみも鳴きやんで涼しくなった頃です。〈忽然として坐睡〉という句を、この本では〈ふっと、居ながら眠るぞ〉と訳しています。〈「坐睡」は、居眠りなり〉とも。やはり「居眠り」は座って眠ることです。
 面白いのは、直後の〈夢騰り去る〉の説明に「うたたね」も出てくることです。
〈「夢騰」とは、眠るともなく、眠らぬともなく、うっかと〔=ぼんやり〕して、うたたねのような心ぞ〉
 つまり、この漢詩に登場する人物は、居眠りをしながら、うとうとと、うたた寝のようにしているというのです。「居眠り」と「うたた寝」は両立するようです。
 こう言うと、おかしいと思う人がいるかもしれません。よく、「『居眠り』は座って寝ること。『うたた寝』は横になって(ただし、布団には入らず)寝ること」と説明されることがあるからです。インターネット上でも、この説明はよく目にします。
 でも、それは本当でしょうか。先の例では、居眠りを指して「うたた寝」とも言っていました。もう少し調べてみましょう。
「うたた寝」は、「居眠り」よりもよほど古く、平安時代から例があります。多くは寝転んだ姿勢を言ったのでしょうが、「居眠り」ということばがなかった以上、座った姿勢で眠ることを「うたた寝」と言っても不思議ではありません。
 横になっていない「うたた寝」の例は、13世紀の「弁内侍べんのないし日記」に出てきます。
長押なげしに寄りかかりてぞ、若き人々、うたた寝ながら明くるまで皆したる〉
 長押というのは、ここでは壁のやや下側にある、寄りかかれるような横木のことでしょう。ここに背中をもたせかけたりして、若い人たちが「うたた寝」をしていたというのです。このように、寄りかかって寝ても「うたた寝」なんですね。
「うたた寝」は「転た寝」とも書きます。ネットなどで「『うたた寝』は横になって寝ること」と説明しているのは、「転」の字に引かれた可能性があります。
 この「うたた」ということばには、まったく別の意味があります。「故郷の変わりようを見ると、うたた感慨に堪えない」などと言います。この場合の「うたた」は、「いよいよ、ますます」という意味。勢いが激しくなることです。
 一方、「うたた寝」の「うたた」は、べつに勢いが激しくなるわけではありません。「うたた感慨に堪えない」の「うたた」とは、意味の上で共通性が見られません。これは別語と考えるべきです。
 では、「うたた寝」の「うたた」とは何か。これは擬音(オノマトペ)と考える根拠があります。後世、「うつらうつら」「うとうと」という、心がぼんやりしていることを表す擬音が生まれます。「うたた」は、音の面ではこれらと似ています。
「うたた」は、2音目と3音目が同じになる「ABB」形式の擬音です。同じ形式の擬音は、今でも「きりり」などがありますが、昔はもっとありました。
「万葉集」では、たとえば「しほほ」という語があります。意味は「しっぽり」と同じで、涙などでれる様子。あるいは、「はらら」。これは今の「ばらばら」に近く、舟があちこちに浮いている様子を描写しています。
 もっと知られた擬音としては、「うらら」があります。「春のうららの隅田川」(歌曲「花」)の「うらら」です。春の日差しなどの穏やかな様子を表します。「万葉集」には「うらうら」という形も出てきます。
「うたた寝」の「うたた」も、これらと同じ形式の擬音だとすれば、「転た寝」ではなく「うたた寝」と書くほうが意味に合っています。
 このように吟味してみると、「『居眠り』は座って寝ること。『うたた寝』は横になって寝ること」という説明は、きわめて粗雑で不正確だということが分かります。「うたた寝」は、ついうとうとと寝ることであり、姿勢は問いません。
 意味の説明で、「Aは○○すること、Bは××すること」と、いやにきれいに対比されているものは、事実でないことがしばしばあります。疑ってかかるのが安全です。
 似たような例で、世間に蔓延まんえんしている説に、「『大笑い』はひとりの場合、『爆笑』は大勢の場合に使う」というのがあります。この説の根拠もまた薄弱です。項目を改めて論じましょう。

爆笑

「爆笑」の意味については、拙著『三省堂国語辞典のひみつ』でも取り上げ、ツイッターでもつぶやいているので、すでに知っている人もいるかもしれません。ここでは、おさらいを兼ねて、この語の変化についての一般的な誤解を解いておきます。
 しばらく前から、「『大笑い』はひとりの場合に、『爆笑』は大勢の場合に使う」という説を、テレビなどで見るようになりました。「ひとりで爆笑」は誤りだというのです。
 これは根拠のない説です。「爆笑」はそう古いことばではなく、昭和時代に入ってから広まった新語の一種です。意味は「吹き出すように大きく笑うこと」。当初から、大勢の場合にも、ひとりの場合にも使われました。ちなみに、「大笑い」も、大勢の場合にもひとりの場合にも使われます。
「ひとりで爆笑」の古い例は、誰でも簡単に確かめることができます。近代の文章を集めたインターネットの「青空文庫」で「爆笑」を検索すると、ひとりで笑っている確実な例がいくらでも出てきます。ここでは2例だけ紹介しましょう。
〈人垣のうしろの方から、無遠慮な爆笑の声がひびいた。フョードル参謀の声で〉(海野十三うんのじゅうざはえ」初出1934年)
〈その時意外にも、法水はこらえ兼ねたように爆笑を上げた〉(小栗虫太郎おぐりむしたろう「潜航艇「たかの城」」初出35年)
 大勢で爆笑する例のほうが多いのは確かです。とはいえ、ひとりで爆笑する例も当初からあったのですから、これを誤用と見なすことはできません。
「『ひとりで爆笑』誤用説」が蔓延まんえんした理由は2つあります。戦後の国語辞典に「大勢がどっと笑うこと」とうっかり書いてしまったものが複数あったこと。また、それをマスメディアが鵜呑うのみにして、きちんとした監修を経ずに広めてしまったことです。
 誰でも簡単に確認できることなのに、どうして正確な事実が知られず、誤った情報がセンセーショナルに伝わってしまうのでしょうか。一因として、ことばに関する情報を受け取る側のリテラシー(知識と能力)が十分でないことがあります。
 ツイッターを見ると、「『爆笑』は本来、大勢でどっと笑うことだったが、最近は誤用が広まり、ひとりで笑っても大丈夫になってきた」といった文章が散見します。誤用だったのが「大丈夫になった」のではありません。事実は逆で、長らく普通に使われていた用法が、最近になって、根拠なく「誤用」と糾弾されだしたのです。
「誤用説」には、根拠不明なまま広まった迷信が多くあります。その真偽は簡単に確かめられる場合もあります。一手間かけて、情報を吟味してみてください。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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